5-3 天保期印旛沼堀割普請の丁場区分、工法等
5-3-2 化灯場
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【化灯場】
天保の掘割普請では化灯(けとう)という軟弱な谷津堆積物が主に花島付近より下流に分布し、工事が難渋したことが有名です。
化灯は化土(けど、げど)とおなじもので、園芸用語としていまでも使われています。weblio辞書園芸用語辞典では化土「アシなど水辺の植物が土の中で腐って堆積し、粘土質になった軟らかい黒土。水持ちがよく粘りがあるので石に植物を貼り付けたり、湿度を保つために使う。 」と説明されています。
「天保期の印旛沼掘割普請」(平成10年千葉市発行)に収録されている「続保定記」(山形県平田町久松俊一家文書)の口絵(絵地図)には化灯場とそうでない場所の記述がありますので、この絵地図の花見川谷頭部分を示したものが上図です。
この図の「元池弁天ヨリ此辺迄砂土ニテ堅キ方也」という記述と「化灯場」の記述が並んでいて、「化灯場」の上限を知ることが出来ます。
この二つの「言葉の位置」を枠で旧版1万分の1地形図にプロットしてみると、次のようになります。
化灯場の上流限界は、は右岸と左岸から二つの谷津が合流する直上流部付近であることがわかります。それより上流は堆積作用よりも侵食作用が卓越する区間だと想像できます。
この図は上図を現代図に置き換えたものです。青い水管橋付近が化灯場の分布上限になります。
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化灯場、貝塚、縄文海進
続保定記絵地図デジタル巻物を使って、早速絵地図に記載されている「化灯場」と「砂地」の文字の位置を地図にプロットしました。続保定記絵地図は普請(工事)の絵地図ですから、工事現場の土質が記載されているのです。
「化灯(けとう)場」とは現在でも園芸で化土(ケド、ゲド)などの用語で使われているように、アシなど水辺の植物が土の中で腐って堆積し粘土質になった谷津堆積物が分布する場所です。掘割普請では掘ってもすぐ崩れるので、工事が最も難航したのが化灯場です。化灯場の工法にまつわる題材は松本清張が「天保図録」で取り上げているほどです。
その「化灯場」は絵地図に7箇所記載されています。現在の柏井橋上流付近から天戸町付近にかけて分布しています。これを赤で表示しました。また「砂地」は4箇所記載されています。亥鼻橋付近から検見川付近にかけて分布しています。これを黄で表示しました。
この情報に貝塚分布図と縄文海進想定図をオーバーレイしてみました。縄文海進想定図は海進想定場所を青系統色で、陸地を緑で表示してあります。
このオーバーレイ図をみると「砂地」と貝塚分布が対応しているように見ることができます。具体的には、「砂地」の最上流部と貝塚の最上流部(坊辺田、神場)が対応しているように見ることができます。「砂地」と貝塚の分布域には、縄文海進のころ海浜の性格が強い環境があったと想像できます。
「化灯場」はそれより上流側に分布しています。このことから、縄文海進のころ湾奥部の後背湿地的環境がそこにあったものと想像できます。
次に「化灯場」の分布が狭い幅の花見川の奥深くに伸びている特異な姿に気がつきます。
なぜこのような「化灯場」の分布になったのか、本来の本流筋(犢橋川筋)から分岐した花見川がなぜ台地深く浸食を進めることが出来たのか、今後検討を深めていくつもりです。
河川争奪が起こったからそうなったと見立てているのですが、なぜこの場所でだけ河川争奪が起こったのか、そのヒントが巨智部忠承の論文「印旛沼掘割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)あたりにありそうだと予感しています。
(なお、巨智部忠承の論文「印旛沼掘割線路中断層の存在」に関連して千葉県総務部消防地震防災課より返答をいただき、2011年3月18日の記事で紹介しました。現在大震災の真最中でそれどころではないと思いますが、将来一段落する時が至ったならば、活断層の可能性と防災について、もう少し私の考えているところを述べたいと思っています。)