2020年5月24日 復活節第7主日(A年)説教より
私たちは一人ひとりがキリストと共に生活しています。時にはキリストのことを全く忘れて生活していることもあるでしょうし、深く意識して過ごすこともあります。聖書の言葉に、つまりキリストの言葉に頷きながら過ごすこともありますし、キリストの発する言葉に耳を塞ぎたくなるときもあります。私たちの信仰生活はキリストとの共同生活でもあります。その生活を通して、自分がどのような人間であるかが浮き彫りになってくる、そのような一面があります。浮かび上がってきた自分はどのような人物でしょうか。好ましい姿でしょうか。それともあまり見たくない姿でしょうか。
キリストとの共同生活を通して見えてきた自分がどのような姿であっても、キリストは受け入れてくださいます。それが十字架と復活の出来事でした。弟子たちがここぞというときにイエスを裏切った。それは弟子たち自身、知らなかった自分の姿でしょう。そのような弟子たちの只中に、復活したイエスは「平和があるように」「シャローム」といって現れたのでした。私たちがどのような姿であっても、やはりキリストは「平和があるように」といって現れてくださるでしょう。
キリストはそして神さまは私たち人間のことをよくご存知です。それは神さま自身がイエスとなって私たち人間の住む只中に同じ人間として来て下さったからです。そう、クリスマスの出来事です。私たち人間が、どのような喜びを、悲しみを、苦しみを経験しているか、その身をもって知って下さった。私たち人間のことを人づてに聞いたのでもなければ、何か文献をあたって知ったのでもありません。私たち人間と一緒に時間を過ごすことで、その前存在を用いて私たちのことを知ってくださったのでした。だからこそ、私たちがどのような姿のときも、つまり人間として好ましい姿のときも、醜い姿のときも、疲れ切った姿の時でも、「平和があるように」「大丈夫だよ」とそのみ手で包み込んでくださるのでしょう。
それは私たちが真の生命を生きるためです。永遠の命を生きるためです。不老不死のことではありません。イエスを裏切った弟子たちが、心の底から福音を伝える使徒として生きていったように、常に心の渇いていたサマリアの女性が渇くことなく生きるように変えられたように。そしてもちろん、死んでもそれが終わりではないことを知るように。
2020年5月10日 復活節第5主日(A年)説教より
ヨハネによる福音書14:1-14
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」6節
30年ほど前だったと思います。小学生高学年だった私は、心底へたれのくせに悪戯好きでした。何人かで集まっては悪戯を考えていました。しかし、悪戯はただのイタズラでは済まないものもあります。今も数百円入れてレバーを回すとカプセルに入ったオモチャが出てくる「ガチャガチャ」があります。当時は50円か100円でした。しかも、今の機械より作りがシンプルでしたのでズルができたのです。1円玉に紙を巻いて100円玉大にしたものを硬貨の投入口へ入れレバーを回します。するとレバーがずっと回り続けるのです。つまりオモチャが取り放題になるのでした。
偶然発見したこの方法で、いつも行くおもちゃ屋さんの店先のガチャガチャが空になるまでレバーを回していました。しかし、当時の私たちにとっては不幸なことに、偶然通りかかった友人の親御さんに見つかり、こっぴどく叱られました。「ああ、やっぱりこれはわるいことなのだな」と思うと同時に、家に帰ればどれほど親から叱られるかを想像して、何とも言えない心持ちになったことを思い出します。当時の私にとって、その店から家まで心が掻き乱されながらの道中でした。しかし、今となっては見つけて叱ってくださった友人の親御さんに感謝しています。見つかっていなければ、他のお店でも同じ事をしていたでしょう。想像するとぞっとします。
さて、ペトロはもっと大きく心を掻き乱される経験をしました。今日の福音書箇所の一つ前、ヨハネによる福音書13章を見ます。主イエスが弟子たちの足を洗い、また弟子たちに新しい掟として「互いに愛し合いなさい」と告げる箇所です。そしてまた、ペトロの離反を主イエスが予告するか所でもあります。「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスに告げられたときは、ペトロにとってはその言葉は心外だったろうと思います。しかし、実際に身の危険を感じて主イエスとの関係を否認したのち、主イエスの言葉を思い出してペトロは泣き崩れました。まさに心が掻き乱されたのでした。そして、その後すぐに主イエスは十字架刑で命を落とされます。復活された主イエスに出会ったマグダラのマリアは、弟子たちに主のご復活を報告しました。もちろん一番弟子のペトロもその報を受けていたでしょう。しかしその日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて震えていました。自分の師を裏切ったペトロは立ち直れないほどに落ち込んでいたのではないでしょうか。しかし、主イエスはペトロをその状態で放ってはおかれませんでした。ペトロをはじめ弟子たちを再び命の道に引き戻そうと試まれたのです。弟子たちの籠もる家に、弟子たちの真中に現れたのでした。
主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言います。これは決して私たちが自分たちの力だけで主イエスに従え、と言うことではない。主イエスが命の道に導いてくださる。その導きに応えるよう私たちは求められている。
本日の福音書箇所は、葬送式でよく読まれる箇所です。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(2節a)も「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)という主イエスの言葉も、私たちが人生の旅路を終えた誰かを神さまに委ねるとき、よく耳にします。もちろん主イエスはご自身の復活を通して、私たち人間にとっても死が終わりではないことを示されました。だからこそ私たちは死の向こう側にも生があることを知っています。
しかし、本日の主イエスの言葉をよくよく読みますと、これらの言葉は今を生きる私たちに向けて、私たちの生き方について述べていることが分かります。神を信じることは主イエスを信頼することであり、主イエスに信頼して生きることは真の命に至る(父のもとへ行く)ことであり、真の命を知る(わたしの父をも知ることになる)ことだ、と主イエスは言います。
私たちは死を迎えた後に神さまに出会うわけではなく、この世の旅路を歩んでいる今既に神さまに出会っています。「命の道を歩きなさいよ」と促されています。弟子たちが経験した復活のキリストとの出会いと比べると随分スケールが小さくなりますが、先ほどご紹介した私の子ども時代のエピソード。そこで私たちを叱ってくださった親御さんもまた、私にとっては主との出会いの一コマです。その親御さんを通して主が働いてくださった。そのように感じています。
そして現在、コロナ禍の状況にあって、私たちは心から主の導きを祈り求めています。心を掻き乱されています。そのとき私たちは思い出します。主イエスが弟子たちの足を洗われたことを。「互いに愛し合いなさい」と告げられたことを。命の道とは私たちが互いに愛し合うこと、大切にしあうことで、私たちを通して「互いに主に出会う」道であると言えるのではないでしょうか。それは父なる神が私たち人間に望まれている生き方とも言えるでしょう。
復活節も後半に入ります。この復活節、主イエスが弟子たちにどのような生き方を示されたかを想い起こしましょう。
2020年5月3日 復活節第4主日(A年)説教より
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節b)
「わたしが来たのは、みんなにいのちを得させるため、しかも、ゆたかに得させるためである」 (本田神父訳)
・羊飼い
パレスチナでの牧畜生活について、ある書物ではこのように紹介されています。「朝、羊飼いたちは自分が委託されている主人の羊をその囲いから連れ出して、緑の牧草を食べさせ、運動させ、また清い水の流れに導き、乾きをいやし、夕方は間違いなく、主人の囲いへ連れ帰る。これが羊飼いの一日の労働であり責任である」。
来年の復活節第4主日は今日の福音書の続きが読まれます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスの言葉で始まる箇所です。主イエスの時代、羊飼いは杖一本で獣から自分の羊を守っていました。
主イエスが生活し活動されていたパレスチナには、今も羊飼いがいて羊の世話をしています。その羊飼いについてこんな話があります。ある旅行者がパレスチナを訪れた際、羊飼いの少年に出会いました。少年はたくさんの羊と一緒にいました。旅行者はその少年に、「君の羊は何匹いるの?」と尋ねました。すると少年は「そんなの分からない」と答えました。「なんと無責任な」と質問した人は思ったのですが、少年は続けます。「何匹いるかは分からないけど、一匹ずつみんなの名前はわかるよ。どの羊がいないか、すぐに確かめられるんだ」と少年は言いました。何匹いるかはわからないけど、それぞれの羊の名前がわかる。羊からすればとても心強い話です。
先ほどご紹介したように、今もパレスチナでは羊飼いが羊の世話をしています。主イエスの時代は特に、羊飼いは身近な存在だったことでしょう。しかし、尊敬はされていませんでした。一般的には、律法を守ることができない罪人と看做されていました。そのような羊飼いが、主イエスでありそして主イエスが飼う羊たち、つまり私たちひとり一人に命を得させるのだ、と言います。
・羊の門
「わたしは羊の門である」という主イエスの言葉は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)という言葉を思い起こします。
主イエスは羊飼いとして私たちの生命を守ってくださいます。父なる神のもとへ導いてくださいます。私たちはその声を聞き分け従うことが求められています。その呼びかけに応えるのです。文字通り「全ての人を救う」ことを良しとされる主イエス。祈ることを通して、出会う人に寄り添うことを通して、私たちも主の声に従い全ての人が生かされるよう歩んでいきましょう。
しかし、私たちけがその呼びかけに応えれば良いということでもないでしょう。
・呼びかけに応える、全ての人が応えられるように働く
JBPressにこのような記事がありました。
「 新型コロナウイルスの感染拡大によって、飲食業や宿泊業などは既に大打撃を受けている。緊急事態宣言に伴う外出自粛要請が長引くであろうことを考えれば、今後は製造業を含め、幅広い業種に影響が拡大していくのは間違いない。そんな近未来に身構えている街がある。大阪・西成区のあいりん地区(通称、釜ヶ崎)である。」
「ホームレスなどの自立支援を手がけるNPO釜ヶ崎支援機構など、大阪でホームレス支援をしている団体は4月23、24日に合同で、仕事を失うなどした人向けに、仕事の斡旋や生活保護の申請サポートなどの相談会を実施した。相談会には20代から80代まで、仕事を失った36人が訪れた。」(2020年5月2日https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60375 )
記事には紹介されていませんが、この相談会の前二日間、いくつかの支援団体が集まって夜回りを行い、相談会開催のビラ配りを行いました。釜ヶ崎だけでなく難波から梅田でも夜回りを行ったようです。ネットカフェを出て行き場のない若者が多くいたようですが、皆一様に「まだ大丈夫だから」と答えたといいます。相談会に行く必要性は感じながらも、まだ大丈夫、と支援者の呼びかけに応えることはしなかったのです。
半月ほど前、聖愛教会を訪れた20代後半から30代の青年がいました。事情があり家を出て仕事を求めて大阪に来ました。寮に住み込みで仕事をしたが、余りにもブラックな会社で寮を出てきたそうです。その方と話をする中で気になった一言がありました。「あんな環境でも皆耐えて仕事をしている。出てきた自分にも責任がある」。酷い労働環境下でも他の人たちは耐えている、同じように我慢できない自分が悪いのだ、と彼は言ったわけです。今の社会に蔓延する自己責任論の弊害だと感じました。
先ほどの夜回りで、支援者の呼びかけに応えなかったまたは応えられなかった人々も同じように、現状のしんどさは自己責任だから、との思いを少なからず持っているのでしょう。弱さを見せることを良しとできない、「助けて」と言えない、他者からの呼びかけに応答することに罪悪感を持つ、とても息苦しい世の中ではないでしょうか。
「わたしが来たのは、みんなにいのちを得させるため、しかも、ゆたかに得させるためである」と主イエスは言います。そこには、「私に頼って良いのだよ。私の呼びかけに応えて良いのだよ」との声があります。呼びかけに応えることができる恵み、それは弱さを見せて良いのだという恵みでもあります。主イエスは、全ての人に福音を宣べ伝えるよう弟子たちに命じました。それは、主イエスの呼びかけに私たちが応えることであると同時に、全ての人が主イエスに頼って良いのだ、呼びかけに応えて良いのだ、という環境を社会にその道筋を整えることでもあるでしょう。
「わたしが来たのは、みんなにいのちを得させるため、しかも、ゆたかに得させるためである」