2-2 花見川筋の谷津地形発達史
2-2-1 河川争奪現象の見立て
③ 河川争奪がこれまで知られていなかった理由
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【河川争奪がこれまで知られていなかった理由】
花見川河川争奪を知る3 ようやくベールがとれた花見川河川争奪
地形図を見ているだけでは、あるいは現場を歩いても、それだけの情報では、花見川に河川争奪があることをズバリ直感できた人は少なかったと思います。たとえ直感できても証明できません。
その理由は江戸時代の堀割普請により、地形改変(堀割が掘り割られた)があったのだから、それにより、印旛沼方向に流れていた河川が東京湾方向に流れを変えるという、「流域変更」が行われたと考えることが自然の思考だからです。
河川争奪がもともと存在していて、それを活用して堀割普請が行われたと思考することは、決めてとなる情報が与えられていなければ、通常困難です。
このような理由から花見川河川争奪の存在は戦後にいたるまでベールに包まれてきたのではないかと思います。
次の資料は、花見川河川争奪の存在がベールに包まれていた時代に作成された地形分類図です。決めてとなる情報がなければ、地形の専門家といえども河川争奪の存在を識別することができなかったという証拠の一つです。
「土地分類基本調査 佐倉 5万分の1 国土調査」(千葉県、1980)
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「下総国印旛沼御普請掘割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新掘割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼掘割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。
下総国印旛沼御普請掘割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー
この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。
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千葉市教育委員会は近年、地域誌、地域史の調査研究活動を積極的に展開し、その成果の一部は「絵にみる図でよむ千葉市図誌」(千葉市発行)、「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)として結実しています。この千葉市教育委員会の活動で、「小金牧周辺野絵図」の存在が一般に広く知られるようになりました。
小金牧周辺野絵図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」456ページ
この絵図により、その説明に書かれているように、「当時はまだ印旛沼掘割り工事が行われておらず、図では川が完全に分断している。」状況がわかります。この絵図は、柏井で花見川に流入する河川が、江戸時代の印旛沼堀割普請前に既に花見川水系であり、河川争奪を確認できる資料です。
八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。
(2011.10.14 一部追記しました)
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花見川河川争奪を知る10 ようやくベールがとれた花見川河川争奪(追記)
白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の引用文献リストに掲載されていた論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」を読み、白鳥孝治氏が八千代市有形文化財「下総国印旛沼御普請掘割絵図」をヒントに花見川河川争奪を考えていることを知りました。
2011年10月3日記事「ようやくベールがとれた花見川河川争奪」には、千葉市のことしか書かれていないので不十分ですから、次のように文章を追記し、記事の一部を修正しました。
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「下総国印旛沼御普請掘割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新掘割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼掘割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。
下総国印旛沼御普請掘割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー
この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。
八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。
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花見川河川争奪を知る11 絵図から読み取れる興味深い情報
1 堀割普請前の地形記述
論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」は、下総国印旛沼御普請掘割絵図(八千代市指定文化財)について説明したものですが、堀割普請前地形に関する次のような興味深い情報が掲載されています。
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この工事で最も重要で、かつ難工事の箇所である勝田村と花島村の間で新川と花見川を繋げる箇所に、「□□ 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と書かれ、二つの川を繋げるところが約1.4㎞の芝地で、台地と川の水面までの高さ(深さ)が約21mであることが判明した。
写真3 新川と花見川を繋ぐ掘割箇所
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この写真を拡大して読むと、私には「ここより 拾四丁芝地 高○○○尺」と読めました。○○○は画像が不鮮明で確認できないのですが、この論文通りとすると、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」となります。
2度目の普請である天明の普請前の地形の記述が残っていたことを指摘したという点でこの論文は画期的であると思います。
この部分の意味として次の「ア」あるいは「イ」が考えられるように感じました。
ア 地形的凹部の存在を意味に含んでいない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この台地は)ここから拾四丁が芝地であり、その高さは(新川の低地からみて)七丈壱尺である。」
イ 地形的凹部の存在を言外に意味しているかもしれない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この眼前にある堀割は)ここから拾四丁が芝地であり、(眼前の堀割の底面から、先に広がる台地の最高点までの)高さは七丈壱尺である。」
私は、この絵図が堀割の普請のために作られたので、この説明記述を書いた人の視点が(空間位置に台地ではなく)堀割にあるということと、河川争奪後の無能谷がそこに在ったことを想定しているので、「イ」のように解釈することができるのではないかと考えています。
なお、○○○が七丈壱とすると、七丈壱尺=約21mで、新川低地標高約10m、台地最高地点標高約30mですから、値そのものは、その差分とほぼ一致する値です。
2 溜池存在の表現
上記写真の地形説明文章の上に「溜井」という表現で溜池の存在がわざわざ表現されています。村名と同じ字の大きさになっていることから、絵図作成者は溜池の存在を堀割普請の開始地点として捉えていたことがうかがえます。
溜池の存在はそこが谷津の出口であることを想起させます。そのくくり線も北に向かって開いた凹みの開口部を堤防で塞いでいる様子が表現されています。
同時に水田ではなく、溜池になっているということは、その谷津が空谷であることを示しています。
また、溜池の形が谷津の奥深くに伸びた細長いものになっていないことから、その空谷の勾配が、その場所では、急であることを物語っているように感じます。
さらに、表現が溜「池」ではなく、溜「井」になっているところにも注目します。「井」とは「泉や流水から、水をくみとる所」(国語大辞典、小学館)です。溜池表現より溜井表現の方がより流水流入、湧泉の存在を念頭に置いた言葉だと思います。そこが谷津(と言っても無能谷ですが)の出口であることを強く示唆します。
* 印旛沼開削工事は享保、天明、天保の3回行われています。上記記述は最初の享保における印旛沼開削工事で、台地部の堀割普請がほとんど行われていないという前提で思考しています。
余談
なお、溜池は3度目の普請である天保の堀割普請前の絵図にも出ています。
印旛沼干拓工事関係図(部分)
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載
この絵図の溜池は天明普請で出来た堀割の出口を塞いでつくられています。
天明堀割普請地形の表現
同時に天明普請でできた堀割跡(古堀)の地形が絵図では下記のように表現されています。絵図の表現一つ一つに現場の事実が反映されていることを確認できます。
印旛沼干拓工事関係図(部分)の地形対比
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載及び旧版1万分の1地形図に加筆
(2011.10.15 記事アップ後一部訂正しました。)