8-コラム歴史景観の残存谷中分水界と古い道

コラム 歴史景観の残存-谷中分水界と古い道-

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【歴史景観の残存-谷中分水界と古い道-】

谷中分水界の丁度その位置が8つの道路の起終点となる5差路(大正6年測量旧版1万分の1地形図「大久保」による。明治15年測量迅速図でも同じ。)となっていて、地形と道ネットワークの関係が特徴的です。

谷中分水界の5差路と結ばれている場所

この5差路(現在の6差路「花見川三小西側」交差点と同じ位置)に関わる8本の道路がどこと結ばれていいるか、旧版図等調べてみました。

谷中分水界の5差路

基図は旧版1万分の1地形図「大久保」「三角原」

Aは南方向の馬加(幕張)と結ぶ道路です。この交差点から300m程だらだら坂を下り、その後12~3mの崖を降りると猪田谷津の沖積地になります。その沖積地を台地縁に沿って歩けば、再び坂を上ることなく馬加まで行けます。そこから東京湾に出航できます。

Bはいわば地域の生活道路であり、幹線機能はないと考えます。

Cは東北方向に連続的に分布する湧水地帯を結ぶ道路です。この道路を利用して滝ノ清水を経て三山、田喜野井、飯山満方面に行くことができます。この道路は5差路を経てもともとHに連続しているものと考えます。

Dは北の大和田と結ぶ道路です。高津新田を経て高津川沿いを行きます。

Eは地域の生活道路であり、幹線機能はないと考えます。

Fは横戸の弁天経由で志津や佐倉と結ぶ道路です。芦太川の谷底をだらだら降り、途中で台地を横切り花見川に出るルートです。

GはHの補助道路のように考えます。Hが男坂、Gが女坂のような役割をはたしていたように想像します。

Hは花島に向かう道路で、花島で花見川を渡り四街道方面に行けます。

このように8本の道路の機能と行き先を考えると、この交差点の主機能は東西方向の道路と南北方向の道路の結節、南北方向の道路の分岐にあるように整理できます。

谷中分水界5差路の交通機能

谷中分水界に交差点ができた理由

東京湾側から人力や家畜を利用して荷物を運んで、猪田谷津の谷頭の崖を登り、各地に行く場合、無駄なエネルギーを消費しないで済むルートの道路が成立することは当然です。

東京湾側からこの谷頭分水界のある芦太川を伝って北方向に行けば、他のルートより高低差の少ない荷物運搬ができたものと考えられます。

また、台地の上に出るには、谷中分水界で台地に上るのが最も効率的です。

谷中分水界の現場に立った時、地形の傾斜があまりにも緩やかであり、現代人の私は自動車利用など文明生活に慣れきっているせいか、荷物を背負って、あるいは家畜に乗せて(引いて)、さらには大八車などを利用して、わずかでも高低差の少ない道をもとめた古代人~近世人の気持ちを生き生きと感得できないことに気がつかされました。

谷中分水界5差路に関する空想

この谷中分水界5差路の南西1Kmには長作築地貝塚があり、縄文海進の海が谷中分水界5差路近くの猪田谷津まで入っていたことが想像できます。

私は、この谷中分水界間近が海で、東京湾から舟で直接近くまで人が来れた時分からこの谷中分水界の交差点があったのではないかと空想します。

縄文人が東京湾側と印旛沼側を往来する一つのルートをここに持ち、また湧泉地帯を結ぶ東西方向の移動ルートも持っていたにちがいないと空想します。

こうした空想を実証する方法があるか、検討していきたいと思います。

古代花見川ルートの復元材料

東京湾側と印旛沼側を結ぶ道路を考えた時、この谷中分水界5差路を通るルート(芦太川ルート)のすぐ東に花見川ルートがあったはずです。

花見川ルートの方が東京湾側と印旛沼側を結ぶ往来のメインルートであったと想像しています。

しかし、近世の堀割普請で古代の道路は消失したと考えます。

縄文時代など古代の花見川ルートの復元について考えるとき、谷中分水界5差路を通るルート(芦太川ルート)の存在は貴重な情報を提供してくれるものと考えます。

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谷中分水界に立地する5差路(現在の6差路)の名称は、現在は「花見川三小西側」です。

この交差点は花見川三小ができる前からあるわけですから、(私は縄文時代からあると考えているのですから)、現在の名称とは別の固有名称がかつてあったに違いありません。

判らないと、知りたくなるのが、人の常です。

現在はこの交差点は花見川区作新台六丁目、同八丁目、天戸町、花見川の4つの町丁目境となっています。

花見川三小西側交差点付近の町丁目区割

作新台の4丁目から8丁目は1987年に長作町と天戸町の各1部を持って設定されたものです。

そこで、長作村と天戸村の字訳図を調べてみました。

長作村の字訳図(部分)

千葉市史史料編9近世p538より引用

谷中分水界が「享保」と「上猪堀込」の境になっています。

天戸村の字訳図(部分)

千葉市史史料編9近世p321より引用

谷中分水界が「道灌堀」と「向原」の境になっています。

近世において、谷中分水界に位置する5差路が2村4字の境となっていて、その区割が名称を変えて、現在まで引き継がれてきていることがわかりました。

近世の4つの字の名称から、この5差路の近世における名称を推測する手がかりは、私は感じることができませんでした。

全くの推測ですが、この5差路に野馬除土手の長作木戸が設けられていたので、木戸は特徴的な地物になりますから、近世のある一時期は「長作木戸」がこの5差路の名称になっていたかもしれません。

この5差路の固有名称が文献上現代に伝わってきていない理由は、(少なくとも定番の資料[「絵にみる図でよむ千葉市図誌」や千葉市史史料編等]では分からない理由は)次のように想像します。

1 街道の南北方向移動ルートとしての機能が近世になり虚弱になってしまったこと。

・東京湾側と印旛沼側を結ぶ交通路としての役割は、隣接する花見川筋とこの5差路のある芦太川筋はもともと競合していて花見川筋の方が総合的には有利だったと考えます。芦太川筋は裏街道的な役割を担っていたと考えます。(花見川筋の方が陸路区間が短く、峠の高低差も少ない)

・近世になり、印旛沼堀割普請というプロジェクトが繰り返され、それにともない東京湾側と印旛沼側の移動のメインルートが花見川筋に定着し、芦太川筋の街道としての役割の凋落が決定づけられたと考えます。

2 谷中分水界(交差点)の土地利用上の変換点を示す役割の重要性が希薄になってしまったこと。

・明治以降、開拓がすすみ、開拓地(耕作地)と牧(あるいはそれ以前の原野)の境という境界機能の重要性が、この谷中分水界(交差点)から徐々に失われていったと考えます。

この5差路の固有の名称を気長に調べたいと思っています。

とりあえず、花見川第三小学校(1972年開校)が開校する前のこの交差点の名称を調べてみたいと思っています。

古い道路地図等が見つかればわかるのではないかとタカをくくっています。

しかし、そもそも公共図書館等が40年前の道路地図や住宅地図をコレクションしているか?

なお、上記天戸村の字訳図(部分)には5差路近くの道灌掘に神社の印があります。

この神社について、千葉市史史料編9近世では次のように記述しています。

「享保15年(1730)、字道灌堀に稲荷神社を本村内から勧請創建。」

現在この神社はありません。

その敷地と思われるところは、現在の6差路に面した土地でコンビニになっています。

この記述を読んだ時、お屠蘇の酔いも手伝って、私の頭脳は自動運転を開始し、次のような白昼夢が始まりました。

「もともとこの5差路には縄文時代以来の人々の気持ちを引き継いで建てられた、いつの時代のものかは別にして、土俗的な石神があったに違いない。

享保年間に長作村字「享保」の開拓がはじまり、天戸村の農民もその開拓に関わった。そして、その開拓成功を祈念して、それまでの村域と新規開拓地の境界にあった石神のある神聖な土地に神社を勧請して、その土俗的な神聖さを近世的神道の神聖さに格上げした。

何もない場所に神社を勧請することは不自然で、5差路に人々の土俗的信仰対象が既に存在していたからこそ、その場所に神社が勧請された。

その後字「享保」の開拓地は荒廃し、この神社の役目も減った。

時代は変わり、現代では、神社は消失したけれども、その地割だけをコンビニ敷地として伝えている。」