2-8 縄文海進の古地理復元
2-8-2 縄文海進の海は花見川谷津のどこまで入ったか
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【縄文海進の海は花見川谷津のどこまで入ったか】
2011.12.14記事にGROBEさんから次のコメントをいただきました。感謝申し上げます。
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近隣に住む者ですが時々拝見させて頂いております。
気になりる点が有りますが、縄文海進を過大評価されているように感じます。
神場公園近くの低地部で標高7mなので花島以北まで入り江だったという考えには無理があります。
柏井橋は昔橋が必要ない程谷底が浅かったそうです。
311時に亥鼻橋近くの川べりが崩落したのですが、地下2〜3mで真っ黒な淡水性泥炭層に見えました。
ちなみに印旛沼側の縄文海進のMAXは宮内橋付近だそうです。
もう一点 花島観音の場所を指して花島と言われているように感じますが、地元でそのようには言わず、村域全てを指して花島と言います。
既に亡くなった古老から聞いた話では、花島村は大昔別の場所の台地上にあり、風が強すぎるからという理由のため移転したそうです。
言い伝え的な伝承なので理由は正確ではないと思われますが、周辺村に比べ非常に狭い村域から、割り込み的に移転して来たのかも知れません。
ちなみに同古老の話によると花見川は飛び越せる程の小川であったそうです。
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このコメントに関連して、私が理解している事柄をまとめてみました。
1 縄文海進の海が、花見川のどこまで入っていたかという問題
次の地層の柱状図は千葉県地質環境インフォメーションバンクから得たもので、標高を揃えて示しました。
花見川谷底の地質柱状図
地質柱状図の位置
柱状図の位置は下流(左)から花見川大橋付近、花島付近、柏井橋付近を示しており、距離間隔はそれぞれ900m程度です。
この柱状図を私は次のように解釈しました。
A層とB層はN値が1程度であり、C層はN値が50程度で全く異なり、A、B層は沖積層、C層は洪積層(木下層+上岩橋層)と考えました。
つまり、C層の上面が縄文海進のあった時の谷底で、B層が縄文海進が進んでいった時の堆積物と考えます。
縄文海進の最盛期の海面高度は標高2mから3mと言われています。
柏井橋付近のB層は高度的には縄文海進の影響の範囲内です。
細長い内湾奥での海と川の微妙な関係をリアルに想像できませんが、B層下部が海成であってもおかしくないと思います。
川の流域はいたって小さいので、川の影響は少ないと考え、海進最盛期には柏井まで海が来ていたと考えています。
後谷津、前谷津まで海が入っていたと考えます。
A層はいわゆる化灯土で、海が引いて行った時の湿地にできた植物の腐植層であると考えます。
つまり、花島を例にとれば、谷底の標高は次のように変化したと考えます。
最終氷期には谷底の標高は-3m程度であった。
縄文海進の最盛期が終わって、海が引いていった頃の谷底の標高は2m程度であった。
その後谷底の湿地の腐食層の堆積が進み、標高は4m以上になった。
その後花見川の洪水堆積や盛土等により谷底の標高は現在の約7mになった。
私は現在の谷底標高から、縄文海進の海がどこまで入っていたかを厳密に知ることはできないと思っています。
しかし、花見川付近では、貝塚の分布等から、標高10mの等高線のあたりまで縄文海進最盛期の海が入っていたと、便宜的に平面位置を捉えると、いろいろな問題を整合的に解釈できることが多いと考えています。
なお、調べてみると、「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行)には清水作貝塚の記述があります。
また、花見川沿いに縄文遺跡が分布していることから、花見川の奥深く細長く入り込んだ縄文の海と人の生活の関係を調べることにも興味が湧きました。
2 地名「花島」について
資料では、千葉市花見川区花島町は千葉郡犢橋村大字花島(1889年犢橋村村制施行)に由来し、その前は下総国千葉郡花島村です。
今、花島は集落と田畑林全体を指した地名です。
花島観音のあるところだけを「花島」と呼んでいないと思います。(小字名は「中島」であると資料に出ています。)
この町名(村名)の由来は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」によれば、「周囲に水をめぐらした台地上に祀られたことにちなんで称された、花島観音の山号(花島山)に由来すると伝承されている。」とされています。
私は、その「花島観音」「花島山」の「ハナシマ」はどうしてつけられたのか、考えました。
そして、「ハナ」は「ハナミガワ」、「ハナワ」などと同じ語源(突端、出っ張りの意)であり、「シマ」は花島観音のある場所の島状の形状に由来すると考えました。
このような私の仮説を、仮説としてではなく、自明のように記事を書いてしまったので、誤解を与えてしまったのかもしれません。お許しください。
なお、「既に亡くなった古老から聞いた話では、花島村は大昔別の場所の台地上にあり、風が強すぎるからという理由のため移転したそうです。」というお話は大変興味をそそられます。
とても短いものですが、花島村の最初の移住を物語る民話として理解できます。
私のかってな想像では、その台地とは西方向の台地だと思います。
柏井の最初の移住も西側からのものだと、地名の付け方から想像しています。(西側の谷津を前谷津と呼び、東側の谷津を後谷津と呼んでいることから、母集落の方向[西側]を向いて[意識して]地名を付けたと考えました。)
GROBEさんからまたコメントをいただけるとうれしいです。
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GROBEさんからコメント(2011.12.26)をいただきました。(2011.12.20記事「GROBEさんコメントの感想」)
感謝申し上げます。
内容は次の通りです。
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GROBE さんのコメント...
沖積層全てが海進が進んでいった時の堆積物と考えるのは乱暴で、内容を精査する必要があり、周辺部にも視野を広げて調べたところ、TP +-3m以内の沖積層中の貝殻の有無で顕著な違いを見いだしました。
さつきが丘より下流側各点(整理番号12455以西)では存在しますが、花島橋付近より上流側各点(整理番号31747以北)では存在しません。
下流部と同様海水が谷底を満たしていれば生態も同様だったはず。
これにより自分はこう考察しました。
柏井に至る支谷津は、氷期には現在より10m程低い谷底であったが、その後海面が上昇する1万数千年間に再堆積物や腐食質による堆積が進み、海進最高時点に於いては海水が侵入する谷底の状態ではなかった。
Web上の情報では縄文海進に関して、 面白半分で極端に扱われている場合が多いように感じます。
2011年12月26日3:02
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このコメントの感想を述べます。
柱状図で貝殻の記載のある場所は貝塚のある場所と大体重なるので、GROBEさんのおっしゃるとおり、そこにははっきりした海の生態があったことは確実だと思います。
柱状図で貝殻の記載のない場所について、どのように捉えたらよいか、GROBEさんのコメントをきっかけに、考えてみました。
次の図は前回掲載した千葉県地質環境インフォメーションバンクから得た情報に、仮定として、縄文海進クライマックスの標高TP+3mのラインを点線で入れたものです。
花見川谷底の地質柱状図
本当は、地質柱状図の標高比較をするときに、地殻変動の影響を加味しなければならないと思います。柏井付近で隆起し、下流では相対的に沈降するという傾向の地殻変動が縄文海進前から現在まで続いていると言われています。 しかし、その影響の程度を考える材料が見つかりませんので、ここでは、地殻変動の影響はとりあえず無視しています。
縄文海進のクライマックスの標高をTP+3mと仮定します。
その場合、花島南(花見川大橋付近)と花島ではこのクライマックスの海水準より下に沖積層が位置しています。
この沖積層の上面(A層とB層の境)は縄文海進クライマックスの海面の時の海底だと、雑駁ですが、考えてあまり間違いはないと思っています。
つまり、花島南と花島の沖積層(B層)は海面の下に位置したことがある沖積層です。
貝殻の記載はないけれども海成層であると私は考えました。
河成層と考える積極的材料が見つかりません。
柏井橋付近(整理番号32400)の柱状図のB層は有機質シルトとなっており、観察記事として「全体に砂、腐植物を混じる。部分的に砂多くなる。含水中」となっています。
この情報は、ラグーン的環境を示唆しているかもしれないと考えます。
入り江奥の海と川の間には、ラグーン(潟湖、汽水域)のような環境が形成されるのが一般的です。
花見川谷津のような細長く狭い場所で、ラグーンに相当するような海と川の中間的な環境がどのように存在したのか、今後検討することが大切だと思いました。
縄文海進時の花見川と同じような地形の場所が、現在どこかに存在していれば、その入り江の堆積環境を見れば、考察のヒントが得られるかもしれません。