2-6-3-②宇那谷川谷津の巾が広い事実
2-6 宇那谷川本川筋谷津、長沼の地形発達史
2-6-3 宇那谷川谷津の拡大プロセス仮説
② 宇那谷川谷津の巾が広い事実
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【宇那谷川谷津の巾が広い事実】
長沼池について、これまで気がつかなかった幾つかの事象がわかり、現地でも確認し、興味が深まっています。これらは追って報告します。
一方、新たな大いなる疑問が生じ、思考が進まない状況になっています。
長沼池の水面であった部分の現在の地形を微細に検討するために、0.2m間隔の地形段彩図を作ってあれやこれや検討している時、何気なくこの段彩図で広域を見てみました。
同じ地形パターンは何十回となく見てきているのですが、この時初めて、宇那谷川の谷津が異様に広いことに気がつきました。
これまでは、無意識的に「湖沼が出来たから、そうでない谷津と比べると谷津が広く表現される」というようにでも考えていたようです。
0.2m間隔地形段彩図(標高21.2m~24.8m間)
5mメッシュ+地図太郎
長沼池跡の現在の標高が23m前後であることから、長沼池のある谷津(宇那谷川)についてより詳細に検討するため、0.2m間隔で標高21.2m~標高24.8mの間を18区分し、それより上と下を含めて全部で20区分して、作成した地形段彩図
これまで検討してきた横戸1谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津~宇那谷3谷津と比べて、宇那谷川の谷津はその幅が5~6倍の約600mもあります。
長沼池跡のある宇那谷川の谷津の幅がなぜ異様に広いのか、自分の見立てを立てないことには何も手がつかない心理状況です。
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疑問は考え続ければ、どこからともなく回答が出てくるものです。
2012.2.25記事で報告した後、これまで私が意識してこなかった宇那谷川谷津の幅広さの理由について、考え続けてみました。
その結果、自分の見立てを立てることができそうだという感覚をもつことができるようになりました。
歴史時代の長沼池よりもっと広い湖沼がここに存在していたことを物語る証拠に関わる見立てになりそうです。
最初に、宇那谷川谷津が特段に幅広い事実を確認しておきます。
まず3D表現で直感的に見てみます。
宇那谷川筋の0.5m間隔標高区分図の3D表現
地図太郎PLUS+カシミール3D+5mメッシュ
宇那谷川筋が浅い皿のような形状になっていることが確認できます。
上記3D図に用いた0.5m間隔標高区分図にA-B線を引き、横断面図を作成しました。
横断面位置図
地図太郎PLUS+5mメッシュ
横断面図
カシミール3D+5mメッシュ
宇那谷川谷津の谷底幅は、例えば横戸1谷津~横戸3谷津の谷底と尾根を全部合わせた幅になります。
宇那谷川が自らの浸食力で幅広い谷津を作ったとは到底考えられませんから(*)、断面図にみられる宇那谷川の谷津谷底に、本来幾つかの谷津があった(原初宇那谷川とその支谷津があった)と考えるのが妥当です。
また、宇那谷川の谷津谷底は標高が23mで、西側の幾つかの谷津より標高が高くなっています。(横戸4谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津の谷底標高は22m)
こうした事実を手がかりに、現在の地形ではなぜ宇那谷川谷底が幅広くなったのか、私の最初の見立てを記録しておきます。
*花見川流域では、元来、北に向かって下がる地形傾斜によって谷津が形成された。地殻変動により小崖1より南の地域では、小崖1により谷津の出口がふさがれた。同時に、北に向かって下がる地形傾斜が緩やかになったり、逆転して南に向かって下がるようになった。そのため、小崖1より南の谷津は浸食力を失った。
(つづく)