2-4-1犢橋長沼地区の地形概観と谷津記号付与

2-4 横戸川筋、宇那谷川支川筋谷津の地形発達史

2-4-1 犢橋長沼地区の地形概観と谷津記号付与

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【河川争奪の胚】

犢橋川流域紀行4 河川争奪の胚

27.5m等高線と閉じた凹地等高線

旧版1万分の1地形図(大久保、三角原、検見川、六方野原 各大正6年測量)

犢橋川流域の旧版1万分の1地形図を良く見ると、河川争奪の胚とも言える現象が幾つも見つかります。

上図は27.5m等高線をピンク色で抜き出したものです。南側の端が途中で段差で区切られた、2つの直線を成して分布しています。

この直線状の27.5m等高線分布端を突き抜けて、宇那谷川筋、横戸川筋の谷地形が連続しています。

このことから、等高線の直線状の分布は谷地形が出来たあと形成されたことがわかります。つまり、地盤変動でできたことが確認できます。

27.5m等高線の直線状分布域の南側の谷地形を見ると、閉じた凹地等高線を示してしまうものがあります。閉じた凹地等高線を示す谷地形は宇那谷川や横戸川の流域から分離したけれど、犢橋川の流域にはいまだ入っていない、未分化の状況を表しています。河川の争奪はまだ行われていません。

同時に、27.5m等高線の南側の谷で犢橋川の水系に入るものもあります。これは河川争奪が今始まった瞬間を捉えた、いわば河川争奪の胚みたいな地形であると考えます。

これと同じ現象が現在の花見川本川でもあり、花見川本川の方は河川争奪が胚で終わることなく、古柏井川を大規模に争奪しました。しかし、犢橋川では河川争奪は胚で終わってしまいました。

その差異の理由は、花見川本川の方はたまたまそこが南北方向の断層線の場所であったため、構造的弱線に沿って侵食を進めることができたのではないかと想像しています。(2011年3月18日記事「花見川中流紀行19活断層存在の可能性4」など)

なお、上図をよくみると、直線状の27.5m等高線分布端の付近の谷に補助等高線で小崖が表現されています。もしかしたら東西方向の断層崖の名残かもしれません。

旧版地形図による27.5m等高線と閉じた凹地等高線分布を現代地図のプロットしてみました。土地の改変が激しく、現代の地図からは全く想像も考えることもできない情報であることがわかりました。

27.5m等高線と閉じた凹地等高線

旧版地形図情報を現代図にプロットしたものです。

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【犢橋長沼地区の地形概観と谷津記号付与】

花見川東岸の犢橋長沼地区の地形や利用について、幾つかの記事に分けて考えてみます。

次の地図は旧版1万分の1地形図にこの地域の地形特徴を記入したものです。

犢橋長沼地区の地形の特徴

旧版1万分の1地形図「三角原」「六方野原」「大久保」「検見川」の各一部

赤丸は谷中分水界

オレンジ線は等高線から判読できる小崖

ピンクは27.5m等高線以上の高度地域

青は等高線により表現された凹地

緑は復元長沼池(古文書より復元)

この地形図の範囲を3Dレリーフ図に示しました。

犢橋長沼地区の3Dレリーフ図

カシミール3D+5mメッシュ

白線が上記地形図の概略範囲(一部欠ける)

検討を深めるために谷中分水界を有する谷津に固有名称を与えて、個別認識をしたいと思っています。しかし、この地域は明治から終戦まで下志津原演習場であり、その前は野(入会地)であり谷津の名称(仮称)にふさわしい地名(小字など)が不足していることがわかりました。

そのため、仕方なく、次のような仮記号を付けて、当面の検討に使うことにします。

検討のための谷津仮記号

横戸1~6は横戸川上流部の谷津、宇那谷1~3は宇那谷川上流部の谷津、長沼池のある谷津は宇那谷川の本川であり、宇那谷川とします。

なお、この地域は花見川西岸と比較すると、人工改変が著しいという特徴があります。

また千葉県地質環境インフォメーションバンクのボーリング資料も空白地区となっています。

従って芦太川の検討のようにデータが豊富ではないので、どの程度検討を深められるかわかりませんが、知恵を絞って、検討し、花見川河川争奪の参考情報を得たり、この地区の歴史文化に触れたいと思います。