2-8 縄文海進の古地理復元
2-8-1 縄文海進のイメージ
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【縄文海進のイメージ】
縄文海進のイメージ図
同じ場所の現在の地図
GISを使って、縄文海進の姿を想像してみた。
「ハナミ」「ハナシマ」「イノハナ」などの地名の起源は、縄文海進の海と対比して台地につけた名前(柳田國男によればアイヌの言葉を話す人が付けた名前)と考えましたから、縄文海進を地図上でイメージしておくことは大切です。
また、掘割普請で苦労した化灯土は縄文海進・海退の産物ですから、その意味でも縄文海進を知らなければなりません。
このブログはアカデミックなものではないので、お気軽に縄文海進の想像をしてみました。
データは国土地理院から無償で提供されている「基盤地図情報数値標高モデル」の5mメッシュ(標高)データ(0.1m単位)です。
条件は縄文海進の最高海面を+5mとし、その後の海退時の沖積層の堆積深、火山降灰堆積深、地盤隆起量、歴史時代以降の盛土深を全部合わせて+1m、+2m、+3m、+4m、+5mの5ケースでカバーできると考えることにしました。もし、これらの条件を先行研究や他所の事例を踏まえて検討するならば、それだけで1年間のブログ記事を書くことが出来ると思いますが、今回は1瞬で済む直感的条件設定にしておきます。
メッシュデータのありかの検索、ダウンロードと解凍、GISソフト起動とメッシュデータ取り込み、表示の調整までの時間は30分くらいで済みました。
作成した海進イメージ図(陰影をつけました)に犢橋貝塚の位置をプロットしてみると、貝塚の位置と犢橋川入江の海の関係から、海の範囲は現在の等高線分布で言うと9mとか10m付近にあったと考えるのが妥当のようです。(現在の高さ9mとか10mまで海の高さがあったのではありません。)つまり、このイメージ図の青系統で塗った部分が全て海だったと考えてよいと思います。
縄文海進のピーク時(6000年前頃)には幕張付近を中心とする広い「古幕張湾」とでも呼べるような湾入部があり、そこから花見川の入江がフィヨルドのように内陸北方向に向かい、長作付近で東に向きを転じ、犢橋川の谷奥まで続く海があったと想像します。犢橋川の谷が海であった時代に犢橋貝塚ができたと想像します。
入り江の本筋(谷の本筋)は、その幅の広さからもともとは犢橋川の谷にあることが良く分かります。天戸付近で北に向かう現在の花見川筋は侵食力旺盛な支流で、古柏井川の上流部を争奪していたので、縄文海進時は奥深くまで海水が進入した狭く深い谷であったと想像します。海退時に、花見川筋の深い谷に生成した堆積物が化灯土であると考えます。
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【縄文海進と貝塚分布】
縄文海進のイメージと貝塚分布
縄文海進のイメージ図の確からしさを検証するために、この図に貝塚分布をプロットしてみました。貝塚のデータは「千葉県埋蔵文化財分布図(2)」(昭和61年3月 財団法人千葉県文化財センター)を用いました。この図の範囲には24の貝塚が確認できました。貝塚分布と縄文海進イメージ図(現在の等高線+10m付近まで海が侵入したと想定※)との関係に基本的な齟齬は認められませんでした。なお、馬加貝塚が海の中にあるように見えますが、これは後世の花見川ショートカット工事で台地が削られたため、台地縁砂洲にあった貝塚がそのような見かけになっているだけです。
縄文海進のイメージ図の確からしさを自分なりに検証したので、今後、このイメージ図を使って過去の出来事に思いを馳せたいと思います。
※過去の海面の高さが+10mになっていたわけではありません。
正面は城山貝塚を覆って造成された建売住宅
城山貝塚は千葉市最北端に位置する貝塚で、縄文海進の海が長作川の低地奥深くまで進入した様子を示す証人みたいなものです。この遺跡は長作川湾入部に半島状に突き出た地形となっていて、現在ではその半島状の地形をそのまま覆って建売住宅群が建てられています。従って、御成街道(東金街道)を車で走行しながらこの建売住宅群を遠望すると、半島状の地形が確認できます。縄文早期遺跡。
画像右側台地上の縁に坊辺田貝塚がある
坊辺田貝塚は長作川低地に湾入した海の湾口部を見下ろすような位置に立地した貝塚です。
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【縄文海進時の近隣流域の様子】
縄文海進時の近隣流域の様子
同じ範囲の地形図
花見川中流域の縄文海進の様子を知るために作成した情報を縮小表示して、近隣流域の状況を見ました。
東京湾岸を見ると、花見川の北西に(図が欠けていますが)船橋の海老川の湾入部が、南東に都川の湾入部があります。海老川の湾の周りには貝塚があり、花輪の地名が残されました。花見川の湾の周りにも沢山の貝塚があり、花見、花島、亥鼻の地名が残されました。都川の湾の周りにも加曾利貝塚をはじめ沢山の貝塚があり、亥鼻の地名が残されました。柳田國男によれば「花」や「鼻」の地名はアイヌの言葉を話す人が高台を意識してつけた地名だそうです。縄文時代の海進で出来た、これら3つの湾入部でアイヌの言葉を話す人々が漁猟や狩猟の生活をどのように行っていたか、上図を見ているといつまでも想像してしまって、時間があっという間にたってしまいます。当時は緑に塗った部分(標高10m以上)は実際に原生林が繁茂していて、青系統で塗った部分(想定した海面部分)が谷の奥深くまで侵入していたと考えられるので、その自然の豊かさや景観の美しさは現代人には想像を絶するものです。
なお、印旛沼も内陸奥深く侵入した海であり、最奥部は東京湾側の湾入部と直線距離で5キロほどしかありません。印旛沼を生活領域としていた人々と東京湾を生活領域としていた人々がどのように交流していたかなど、この図をみているといつまでも興味が尽きません。
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【化灯場、貝塚、縄文海進のオーバーレイ】
化灯場、貝塚、縄文海進
続保定記絵地図デジタル巻物を使って、早速絵地図に記載されている「化灯場」と「砂地」の文字の位置を地図にプロットしました。続保定記絵地図は普請(工事)の絵地図ですから、工事現場の土質が記載されているのです。
「化灯(けとう)場」とは現在でも園芸で化土(ケド、ゲド)などの用語で使われているように、アシなど水辺の植物が土の中で腐って堆積し粘土質になった谷津堆積物が分布する場所です。掘割普請では掘ってもすぐ崩れるので、工事が最も難航したのが化灯場です。化灯場の工法にまつわる題材は松本清張が「天保図録」で取り上げているほどです。
その「化灯場」は絵地図に7箇所記載されています。現在の柏井橋上流付近から天戸町付近にかけて分布しています。これを赤で表示しました。また「砂地」は4箇所記載されています。亥鼻橋付近から検見川付近にかけて分布しています。これを黄で表示しました。
この情報に貝塚分布図と縄文海進想定図をオーバーレイしてみました。縄文海進想定図は海進想定場所を青系統色で、陸地を緑で表示してあります。
このオーバーレイ図をみると「砂地」と貝塚分布が対応しているように見ることができます。具体的には、「砂地」の最上流部と貝塚の最上流部(坊辺田、神場)が対応しているように見ることができます。「砂地」と貝塚の分布域には、縄文海進のころ海浜の性格が強い環境があったと想像できます。
「化灯場」はそれより上流側に分布しています。このことから、縄文海進のころ湾奥部の後背湿地的環境がそこにあったものと想像できます。
次に「化灯場」の分布が狭い幅の花見川の奥深くに伸びている特異な姿に気がつきます。
なぜこのような「化灯場」の分布になったのか、本来の本流筋(犢橋川筋)から分岐した花見川がなぜ台地深く浸食を進めることが出来たのか、今後検討を深めていくつもりです。
河川争奪が起こったからそうなったと見立てているのですが、なぜこの場所でだけ河川争奪が起こったのか、そのヒントが巨智部忠承の論文「印旛沼掘割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)あたりにありそうだと予感しています。
(なお、巨智部忠承の論文「印旛沼掘割線路中断層の存在」に関連して千葉県総務部消防地震防災課より返答をいただき、2011年3月18日の記事で紹介しました。現在大震災の真最中でそれどころではないと思いますが、将来一段落する時が至ったならば、活断層の可能性と防災について、もう少し私の考えているところを述べたいと思っています。)