2-2 花見川筋の谷津地形発達史
2-2-2 花見川筋周辺の地形面の把握
③ 人工改変前の地形の復元
ウ 3期地形の把握
ウ-1 横断形状
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【3期地形の把握 横断形状】
花見川河川争奪を知る33 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説8
3期地形横断復元1
1 花見川河川争奪の成因を明らかにしたい。
→2 白鳥氏、oryzasan氏の考えに次いで、自分の考えを述べたい。
→3 自分の成因の考えの前に河川争奪現象そのものを明らかにしたい。
→4 河川争奪現象は江戸時代の堀割普請の盛土で隠されているので、まず堀割普請の実態を明らかにしたい。
→5 堀割普請の地形は戦後の印旛沼開発工事で掘削されているので、堀割普請の実態を明らかにする前提として、印旛沼開発工事の実態を知りたい。
という思考の入れ子状の連鎖の中で、もがきながら、この記事を書いています。
3期(河川争奪後~堀割普請前)の地形・古地理の復元に入りたいと思います。
検討はモデル検討地点を設定し、その地点における3期の地形横断を復元します。
この検討は次のステップで行います。
その1 戦後印旛沼開発工事前の地形横断復元
↓
その2 天保期普請直後の地形横断復元
↓
その3 3期の地形横断復元
検討のためのモデル箇所は次の場所を設定しました。
モデル断面位置図
ベースマップは千葉市提供DM
データ 赤点は測線と等高線が交わる場所など高さを計測した場所です。
その1 戦後印旛沼開発工事前の地形横断復元
ア 旧版地形図を利用した地形横断図の作成
旧版1万分の1地形図(「三角原」大正6年測量)より、地形横断図を作成しました。
作成方法は、測線と等高線が交わる場所等に赤点を打ち、その高度(あるいは内挿法による推計高度)と測線端からの距離を読み取り、エクセルのグラフ作図機能を利用して作成しました。
具体的なパソコン手作業方法は後日報告します。
地形横断図作成に用いた旧版地形図
イ 谷底の地盤高
谷底の地盤高は戦後の開発工事前の測量データが「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団印旛沼建設所)に掲載されていますので、そのデータを利用しました。(具体的には、モデル断面の上下流の地盤測定値より、モデル断面の値を内挿法で求めました。)
印旛沼開発工事前の谷底の地盤高
ウ 戦後工事前の地形横断復元図
次に示すグラフがアとイにより作成した戦後の印旛沼開発工事前の地形横断復元図です。
グラフには印旛沼開発工事後(現在)の地形横断図も載せています。
戦後工事前の地形横断復元図
この図から戦後工事前後の地形横断の比較ができます。
戦後の印旛沼開発工事により谷壁斜面が、特に東岸(図で左岸)において削られていることを確認できます。
西岸(図で右岸)の盛土背後の残存谷壁斜面が現在埋め立てられていること(県立柏井高校敷地)がわかります。
注意すべきことは、この図の印旛沼開発工事前の谷底地盤高は、あくまでも掘削工事をするための地盤高測量の結果であるという点です。
測量した際、水路があっても(その水路にはある深さがあるわけですが)、その水路底の値はこの地盤高となんら関係しません。
水路底の高さは当然ながら地盤高より低い位置になります。
また、測量時は、堀割普請以後110年程度の時間が経っているので、普請当時の水路と周辺の谷底は斜面からの土砂流入により埋め立てられていることは確実です。
したがって、印旛沼開発工事前の谷底地盤高はそのまま堀割普請直後の掘削河床高を表現していません。
そこで、次の記事で天保期堀割普請直後の地形横断(特に掘削河床高)を復元します。
なお、現代の地形横断はDMデータから作成し、谷底の高さのみ印旛沼開発工事の計画「水路底高」を使っています。
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花見川河川争奪を知る34 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説9
3期地形横断復元2
その2 天保期普請前後の地形横断復元
ア 天保期普請掘割断面図
前記事で戦後の印旛沼開発工事前の地形横断を復元できました。
そして、その谷底地盤高は測量目的の違いや110年間の土砂流入により、天保期普請で実際に掘削した深さよりも高いことを述べました。
この記事では、天保期普請の実際の掘削深を検討します。
次の図は「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)口絵に掲載されている堀割断面図です。
堀割断面図
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)口絵収録
この断面資料は堀床幅員が7間、掘削法面の勾配が1割(*)となっており、工事途中の見積作成のための資料であると考えられます。
当時の測量結果による地形現況を正確に反映した資料です。
この断面図の具体的な地点はわかりませんが、掘削深3丈の記載と庄内藩関係文書であることから高台付近(このブログのモデル断面付近)であることは間違いありません。
見積付属資料と考えられるので、庄内藩工区の代表的模式断面を表現しようとしている可能性もあります。
*「1寸勾配下」と記述してあり、「1割勾配下」と書くべきところを誤記していると考えられます。
(1寸勾配[水平距離10につき垂直距離1の勾配]と1割勾配[垂直距離1に対して水平距離1の勾配]では全く勾配が異なります。)
実際の掘削工事は堀床10間幅員、法面勾配2割でスタートし、工事途中に堀床幅員7間、法面勾配1割の見積を提出し、最終的には堀床幅員7間、法面勾配1割5分(庄内藩工区)となりました。
この図から、天保期堀割普請の時には享保期・天明期堀割普請による谷地形が在ったことが、具体的に判ります。
同時に当時の計画河床高の標高が判れば、この断面を現在の地形横断図と対比することも可能になります。
次に堀割断面図の数値をメートル法に換算して書き込んだ図を掲載します。
(1丈:3.03m、尺:0.30m、寸:0.03m、間:1.82mとして換算)
堀割断面図(メートル法換算値記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)口絵収録
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花見川河川争奪を知る35 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説10
3期地形横断復元3
イ 天保期堀割普請の計画河床高
印旛沼から東京湾に水を自然流下させる施設を作るのですから、天保期堀割普請では「計画河床高」と同じ概念で各地点の河床高を決めていることは確実です。
その値は幕府が打った杭から掘削深○丈○尺○寸で示されています。
しかし、現在となっては杭はなく、計画河床高の標高はわからないようです。
幕府は印旛沼堀割普請に先立つ天保14年(1743)に勘定組頭の五味与三郎と勘定の楢原謙十郎に印旛沼古堀筋を調査させました。
この調査報告書では平戸村印旛沼落口水底と海面との高低を取調べ、延長が9593間(17.46㎞)で「壹丈貮尺三寸餘低ク」(約3.73m低く)「勾配百間ニ付壹寸貮分」(約0.019%勾配)としています。
また印旛沼口水面と海面との高低差「壹丈六尺餘低ク」(約4.85m低く)からは、「百間ニ付勾配壹寸六分餘ニ相當リ申候」(0.026%勾配)としています。
天保14年事前調査報告書の一部
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])
天保期堀割普請では、この報告書による勾配を基に他の要素(渇水や干潮に対する舟の喫水深確保等)も加え、堀床の高さ(計画河床高)を決めたものと考えられます。
次の図は織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載の印旛沼開鑿線路高低実測縮図です。
印旛沼開鑿線路高低実測縮図
織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載
明治中期に織田完之が堀割普請跡を実測し、想定した水底線(計画河床高)を描いたものです。
水底線の高さは、起点となる印旛沼口では平戸の最低水(位)より下6尺4寸1分(約1.94m下)、終点となる地先海では平均干潮より下6尺(約1.8m下)としています。
渇水や干潮時の舟の喫水深を考慮して、起終点を直線で結んでいます。
その比高は7尺6寸2分(約2.3m)です。
このブログでは上記織田の印旛沼開鑿線路高低実測縮図の水底線の勾配を使って、便宜的に東京湾0m、印旛沼口2.3mを結ぶ地形縦断直線を設定しました。
その直線を基にして、東京湾からの距離を用いた内挿法により、モデル断面の標高を求め、その値を堀床標高(計画河床高)と仮定しました。
結果は次の通りです。
便宜的に仮定したモデル断面の堀床標高=1.35m
次の図は、三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)に掲載されているもので、天保期堀割普請の計画河床高等がグラフ化されています。
この計画河床高の算定方法はこの書には出ていませんが、このグラフから読み取れる値は、このブログで便宜的にもとめた上記の値と近似した結果となっています。
「運河再興の計画」収録グラフ
三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)
モデル断面の堀床標高を設定できたので、この数値をモデル断面付近であることが想定される前記事掲載の堀割断面図に反映させてみました。
堀割断面図(標高記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)口絵収録
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花見川河川争奪を知る36 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説11
3期地形横断復元4
ウ 天保期堀割普請の実際掘削深
モデル断面の位置を続保定記の絵図で確認すると、次のようになります。
続保定記の絵図(モデル断面付近)(赤線、赤字記入)
「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)口絵収録
図中のちょうどこの位置に次の文字が書き込まれています。
「六十二番 上口ヨリホリシキマテ 十五丈七尺五寸」(「天保期の印旛沼掘割普請」口絵4-12説明による)
モデル断面付近が62番杭の近くであることは間違いありません。
上記文字は「六十二番 上口(杭)より堀敷まで 十五丈七尺五寸」の意味だと考えられます。
堀割断面図から、上口杭から堀敷までは7丈8尺2寸ですから合いません。
堀割断面図には「上口サシ渡十五丈壹尺二寸五分」とあります。
おそらくこの東西の上口杭サシ渡の寸法と本来の数値(7丈8尺2寸程度)を取り違え、誤記したものと考えられます。
よく見ると、「上口」、「中上口」と書かれた杭と無名の杭3本が見えます。
それらの杭の古堀筋との関係は堀割断面図(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)のそれとよく一致しますので、堀割断面図が62番杭付近と対応していることを確認できます。
(逆に、この絵図に杭位置が正確に描かれていることでこの絵図の正確描写性と、この絵図に描かれているのが普請途中の姿であることが判ります。)
絵図と堀割断面の杭の対比
絵図は天地逆転してあります。
古堀筋の東岸寄りに流路を設定し、東岸の掘削の方が多いようになる杭が打たれています。この理由は追って行う検討と関連しますが、西岸より東岸の方が工事がしやすい事情があったものと推察します。
ここでは東岸と西岸の何らかの特性の違いが工事に反映しているという事実だけを指摘しておきます。
また、絵図の地形の描き方をよく見ると、山脚部の描き方が明らかに異なります。この点も追って検討します。
堀割普請直後の安政年間に三木周蔵が行った堀割精査の図解資料が残っています。
この図解資料を見ると、杭62番における掘り分と掘り残し分がわかります。
堀割精査図解資料
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載
62番の水面下計画掘削深は3丈2尺5寸(約9.85m)であり、実際には1丈8尺(約5.45m)を掘り、1丈4尺5寸(約4.40m)残ったことが記録されています。
55%掘ったことになります。
この結果を丸めて、モデル断面では50%の深さまで実際に掘ったと考えると、堀割断面図は次のようになります。
堀割断面図(標高、実際掘削深記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)口絵収録
堀床の標高は5.90mであり、斜面は1割1分程度の勾配となります。
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花見川河川争奪を知る37 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説12
3期地形横断復元5
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oryzasan氏からコメント「花見川の河川争奪に関して3」をいただきました。このコメントをページにそのままアップしましたのでお知らせします。oryzasan氏に感謝します。このコメントに対する私の感想は後日記事にしてこのブログに掲載します。(2011.11.9)
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前記事で作成した堀割断面図(標高、実際掘削深入)を左右反転し、作成してある地形横断図と同じスケールに縦、横ともに変えて、その中に入れ込みました。
地形横断図+堀割断面図
堀割断面図に示される天保期普請の掘削部分が大正6年測量旧版地形図による断面線にピタリとはまりました。
天保期の資料と戦前の地形資料の対応がつきました。
この作業図上で天保期普請の掘削部分を強調した図を次に示しました
地形横断図+堀割断面図(天保期掘削部分強調)
次に天保期普請の掘削部分のみを残して堀割断面図を消去しました。
地形横断図の中に天保期の掘削部分をプロットした図になります。
地形横断図(天保期掘削部分プロット) 天保期地形を抜き出して、地形横断図にプロットしたものが、次の図です。
地形横断図(天保期普請前地形プロット)
天保期普請前の地形が復元されたことは画期的であると思います。
この地形は天明期普請後の地形を表しています。
天明期(及びその前の享保期)普請の実態は明らかではありませんが、天保期普請の実態が明らかになったので、類推することが可能になりました。
したがって、あと1歩(天明期までの普請実態の類推)で3期地形の復元が可能となります。
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花見川河川争奪を知る38 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説13
3期地形横断復元6
ア 天明期までの普請による掘削深
天保期堀割普請ではモデル断面付近での掘削深は4.5mでした。
天明期までの掘削深は組織力や財力が劣り天保期以上の掘削は行われなかったと推測します。
そこで、このブログでは天明期までの掘削深を天保期と同じ4.5mと仮に想定します。
この場合、天保期の谷底の高さ10.44mですから、普請以前の自然地形としての谷底の高さは10.44+4.5=約15mとなります。
イ モデル断面における古柏井川地形の推測
これまでの検討で、柏井付近で、北流する流れで形成された河岸段丘が普請盛土の下に隠れ、途中18.4m、17.1mの高さに谷壁斜面が存在し、横戸付近で流れに沿う方向で連続している地形面が存在し、それが千葉面に連続するという事実を報告してあります。
この事実から、古柏井川の地形が次のように対比されるものとして、模式的関係を推測します。
地形面の模式的対比(仮想)
この模式的対比は実証したものではありません。
ウ 3期地形横断復元
上記ア、イの推測を踏まえ次に3期地形横断復元図を作成しました。
天明期盛土と3期地形横断の推測図
多くの仮定を積み重ねてはいますが、3期(河川争奪後~普請前)の地形横断復元は概念的、原理的な次元ですが、できたと考えます。
3期の地形横断は15m付近(あるいはそれより2~3m低いところ)に谷底が、18m付近(あるいはそれより2~3m低いところ)に段丘があり、西岸に広がる広い谷であったと考えられます。
天明期普請までは、土工量の少ない西岸を中心とする掘削が行われ、18m付近段丘上に盛土がなされたと考えられます。しかし、その時点まではまだ広い谷の印象をもつことができる形状であったと考えられます。
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花見川河川争奪を知る39 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説14
3期地形横断復元7
次に、3期・4期の地形横断変遷をモデル断面について、時間を追って見てみます。
1 3期(河川争奪後~普請前)の地形
3期地形横断
柏井で前谷津と後谷津を花見川に争奪されているため、空川になっている古柏井川の地形横断想定です。
空川となっている谷底面は、北柏井の集落の乗っている段丘面に対比される地形面であり、勝田川河岸段丘の千葉第Ⅱ面に対比されるものとして仮想しました。
その高さは12~15mと想定されます。
西岸寄りに段丘面(15~18m)の存在が想定されます。
この段丘面は柏井付近より南の高位段丘、勝田川の千葉第1段丘に対比されるものとして仮想しました。
川幅(谷津の台地浸食幅)250m程度、川の深さは10m~13m程度の谷であったと想定されます。
2天明期普請後の地形
天明期普請後の地形横断
享保期の普請と天明期の普請後、自然地形の谷底を3~5m程度掘り下げ、その土を主に西岸河岸段丘の上に捨土したと考えられます。
この地形横断は天保期普請の工事書類から判明しました。
この時の東岸の急斜面、西岸の河道付近の急斜面(天明期普請で掘削した斜面)、平坦面(捨土場であった段丘面)、谷上部の斜面が続保定記の絵図に表現されています。
続保定記絵図の地形表現
続保定記絵図の地形認識の断面上の対応
この断面図は水平距離を極端に圧縮して全部を一目でわかるように表現してありますが、垂直:水平=1:1にして、観察者の背丈とこの図のスケールを同一にした場合、観察者は続保定記絵図にあるような地形認識を持つことができます。
3天保期普請後の地形
天保期普請後の地形
天明期普請でつくられた古堀を約5m掘り下げ、残土を東岸の台地面縁と西岸の天明期捨土場上に捨土しました。
天保期普請では、モデル断面付近(高台付近)で東岸斜面を主に掘削して河道をつくろうとしています。
その理由として、洪水を流す線形をこの付近で東岸にカーブさせるという工学的配慮の存在が1つ考えられます。同時に天明期普請で土工量の少ない西岸段丘斜面を掘削し、その残土を段丘面上に捨土しましたが、その工事跡を触りたくなかったという事情があったと想像します。
高所にある捨土場を下から再度掘削するとなると崩れや滑りが発生し、当時の技術力では工事管理上の収拾がつかなくなることを恐れ、土工量は多少大きくなるが地山掘削の方を選んだのではないかと想像します。
4 戦後印旛沼開発工事前後の地形
戦後印旛沼開発工事前と現在の地形
戦後印旛沼開発工事前の谷底の高さは天保期の堀床の高さより3.5mほど高くなっています。その理由は土砂流入により自然に埋立が進んだものと考えられます。
戦後の印旛沼開発工事では、東岸斜面の掘削を行い河道幅を確保し、谷底を6m弱掘削しています。
天保期普請でつくられた谷地形と比較すると2mほど深く掘削しています。