5-4-3竹林

5-4 印旛沼堀割普請に関連する地理事象

5-4-3 竹林

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【竹林】

掘割斜面に密生するマダケ

マダケの林内

柏井橋付近から花島公園にかけての掘割の右岸斜面に竹林が特徴的に分布しています。水面に倒れている部分もあり、密生して生えています。斜面でもあり、人の管理は行われているようには見えません。

竹の種類はマダケです。散歩していて、この竹林は掘割普請のときに斜面崩壊防止のために植えられた防災竹林の末裔ではないかという仮説が思い浮かびました。マダケの寿命が約120年で、天保の掘割普請(1843年)から現在まで168年ですから、仮に天保掘割普請のときにマダケが植えられたとしても、そのまま生き残っているということはなく、2代目以降が同じ場所に生きていると考えられます。もしかしたら享保期、天明期のものかもしれません。

現代のように便利なコンクリート製品がない時代に、竹を自生させることは、その根で斜面を安定させる格好の土木工法だったのだと想像しました。

この付近にはマダケ以外の竹も沢山分布しています。

サイクリング道路沿いのモウソウチク

サイクリング道路沿いの笹

付近の人家の屋敷林の一部や平地にはモウソウチクの竹林があります。マダケと較べると林間が空いています。竹の太さもマダケより大きいです。食用としての筍や竹材として利用されたと思われます。

サイクリング道路沿いの近年造成された場所や雑木林の林床には笹が生えています。密生し、4-5メートルになる場合もあります。

次に竹林の現代の分布図を作成してみました。グーグルアースの空中写真上で竹林(モウソウチクとマダケ)を抜き出しポリゴンをつくり、その界線を赤線でしめしました。

花見川沿いでは、竹林は横戸台下流端の下付近から分布しています。花見川の斜面に高い密度で分布していることがわかります。なおこの図では台地上の竹林や流入する谷津の竹林は表現していません。また、花島橋までの区間のみ表現しています。

この竹林の起源が掘割普請によるという仮説を次に考えてみたいと思います。

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竹林記号分布図

竹林記号分布図(拡大図)

「竹」(室井綽著 1973年法政大学出版局発行)には、山崩れ、地すべり、または河川氾濫の防止に役立つ防水竹林について、日本の代表的な種類として、「東北地方ではアズマネザサ、アズマザサ、本州南部ではハチク、マダケ、小さい川ではメダケ、ネザサ、九州地方ではマダケ、ハチク、小さい河川やシラス台地ではホウライチクが植えられている。」という記述があります。

このような資料からも、掘割斜面のマダケ林が普請の時に防災竹林として植えられたものの末裔であるという仮説がより確からしく感じられてきました。

そこで、この仮説を検証するために、旧版1万分の1地形図(大正6年測図)の竹林記号を柏井付近周辺の4図幅(習志野原、大和田〔上半分は白図〕、大久保、三角原)の隅々まで完全悉皆的に調べプロットしてみました。

上に全体の竹林記号プロット図と柏井付近の花見川沿いを拡大したプロット図を示しました。

この図から次のことが判明しました。

1大正6年の竹林分布は極めて偏在的です。

・竹林(竹林記号で表現されるような一定規模以上の竹林)はどこにも満遍なく分布している植物ではなかったということがわかりました。

・竹林はその必要性があって初めて意識的に植えられたのであり、広く一般に普及している植物ではないということがわかりました。

2柏井付近の花見川沿いに集中的に分布しています。

・4図幅(実態は3.5図幅)の面積58.34平方キロメートルの中に竹林記号は全部で182出現しますが、そのうち柏井付近の花見川沿いに78出現し、全体の43%に及びます。

・このことから、現在見られる柏井付近の竹林分布の密集さは大正6年から継続してきていることが確認できます。同時に、この竹林分布は他の土地利用等と同じく、明治時代以前から継続してきたことを物語っていると言ってよいと思われます。(なお、明治15年頃測図された迅速図には竹林の表現がありません。凡例自体がないように感じられます。また2万分の1という縮尺精度からいっても表現することは無理のようです。)

3花見川沿いでは掘割斜面に竹林が分布しています。

・拡大図からわかるように、花見川沿いでは掘割斜面に竹林が分布しています。

・花見川沿い以外の竹林は街道沿い人家の屋敷林の一部など、ほとんどが平地に分布しています。(高津新田には竹林記号が34集中的に分布していますがここも台地上です。筍栽培地のように想像しますがその密集理由は不明です。)

・このことから自然の谷津斜面について、防災上の理由から竹林を植えることはこの地方では無かったことがわかるとともに、掘割普請(工事)で斜面を削ったからこそ竹林を植えて斜面崩壊防止を図ったことが浮かび上がります。

・国策的ビッグプロジェクトとしての掘割普請だからこそ、このような大規模な竹林造成ができたのであり、住民の日常生活の中で竹林が造成されたのではないことが明らかです。(この分布図からいわば証明されたと言って過言ではないと思います。)

しかし、次に疑問が生じます。柏井付近の花見川の竹林が掘割普請で植えられた防災竹林であることはわかったとしても、それより上流の掘割になぜ竹林が分布しないのか?

この疑問について次に考えて見ます。(つづく)

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上の図は天保の「掘割普請断面図」(鶴岡市郷土資料館寄託 清川齋藤家文書)〔「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)掲載〕であり、古堀筋(天明期掘割普請の跡)の周囲の斜面を掘削して掘割りを作る計画断面を示しています。

この断面を見て、昨日まで竹林の機能と分布限定要因を次のように考えていました。

1竹林は掘削した斜面を安定させるために植えた。(防災竹林)

2柏井付近にのみ分布するのは、この付近は谷底平野があり開田されていたため、水田を守る必要があり掘削した斜面に竹林を植えた。それより上流は水田が無いので、守るべきものがないので、竹林は植えなかった。

しかし、よく資料をみるとこの論理はどうも間違っているのではないかと気づきました。

まず上の断面図は原地形が古柏井川であった部分の断面図のようです。竹林の分布していない普請区間の断面図です。

この区間の工事パースを次に示します。

この絵図は「百川雇丁場堀割之所」(続保定記 山形県平田町 久松俊一家文書、「天保期の印旛沼掘割普請(千葉市発行)」掲載)です。弁天方面から下流方向を眺めたものです。斜面を掘削している様子がよくわかります。この区間には竹林は分布していません。

一方、竹林が分布している区間の工事パースを次に示します。

この絵図は「新兵衛・七九郎丁場化灯の場所廻し堀いたし水をぬぐ図」(続保定記 山形県平田町 久松俊一家文書、「天保期の印旛沼掘割普請(千葉市発行)」掲載)です。柏井付近から下流方向の普請の様子を描いています。谷底で水分を含んだ馬糞のような化灯土と格闘している様子がもっぱら描かれています。化灯の向こうには水田の印(畦をイメージした細線)のある平地があり、その背後に斜面があります。斜面は工事の対象となっていません。この区間の斜面に竹林が分布します。

ということで、今わかったことは次のようなことです。

1斜面掘削された場所に竹林は植えられていない。

2斜面掘削の必要がない谷底平野をもつ自然斜面に竹林が植えられている。

3竹林が植えられている区間では谷底平野に水田があった。また化灯があり、工事に難渋した。

次に参考までに、谷底と竹林記号の位置関係を示します。

花見川谷底(普請前に開田されていた部分)とその谷の斜面の竹林記号の分布が一致します。

現代人の、特に技術者の癖として、竹林成立の理由を合理的に説明しようとします。そこに陥穽があるような気もします。

私は竹林の土砂崩落防止機能からその成立を説明しようとしました。竹林に防災機能があること自体の説明が間違っているとは思いません。しかし、その説明では竹林が水田をまもることになります。そんな必要は全くないような狭い水田です。近隣の水田でそのような防災措置をとったところはありません。

例えば竹林と化灯の間に、現代技術では考えていない関係を当時の人が見ていた可能性もあるように感じます。易学などの影響もあるかもしれません。(想像例「竹林を谷の斜面に植えることによって地下水の流入を減らし、馬糞のような化灯の水分を減らして水路の維持管理を容易にする。」)

結局、竹林の機能とその分布限定理由はもう少し時間をかけて検討することにします。

しかし、一応次のような感想を書いておきます。

1地元の方から竹林の由来を聞けば、もしかしたらこうした疑問は氷解するかもしれない。

2竹林が柏井付近の独自な文化景観であることは間違いなさそうである。

3竹林の成立と掘割普請との間には密接な関係がありそうである。

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前後の記事と関係ありませんが、散歩中気がついたことがありますので、メモとして記録しておきます。

2012.3.27早朝の花見川堀割

写真にあるように花見川堀割にはマダケを主とした竹林が集中的に分布しています。

地図で確認すると柏井付近に偏在していて、堀割普請との関係が暗示され、幾つかの記事にしました。

しかし、竹林偏在分布の真の理由として自分自身が納得できるものは見つかりませんでした。

今朝の散歩中、突然、自分自身が納得できる竹林分布の理由が思い浮かびました。

堀割普請は3回行われましたので、付近の住民は「堀割普請が近々始まり、竹木等の資材の調達があるから、斜面など利用されていない土地に竹林を造成しておき、現金収入の途を作っておこう。普請が終わってもその維持管理で竹が必要なので、コンスタントに売れる。」と思案した時期が3回あったことになります。

3回のうち後2回は普請で竹が大量に使われたという体験をした後のことです。

柏井の人々が土木用材料として、あるいは土木用器具(ざる、かご、鋤簾等)の材料として、竹を売るために竹林を造成したと考えると、私は、竹林偏在分布の第1番の理由がそこにあると、深く納得しました。

なぜ、これまで、このような基本的なことに着眼できなかったのか、自分でも不思議です。

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)をめくると、竹が工事で多量に使われていたことがしのばれる現場や道具・仕掛けの絵図が沢山あります。それらの絵図の竹は細いマダケとみられるものばかりです。

また、幕府側の竹購入や工事終了後の払い下げ記録もあります。

* * *

資材の納入や払い下げの、近隣地域における窓口は柏井村名主川口真右衛門が担っていたようです。柏井村名主に経済的才覚があったので竹林が出来たと考えます。

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2011.6.12記事「タケノコ採り

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