5-1-1-③天保期工事ゾーニング図と地形との対比

5-1 印旛沼堀割普請

5-1-1 印旛沼堀割普請土木遺構

③ 天保期工事ゾーニング図と地形との対比

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【天保期工事ゾーニング図と地形との対比】

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その13

16 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の解読

20120917記事「柏井橋~柏井高校間左岸(東岸)の捨土土手」で取り上げた「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」(「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)収録)について検討し、この資料で掲載されている土置場がどこで、それが捨土土手とどのような関係にあるのか検討します。

この記事では、検討に入る前にこの資料の文字の解読をしてみました。

ア 資料の影印

資料の生の影印は次の通りです。

天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図(千葉市 川口和夫家文書T1-36)

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)収録

イ 文字解読と略図区分の書き込み

影印に文字の解読結果と略図の区分を書き込んでみました。

文字解読と略図区分の書き込み図

イ-1 文字の解読

青字は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)に解説として掲載されている読みの情報です。間違いのない情報です。

赤字は、私が青字や同書の他の情報等から読んだ結果です。

このうち次の字(午)は当初読めませんでした。

午の文字

位置的には東西南北の南の字が入るべきところです。

しかし、どう見ても南の字には読めません。いろいろ思案しているうちに、干支の午(ウマ)が方位では南を指すことに気が付き、午という字であることにたどり着きました。

東西北の字と比べると色が薄く、恐らく朱書きだと思います。北柏井村の教養の程度をさりげなくこの地図に書き込んだものと思われます。

なお、現代では北を基準に考えますが、この略図では南を基準にしており、文字の向きも南を上にした場合(上図の逆さま)が正位です。

このような地図の作り方がこの時代の一般的なものであるかどうか、知識がないので私にはわかりません。

また、次の字は崩し字を自分に納得できるように読めなかったので、仮に「弥」村としておきました。後日専門家に教えてもらいたいと思っています。

弥?村の文字

弥村(ミムラ)と読んで村の人家が沢山ある場所の意として解釈する仮設を立てました。

ちょうど広い河岸段丘のある北柏井村の人家密集地帯方面の位置を指していると考えました。

イ-2 略図の区分

中央のゾーン(青色)は堀割筋、両側のゾーン(ピンク色)が此筋土置場也、あるいは土置場と記載されています。

両側のゾーン(ピンク色)の外側にも私領地此所土置場有之などの文字があり、くくり線はありませんが第3のゾーンになっています。

ウ 文字解読と略図区分結果

資料の生の影印を消し、文字解読と略図区分結果だけの図にしてみました。

解読図

この解読図に基づいて、天保期印旛沼堀割普請の土木遺構についての情報を得て、捨土土手の素性について考えてみたいと思います。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その14

17 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 上

ア 略図の構成要素

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」は次の①~⑦の要素から構成されていると判断できます。

【略図の構成要素】

●整飾(地理情報を理解するために必要な情報)部分

① この略図の意味に関するメモ書き

② 制作年月日と制作者

③ 位置関係を表示する注記

●地理情報部分

④ ゾーン(筋)の表示と注記

⑤ ゾーン(筋)の位置データ

⑥ ゾーン(筋)の特徴ある分布を説明する注記

⑦ ゾーン(筋)外の特別注記

次に、それぞれの構成要素を整飾部分①~③と地理情報部分④~⑦に分けて説明します。

イ 整飾部分①~③の説明

整飾部分①~③の抽出図

①と②は線で囲み、①~③ともに赤字で示しました。

① この略図の意味に関するメモ書き

次の文字が書かれています。

御試堀御用之節

天保十三寅十月廿二日

御代官篠田藤四郎様御手代

吉田菅助様馬加村吉右衛門御旅宿

御用先江差上申相納候下書

組頭

治兵衛行

この文字を次のように理解しました。

試掘実施に際して、天保13年10月22日に代官篠田藤四郎様の部下である吉田菅助様を馬加村吉右衛門の旅宿に訪ね、差上げ納めてもらった書類の下書きである。組頭治兵衛が行った。

「天保改革と印旛沼普請」(鏑木行廣、同成社)によれば試掘について次のような趣旨の記述があります。

10月には横戸村付近の高台と花島村で試掘を実施した。試掘は10月14日に鍬入れとなり、代官の篠田藤四郎が担当し、勘定奉行の梶野土佐守良材らが視察した。 10月21日には馬加村に堀割筋となる村々から村役人を呼び出し、普請の趣旨を諭して印を押させた。

略図の日付は堀割普請に同意した(印を押した)翌日ですから、この略図の趣旨は要望とか陳情というものではなく、同意した工事の土置場について、翌日早速その概略提供位置を報告した(させられた)ものだと思います。

略図を描く作業量そのものは1晩で十分だとは思いますが、土置場の位置の選定のために熟慮する時間は与えられず、また、土置場の位置を示す8箇所の測量データ作成の時間も与えられていません。村の地勢を熟知した人々がこの書類を作成したので、測量はしないで、目検討のデータを記入したのだと思いますが、それにしても急な作業をしたものです。この略図は、お上からの指示に基づき強引に提出させられた資料であると考えます。

② 制作年月日と制作者

次の文字が書かれています。

寅十月廿二日

下総国千葉郡北柏井村

名主 新右衛門

組頭 治兵衛

百姓代 孫右衛門

この書類は、村の執行部が責任をもって幕府に土置場を提供した証文になっています。

③ 位置関係を表示する注記

午(南の意味)がおそらく朱書きで一段と大きく、東西北とともに書かれています。

弥村は、北柏井村の主要部分がこの位置(堀割筋の西側)にあることを示しています。

隣村である横戸村、花島村、南柏井村との境を示す注記も書かれています。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その15

18 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 下

ウ 地理情報部分④~⑦の説明

それぞれの抽出図を作成して説明します。

④ 「ゾーン(筋)の表示と注記」の抽出図

この略図の主題である堀割ゾーン(堀割筋)と土置場ゾーン(土置場筋)を線で囲むとともに、その名称を書き込んでいます。

堀割ゾーン(堀割筋)の巾は両側それぞれの土置場ゾーン(土置場筋)の片方より広く描かれていますが、その距離等を示す情報はありません。

また、単純な形状で描かれています。

堀割ゾーンの意味するものは、天明期に工事の行われた堀(掘割)であり、その実体は花見川の谷底平野を多少掘り下げた地形であると考えます。

谷底平野を多少掘り下げた地形であり、しっかりした形状をしているため、この略図では単純な形状で描かれているのだと思います。

土置場ゾーンの外側の線が入り組んでいます。この入り組んだ線がこの略図で一番大切な情報です。

土置場になる場所とならない場所を示しています。

⑤ 「ゾーン(筋)の位置データ」の抽出

東岸の一番上の文字は次の通りです。

当時有形之

掘ゟ

横三十五間

この文は次のように読みました。

現在ある堀の形より横35間(=35×1.8182m=約64m)

その下に次の3つ情報が書いてあります。

右同断

横三十間

右同断

横五間

右同断

横八間

それぞれ次のように読みます。

右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m)

右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横5間(=約9m)

右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横8間(=約16m)

西岸の土置場ゾーンにも同じ情報が4つ書いてあり、上から次の文字が書かれています。

当時有形之

掘ゟ

横四十間

当時有形之

掘ゟ

横三十間

右同断

横八間

右同断

横三十間

それぞれ次のように読めます。

現在ある堀の形より横40間(=約73m)

現在ある堀の形よりおおよそ横30間(=約55m)

右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横5間(=約9m)

右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m)

⑥ 「ゾーン(筋)の特徴ある分布を説明する注記」 は土置場を避ける部分の注記が書かれています。

東岸は上から

私領屋敷

私領屋敷

私領泉蔵寺

西岸は上から

私領屋敷

私領屋敷

が書かれています。

⑤の8つの情報(データ)と⑥の注記を抜き出すと次図のようになります。

土置場の幅

この図により土置場の形状変化の理由とその幅がわかります。

次の記事でこの土置場の範囲を現代の地図上にプロットしてみたいと思います。

私領屋敷は戦前地図で比定できそうです。また泉蔵寺も旧版1万分の1地形図にその名称が掲載されています。

なお、東岸の上から2番目の私領屋敷の「右同断凡横三十間」(右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m))の30間は誤記であると考えられます。3間が正しいと直感しています。

1晩で作成した書類であり、急な仕事の中でミスが生じてもなんら不思議ではありません。なお、このミスはこの下書きだけのものであるかもしれません。

⑦ 「ゾーン(筋)外の特別注記」の抽出図

ゾーン外に書かれた特別注記です。

次の同じ文字が横戸村境付近のゾーン外東岸と西岸に書かれています。

私領地此所土置場有之

この文の意味は(北柏井村の土置場ゾーンとして設定した場所の外側で、横戸村境付近の)私領地に土置場が(既に)有る。ということです。

この略図が書かれた8日前からこの略図と接する横戸村で試掘(ココロミホリ)が行われていますので、その土置場がここに書かれた可能性も検討しておかなくてはなりません。

しかし土置場ゾーンから離れた場所で、なおかつ避けるべき私領地で、さらに両岸に存在することから、この既存の土置場は天明期普請の土置場であると考えられます。

天明期普請の遺構の存在を示す基調な情報である可能性が濃厚です。今後精査していきたいと思います。

次の記事で、この略図を現代地図上にプロットし、現在観察できる土木遺構(土捨場)との関係を考えてみたいと思います。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その16

19 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影

ア 略図の村境界イメージの正確性

次に「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の影印を再掲します。

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の影印

天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)より引用

次に北柏井村と隣村との境界を示した資料を掲載します。

北柏井村の境界

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載資料を引用編集し注記等を追記

ベースマップは迅速2万地図(明治15年測量)

上記の略図と村境界線を比べると、略図の堀割に対する境界線の角度のイメージがありのままに投影されていることがわかります。

略図ではありますがそこに村の地形(地理)を正確に表現していることに、天保期村役人の土木図書(略地図)作成技術のレベルの高さに感心します。

イ 略図の旧版1万分の1地形図への投影

略地図の土置場ゾーン(筋)の形状を決めている私領屋敷等の注記の場所を旧版1万分の1地形図と対応させてみました。

私領屋敷等の対応

略図における5箇所の注記の場所は、旧版1万分の1地形図(「三角原」図幅、大正6年測量)上の地物と間違いなく対応させることができます。

この対応関係がとれたので略図の堀割ゾーン(筋)と土置場ゾーン(筋)を旧版1万分の1地形図に投影することが可能となります。

次の図は私領泉蔵寺の場所における花見川谷底の水田と笹地(微高地)の境から16m(=凡そ8間)の距離をGIS上で計測し、そこが丁度泉蔵寺敷地の端付近になっている画面です。

GISにおける距離計測画面

略図には私領泉蔵寺の前の土置場ゾーン(筋)の巾は「右同断凡横八間」〔右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横8間(=約16m)〕と書いてありました。

「右同断」とは「当時有形之堀ゟ」ということでその意味する「当時(=現在)有る形の堀より」の堀の形の東端が旧版1万分の1地形図における水田と笹地(微高地)の境であることが、証明されました。

距離注記のある私領屋敷Bと私領屋敷Dでも同じ作業をして、同様の結果を得ました。

この作業結果から、天保13年試掘時の堀割平面形状(つまり天明期堀割普請の跡)は大正6年においても同じ場所であり、大正6年測量地図で水田として利用されていた場所であることが判ります。

そこで、旧版地形図の谷底水田を堀割ゾーン(筋)と見立て、土置場ゾーン(筋)を距離に関する注記に従って、旧版地形図上に投影することが可能となります。 次がその結果です。

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影

次に、この略図(本格工事前の工事ゾーン区分図)と現在観察できる天保期普請捨土土手分布との関係を考察します。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その17

20 土置場筋と捨土土手の関係

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」を旧版1万分の1地形図に投影して作成した北柏井村の土置場筋(土置場ゾーン)分布と現在観察できる捨土土手分布を重ねてみました。

北柏井村における土置場筋と捨土土手の分布

西岸は土置場筋の北半分に実際に捨土土手がつくられたことが確認できます。

東岸は村の北側に一部だけ土置場筋の外側にずれていますが捨土土手がつくられたことが確認できます。

北柏井村は幕府に、人家等を除いた堀割筋両岸全川に渡る土置場ゾーンを設定し、報告した(させられた)のですが、実際に捨土土手がつくられたのは距離にして約4割です。

なぜこういう結果になったのか、次図に示す地区区分をして、検討してみました。

次図は北柏井村の堀割筋を3地区に区分したものです。

北柏井村の堀割筋3地区区分図

ア 高台地区の捨土土手

高台地区はもともと東京湾水系花見川と古柏井川の谷中分水界があった場所です。その地形イメージを示すと次のようになります。

高台地区の印旛沼堀割普請前の地形イメージ

天保13年試掘時にはすでに天明期普請により谷中分水界付近はかなり掘り下げられていたと考えられますが、さらに掘り下げる場所です。

当然のことながら掘った土は土置場に捨てて捨土土手をつくります。

イ 中間地区の捨土土手

中間の意味は高台地区と化灯土地区の中間という意味です。

この地区では谷底自体を掘り下げるという工事の意味合いは徐々に薄れてきて、土置場に捨てる土量も少なくなります。

少なくなった土は運びやすい西岸に捨てたのだと思います。

この付近の西岸台地は下総下位面(浅い谷)になっていて、東岸の台地(下総上位面)より5m程低くなっています。

中間地区の捨土土手

16番断面

ウ 化灯土地区の捨土土手

化灯土地区は花見川谷底が広くなり、谷底全体の高度を下げるという工事は行われず、谷底の中で水路を掘り下げるという工事が行われたと考えられます。

次のイラストは久松宗作著「続保定記」(「天保期の印旛沼掘割普請」〔千葉市発行〕収録)に掲載されているもので、化灯場で工事が難航している様子を描いています。

現在の柏井橋付近の工事現場で、右奥が下流の花島方面です。

新兵衛七九郎丁場化灯の場廻し堀いたし水をぬぐ図

久松宗作著「続保定記」収録図

「天保期の印旛沼掘割普請」〔千葉市発行〕より引用

工事をしやすくするために、足踏水車で水を流して河床を乾燥させ、化灯土を掘り出し、脇の平地に置いている様子が描かれています。

天明期の工事杭が描かれているとともに、技術者が幕府役人に対して、馬糞のような化灯土に三間竿(約5.4mの竿)を挿しながら「ドコ迄も入マス」と報告しています。

このイラストから確認できるように、化灯場では、高台地区と比べると掘る土量自体は少なく、土置場を利用して捨土することは無かったと考えられます。

また、馬糞のごとき(固まらない)化灯土の処理の方法として「流堀り」工法が執られていたことも考えられます。「流堀り」工法とは人力ではなく、水を堰上げして一挙に流しその流水パワー(人工洪水パワー)で化灯土を掘削流下させるものです。

「流堀り」工法は、当時は秘事の技術であり、松本清張の「天保図録」で堀割普請終盤における目付鳥居耀蔵と老中水野忠邦との確執部分で登場します。

「流堀り」工法が執られたので、捨土すべき土量はさらに減少したとも考えられます。

つづく