4-1-1野馬除土手

4-1 小金牧

4-1-1 野馬除土手

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【野馬除土手】

陸上自衛隊習志野演習場(2.5万地形図)

習志野演習場区域の旧版地図

(1/1万地形図「習志野原」大正6年測図)

花見川の本川筋、支川筋の散歩をほとんど済ませたとき、陸上自衛隊習志野演習場内に入っていないことが気がかりになりました。そこで、陸上自衛隊習志野駐屯地に電話で、「個人の趣味で花見川流域を歩いている。自衛隊演習場内も歩きたいので許可してほしい」旨お願いしました。結果は車で案内していただけることになりました。近隣住民に対するサービスのよさに感心しました。

当日は所定の時間に習志野駐屯地に出向き、そこから案内の方(第1空挺団第1科広報幹部)、運転の方、私の3名で演習場に向かいました。

第1空挺団の方に案内していただいた

最初に自衛隊および周辺住民の方が現在「マムシ森」、「マムシ沢」と呼んでいる場所に出向きました。ここは大正6年測量の旧版1万分の1地形図で「境谷」と記載されている谷です。私が仮称でつけた北高津川の上流部です。

マムシ森付近をはじめ演習場内にはキジ、ヤマドリ、タヌキ、ノウサギなどが生息しているとのことです。私もヤマドリが5羽が道路脇の樹木下の影にいて、近くまで自動車が近づいても特段逃げ出さないのことに驚きました。市街地の中の野生動物生息孤島になっているようです。

一方、空挺団はここでサバイバル訓練(自活生存訓練)をしていて、ヘビなどの小動物を採って食べることもあるとのことです。隊員が作った手作りの生きもの供養塔もありました。

マムシ森

この谷には常時水があり、演習場出口付近にはたまり水になったところがあります。ここには魚がいると説明を受けました。

また、古い土手があります。旧版1万分の1地形図をみると土手が北高津川に沿って延びています。現地でもかなりの土手が残っている印象を受けました。

青木更吉「小金牧を歩く」(崙書房、2003)によれば、この水溜りはかつての野馬の水のみ場で、土手は小金牧の野馬土手だそうです。

野馬の水飲み場だった水溜りと野馬土手

北高津川と高津川の中間付近は高津森という名所の立て札があります。

高津森

高津川の支流は旧版地形図では大和田谷となっていますが、現場の立て札でも大和田谷となっていました。

草刈された自然地形を利用して空挺団の落下傘降下訓練が行われているとのことです。降下高度はヘリコプターの場合は400m、固定翼機の場合は4000m降下もあるとのことです。

大和田谷付近の地形を現場で確認すると、旧版地形図の地形とも一致し、大規模な地形改変はないように感じました。本来の台地上の浅い谷という自然地形がそのまま残されていることは大変貴重であると考えます。

大和田谷

落下傘降下訓練

大和田谷の近くに馬頭観音があると説明を受けた塚があります。塚の上には庚申塔があります。旧版地形図にもこの塚は出ていて、塚上には墓の記号が書いてあります。

庚申塔がある塚

大和田谷の下流は人家も近く、降下訓練には利用されていないようです。

大和田谷の振り子橋

なお、見学当日にはバズーカ砲を持った隊員が、地上戦を想定したような訓練をしている現場も見かけました。

また、案内していただいた広報幹部の方から、習志野駐屯地の「習志野」の由来についてお話を聞きました。(内容は別記事で紹介します。)

帰りがけには「第1空挺団 –精鋭無比-」というパンフレットをもらいました。自衛隊のパンフレットは始めてで、大変興味深い内容が書いてあるものでした。

第1空挺団のパンフレット

現在(平成23年4月11日)、第1空挺団は約1000名の隊員を被災地に派遣し、救援物資の輸送支援や、原発から20~30km圏内にある施設(病院、養護施設)や居住者の細部状況を確認しています。(第1空挺団ホームページより)

国民の期待に応える自衛隊の活動に感謝します。

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迅速図(明治前期測量2万分1フランス式彩色地図-第一軍管地方二万分一迅速測図原図-)は首都防衛のために陸軍が明治15年ごろ作成した地図です。この地図に視図(しず)と呼ばれるスケッチが描かれています。「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅には視図として馬防土手が4点掲載されていますので紹介します。

このスケッチは行軍時の作戦上重要な地物を描いています。馬防土手は軍馬運用上の軍事情報として掲載されたものと考えられます。しかし、小金牧の野馬土手がほとんど失われた現在、このスケッチは貴重な文化財情報になったと言ってよいと思います。

次の地図範囲はほぼ迅速図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅を表しており、迅速図に掲載されてる馬防土手を抽出しています。また、視図位置を示しています。

迅速図の馬防土手分布と視図位置

次に馬防土手の視図を示します。

ニ 実籾村馬防土手

3.8mと2.5mの高さが示されています。

ホ柏井村馬防土手

6.0mと4.0mの高さが示されています。

ヘ 柏井村字大堀馬防土手

4.2mと2.8mの高さが示されています。

ト 高津新田馬防土手

4.0mと2.5mの高さが示されています。

これらの視図から、小金牧の野馬土手は堀(空堀)を伴う2連の土手から作られていたことがわかります。

次の写真は「ト高津新田馬防土手」近くの現在の野馬土手の状況です。

習志野演習場内の野馬土手の現在の姿

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滝ノ清水の地理的位置

二宮神社の話題は前回まででひとまず終わりとします。

二宮神社に興味が湧いたのは、そこが印旛沼側水系と東京湾側水系の分水界地帯であり、有力な湧水場所であったため、それを活用した歴史的人文的事象が現在も残っていたからでした。

二宮神社と同じような湧水として、二宮神社から東南東約2.8㎞の地点の長作川谷頭に湧水がありましたので、この湧水(「滝ノ清水」)について、複数の記事にして紹介します。

滝ノ清水の位置は次の通りです。

滝ノ清水の位置

千葉市DMデータ、習志野市DMデータによる。

残念ながらこの滝ノ清水は平成になった頃埋め立てられて、現在はありません。

現在の滝ノ清水跡の状況

左が谷津、右が台地

大正6年測量の旧版1万分の1地形図「大久保」には滝ノ清水の姿が池として描かれています。

旧版1万分の1地形図「大久保」部分

池の大きさをGIS上で計測すると、周長64m、面積270平方mとなりました。

滝ノ清水の東台地には大きな凹地があり、この清水の地下水涵養場所であることを想像してしまいます。

また滝ノ清水から野馬土手が南東に延びています。

滝ノ清水付近の現在の地形は次のようになったいます。

滝ノ清水跡付近の現在の地形

5mメッシュをカシミール3Dで運用。レリーフの段差は1m。

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滝ノ清水跡に次の説明板があります。

20年前の平成3年3月に協力:房総の牧研究会・千葉市教育員会の連名で作られたものです。

風雪の中で文章が読みづらくなっていますが、貴重な情報が書かれていますので、紹介します。

野馬の水呑み場「滝ノ清水」跡 説明板

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野馬の水呑み場「滝ノ清水」跡

所在地:千葉市長作町

この辺りは、里の人が「滝ノ清水」とか「神社の池」と言っている野馬の水呑み場跡で、池の深さは約1m“青玉が立つ”程に豊かな水が湧き、V字形の割れ目より余り水が谷の方に流れ落ち、昔からどんな日照り続きでも涸れた事がなかったと伝えています。

この池に水を呑みに来た馬は、徳川幕府が下野牧に放牧していた野馬で、日本古来から生息している背丈1.2m程の小さな馬でした。池は、当初円形でしたが野馬の里入りを防ぐため元禄2年(1689)三方を土手で囲みました。この牧場を管理していた金ヶ作(松戸市)の役所は、牧内の水が日照りで涸れた時隣接する野付村より2人づつ日割りで動員して、この池の水を所々に置かれた樽に運ばせて野馬に呑ませました。又、年一度の池底の砂すくい作業も野付村農民の仕事でした。

平成3年3月

協力:房総の牧研究会

千葉市教育委員会

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この説明板のイラストを拡大して示します。

宝暦6年頃の想像図

青木更吉著「小金牧 野馬土手は泣いている」(崙書房)にはこの滝ノ清水と付近の野馬土手について詳しい説明があり、上記イラストの原画も掲載されています。

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下野牧の名残り「野馬除土手」 滝ノ清水跡のすぐ近くに野馬除土手が現存しています。

現存する野馬除土手(正面)

2つの土手により構成されている野馬除土手

2列の土手になっているのですが、どうしてもそれを表現する写真をとることができませんでしたので、組写真にイメージを書き込みました。

地図には溝として表記されています

千葉市提供DMデータ

ここにも千葉市教育委員会の説明板がありました。興味ある記述ですので、転載します。

千葉市教育委員会の説明板

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下野牧の名残り「野馬除土手」

千葉市長作町

この「野馬除土手」は、江戸幕府の牧場である「小金牧の内下野牧」(南は花見川団地、北は鎌ヶ谷市に続く原野)の野馬が外へでないように隣接する村々の農民が築いたものです。

下野牧には約2.300疋の野馬がいたようです。

この土手は、溝を掘り、土を左右に盛って築いたもので、野馬土手、野馬堀、道灌堀とも言われています。

下総の牧場の歴史は古く、平安時代に編纂された延喜式に下総5牧の名があります。その一つ「高津牧」は習志野原をその地にあったと推測されます。

徳川幕府は下総の東に佐倉牧、その西に小金牧、安房に峯岡牧、駿河(静岡)に愛鷹牧を置き、それぞれに内牧を設けて野馬を捕える「捕込」場を造りました。鎌ヶ谷側に下野牧の捕込場跡があり、年1度の「野馬捕り」行事は人気を呼び、見物人で賑わいました。

捕えた野馬は良馬を献上馬とし、他は駒、小荷駄用、農耕馬用として払い下げられました。農耕馬は農村の経済に大きな影響を与え、「馬の半稼ぎ、馬の半身上」と言われるほど役立っていました。 (協力:房総牧研究会 千葉市教育委員会文化課)……………………………………………………………………

説明板のイラスト

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次の絵図は小金牧絵図(部分)(鎌ヶ谷市教育委員会所蔵)で江戸時代末期につくられたもので、土手の分布と木戸の所在名称等が記載されているものです。

小金牧絵図(部分)(鎌ヶ谷市教育委員会所蔵)

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)p459より転載

この絵図の記載内容を旧版1万分の1地形図にプロットしてみました。

土手の位置は旧版1万分の1地形図と迅速図から迷うことなくプロットできます。

小金牧絵図内容のプロット図

基図は旧版1万分の1地形図「大久保」「三角原」

このプロット図から、谷中分水界の場所は長作木戸がある場所であるとともに、西に拡がる「下野牧之内野馬入場新田」と「天戸入御囲入場新田」の境界土手の起点ともなっていて重要な役割を果たしていることがわかります。

谷中分水界の場所がこのように近世の土地利用上重要なキーポイントとなった理由は、谷中分水界という特異な地形特性を巧みに利用した道がそれ以前から発達していて、その道が野馬除土手以前から土地利用上の境界となっていて、その境界に野馬除土手が構築されたからだと考えられます。

次の絵図は1676(延宝4)年成立の高津新田が見られないことから、それ以前の作成と推測されている「小金牧周辺野絵図」(県立中央図書館所蔵)の部分です。

「小金牧周辺野絵図」(県立中央図書館所蔵) 説明書き込み

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)p576より転載

この絵図では、谷中分水界が、天戸村が囲った「天戸野馬入」、長作村が囲った「長作内野」とどの村からも囲われていない土地の3つの利用(所有)関係の境界点となっていることがわかります。

また「天戸野馬入」と「長作内野」の北側の境は谷中分水界を東西に通る道そのものであると推測できます。

また、すでに「コホリ」と書かれていて、小堀が存在していたことがわかります。

この絵図の情報(どの村がどの土地を囲っているか)等を基に、どの村にも囲われれていない土地に小金牧が作られたと考えられています。(「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」[千葉市発行]の説明に基づく)

なお、野馬除土手の形状が迅速図に「視図」として掲載されているので、次に引用します。

(二)と(ホ)の位置は上記「小金牧絵図内容のプロット図」にプロットしてあります。

野馬除土手の形状

迅速図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅視図(明治15年測量)

図中の数字の単位はm。

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仲東谷津と芦太川合流部付近は高津新田遺跡となっています。

千葉県教育委員会のWEB「ふさの国文化財ナビゲーション」によると次のような情報を得ることができました。

遺跡名:高津新田遺跡

所在地:八千代市八千代台南字不明2-4他

種別:包蔵地、集落跡、牧跡

時代:旧石器、縄文(早)、奈良

立地・現状:台地状・畑、山林、宅地

遺構・遺物:住居跡、空堀、土塁、野馬堀、溝・尖頭器、縄文土器、土師器、陶器、泥面子

文献:文36、38

備考:大請遺跡を含む、八千代台南遺跡と高津新田野馬堀遺跡を統合、s60、H2、4年調査、一部消滅

ふさの国文化財ナビゲーションの検索画面

高津新田遺跡について、「八千代市の歴史 通史編 上」(八千代市発行)には次の説明が載っています。(p121)

「八千代台駅から約800mほど南の八千代台南二丁目周辺一帯は高津新田遺跡として知られているが、平成4年7月、遺跡の一部が宅地造成されることになり発掘調査が行われた。調査の結果、市内で最古となる竪穴式住居跡が発見された。

住居の規模は、長径4.2m、短径4.0mのやや変形した四角形で、壁際にそって多数の小柱穴がめぐらされているほか、中央部には屋根を支える支柱穴が数か所あり、建築面積は約16平方mである。

また、夏島式土器や稲荷台式土器のほか、同時期を考えられる有舌尖頭器1点、石鏃5点、石片などが出土している。」

私が円錐体地形と呼んだ仲東谷津の水流が形成した一種の河岸段丘は、南東向きの緩斜面で日当たりがよく高燥であり、かつ仲東谷津や芦太川の水場に近く、旧石器時代、縄文時代から恰好の居住場所として利用されてきたことが、上記情報から判ります。

なお、牧跡(高津新田野馬堀遺跡)は円錐体地形ではなく、仲東谷津の南側の台地にあります。(文36「千葉県八千代市市内発掘調査報告平成2年度」、文38「千葉県八千代市市内発掘調査報告平成4年度」)

近世になっても、二つの浅い谷が合流し、そこが谷頭浸食部となっているというこの附近の地形要衝としての特性が、牧境として利用されてきたことが判ります。(2012.1.2記事「谷中分水界と野馬除土手」参照)