2020年11月29日 降臨節第1主日礼拝説教より 於:大阪 聖愛 教会
(マルコによる福音書 第13章24節~37節)
「目 を 覚 ま し て い な さい 」
いよいよ降臨節に入りました。「降臨節」はラテン語では「Adventus アドヴェントゥス」(英語ではAdvent アドベント)は、「到来」を意味する言葉です。およそ2000 年前にイエスが世に来られたことを思い起こし、また神の国が到来する時、主イエスが栄光のうちに再び来られることに思いを馳せる季節に入りました。この二重の「到来」とそこに向かう私たちの姿勢としての「待ち望む」が、この季節のテーマとなります。第一主日には毎年、先主日教会暦の最終主日のテーマを受け継いで「目を覚ましていなさい」という、神の国に向かう姿勢を指し示す言葉が読まれます。3年周期の聖書日課はB年が始まり、主にマルコ福音書が読まれます。
マルコ福音書11-12 章はイエスのエルサレムでの活動を伝えています。イエスは神殿の境内で当時の有力者たちと向き合いますが、イエスは彼らの中に真実なものを見いだすことはできませんでした。神殿で見かけた人々の中で唯一イエスの心を打ったのは、レプトン銅貨2 枚という自分にできる精一杯のものを神さまにささげた貧しいやもめの姿だけでした。イエスはこの貧しい女性の姿に真実を感じて、神殿を後にします。
しかし弟子たちは違いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と弟子の一人が叫びます(13章1節)。弟子たちは、エルサレムの都にそびえる神殿のすばらしさに心を奪われていました。これに対するイエスの答えは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13章2節)というものでした。つまり、イエスはこの神殿もいつか滅びるものであり、本当に頼りになるものではない、と言うのです。そしてオリーブ山の上からエルサレムとその神殿を見ながら語るのが、13章5-37節の長い説教です。イエスは目に見えるものではなく、目に見えないもっと確かなものに弟子たちの目を向けさせます。この説教の中には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)という言葉があります。
マルコ福音書で「目を覚ましている」とは、目に見える、滅びゆくものではなく、目に見えない、本当に確かなもの、決して滅びないものに心を向けていることだと言えるのではないでしょうか。最初にご紹介した水木しげるさんのことばを思い出してください。「今の人は目に見えるものしか信じない。世の中が便利になるほど人は目に見えない大切なものを忘 れてしまうんだよ。」 そのことで、不安に陥り、しあわせになれないでいるのではないか。
今、わたしたちは新型コロナウイルスという私たちの眼には見えないものに翻弄されています。その中で何を真実なもの、何を本当に信頼すべきものだと思っているか、そう問いかけられていると言っていいのかもしれません。今年もまた降臨節を迎えました。静かな降臨節、クリスマスになるでしょう。幼子イエスを見つめつつ、決して滅びない聖書の言葉を味わいながら、「目を覚ましていなさい」という呼びかけを胸に降臨節を歩みだしましょう。
(アンデレ 磯 晴久主教)
2020年11月22日 降臨節前主日礼拝説教より (於:大阪城南キリスト教会)
(マタイによる福音書 第25章31節~46節、エゼキエル書 第34章11節~17節)
私たちの共同体、教会の感覚ですと今年の3月末頃から、コロナ禍の影響で礼拝が休止されるなど、大きな変化を体験しました。そして、社会を見ましてもコロナ禍によって皆がバラバラにされてしまったように感じます。マスク不足が報じられますと、皆が我先にとマスクを買い求めました。自分だけを優先したのです。 もちろん、未知のウイルス感染症が起こっているわけですから、不安な気持ちは理解できます。しかし、そのことによって、年配の方や仕事を持つ単身者など店に並べない人、買い求めることができない人が出てきました。また、感染症予防のため家に閉じこもることで過度のストレスがかかり、体調を崩す人も出ました。精神的にも物理的にも私たちはバラバラにされる経験をしています。
このような状況にあって本日の旧約聖書は、神はちりぢりになった羊を探す、そのような働きをすると語ります。もちろんエゼキエル書の背景と私たちの現状は異なりますが、このような現状であるからこそ私たちは希望を受けます。そして、神の働きに参与する私たちはどのように生きるかを福音書は示します。主イエスは譬えを用いて「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言います。
バラバラにされている私たちが一つにされる。そのような神の働きは、私たちが常に「自分だけ」でなく「あの人やこの人」に目を向ける中で行われるのだ、と本日の日課は語ります。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年11月15日 聖霊降臨後第23主日/子ども祝福礼拝説教より
(マタイによる福音書 第25章14節~15節、19節~29節)
南米のアンデス地方に「ハチドリのひとしずく」という民話があります。15年ほど前に日本でも紹介されて有名になったお話です。
動物たちの住む森が火事になりました。火が燃え広がる中、動物たちは慌てて森から逃げ出します。しかし一羽のハチドリ、クリキンディは小さなくちばしで水を一滴ずつ運んで火に落としていきます。「そんなことをしても無駄じゃないか」という動物に、クリキンディは答えます。「私は、私にできることをしているのです」。正確ではないかもしれませんが、このようなお話でした。
その後、森がどうなったのか、また他の動物たちがどのように行動したのかは描かれていませんが、ある児童番組では、クリキンディの言葉に心を動かされた動物たちが一緒に水を運ぶ姿が描かれていました。とても胸が温かくなる解釈です。そして、森の動物が力を合わせて火が消える。そのような結末であればいいなと、その番組を観て思っていました。
今日の福音書では、主イエスが語った譬えが読まれました。主人が僕たちにそれぞれお金を預けて旅に出ます。主人が帰ってきて、それぞれに預けたお金がどうなったかを僕たちに尋ねますと、そのお金をもとに倍にした僕がいる一方で、預かったお金を失うことが怖くて隠していた僕がいました。主人はその僕を叱ります。
お金の単位は「タラントン」とあります。今の日本では、千円が十枚で一万円ですが、タラントンは六千デナリオンです。一デナリオンは、一日働いたお給料分だそうですから、一デナリオンを単純に一万円とすると、一タラントンは六千万円です。この僕たちはとてつもない額を預かっていたのでした。
私たちは、自分の力はとても小さいと感じることがあります。そして、実際に一人でできることは限られています。しかし、小さな力であっても実は大きな力を神さまから預かっています。ハチドリはひとしずくずつ、水を燃える森に運びました。それはとても小さな力でしかありません。しかし、ハチドリの行動と言葉は他の動物の心を動かしました。それは、ハチドリのとても大きな力です。それぞれの小さな力は一つの大きな力へと帰られるのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年11月8日 聖霊降臨後第23主日礼拝説教より (於:聖ガブリエル教会)
(マタイによる福音書 第25章1節~13節)
同じ「待つ」行為でも、時々の状況によって待つことの困難さは異なります。待っている対象がとても楽しみなことで、いつまで待てば良いのか期限を把握できているなら、その時を待つことはそれほど難しくないでしょう。宅配便のように、何時から何時までの間に荷物が届きますと、期限が多少あいまいでも時間の目安があれば、安心して待つことができます。
しかし、「それは必ず来るのだけれども、その日がいつかはわからない」といった約束事であれば、どうでしょうか。とても不安になるでしょうし、途中でくたびれてしまうかもしれません。今日の福音書で主イエスが語る花嫁たちは、ちょうどこのような状況に置かれていました。いつ来るともわからない花婿を、ひたすら待っていたのです。このような譬えを通して、主イエスは常に備えて待つことの重要性を示します。
ある司祭さんは、信徒さんからいつ何時「お話しをしてください」と言われても対応できるように、常に説教ノートを持ち歩いているそうです。普段は特に必要とされないものですが、それでも誰かがふとお話を聞きたいと思うかもしれません。その方に対応できるように、との備えなのです。
この司祭さんのように、神様は私たち一人ひとりを神の国へ迎えるため常に備えてください。主イエスは「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14:3)と言います。それが何時なのか、私たちにはわかりません。しかし、常に私たちのために備えをしてくださる主を信じるからこそ、私たちも神の国(神が治められる状態)が来る時を、常に主への信頼の心を持ちながら待ちたいと思うのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年11月1日 諸聖徒日/逝去者記念礼拝
(マタイによる福音書 第5章1節~12節、シラ書 第44章1節~10節)
今日は、聖愛教会に連なる逝去者、神さまの御許に帰られた方々を憶えてご一緒に祈りを献げる、そのような日です。毎週の礼拝でも、その週の逝去者を憶えてお祈りをしますが、今日は聖愛教会に連なる全ての方を憶えます。その方々は、皆さんのご家族であると同時に、教会から見ると、信仰の先輩ということができます。教会の逝去者は、信仰という一点が共通事項です。勤め先も、出身地も、世代もバラバラです。しかし、信仰という点が彼らと私たちを繋げています。
今日の旧約聖書にあったように、歴史を振り返ると後世に名を残す人もあれば、記録に残らない人もいます。おそらく後者のほうが圧倒的に多いでしょう。しかし、歴史は名を残した人だけによって築かれてきたわけではありません。だからこそ、聖書は語ります。「しかし慈悲深い先祖たちの/正しい行いは忘れ去られることはなかった」と。これは教会が大切にしていることでもあります。常に憶え続けることです。
「慈悲深い先祖たちの/正しい行い」、これは「信仰」と言い換えることができるでしょう。私たちが今日の礼拝で憶える人々に共通するのも、信仰を持つ方々である、ということです。「信仰」、わかるようでわかりにくい言葉です。今日の福音書に「心の貧しい人々は、幸いである」との主イエスの言葉がありました。「心の貧しい人」、これは否定的な言葉ではありません。これは「神に頼り切る人」という意味です。今日私たちが憶える方々に共通することです。
神に頼り切る人、それは自分が絶対ではないと知る人です。そして、様々な出来事やものに神の働きを感じる人です。信仰の表し方に絶対はありませんし、同じ出来事であっても、その人の置かれている状況によってメッセージは異なります。私たちは、逝去者一人一人を振り返る中で、その人が大切にしていた信仰の形も振り返りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)