3-7 双子塚古墳
3-7-1 双子塚古墳の概要(発掘調査報告書等による)
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【双子塚古墳の概要(発掘調査報告書等による)】
1 はじめに
河川争奪に関わる地形発達の話題と離れますが、寄り道して、花見川源頭部付近に30年前まで存在していた古墳(埋蔵文化財名称「双子塚遺跡」)について話題とします。
この古墳は横戸台団地開発(千葉県住宅供給公社事業)により破壊(記録保存)され、現在は存在しません。
古墳が存在していた場所は30年経った現在でも未利用地として野ざらしになっており、今後も利用予定は無いとのことです。
開発と埋蔵文化財保全との関係について、これでよいのかと疑問が湧いてきます。 しかし、その疑問は別の機会に考えることとします。
このブログで情報発信したい事柄は、古墳の立地場所特性から、この古墳と花見川(現在の横戸台付近を源頭部として東京湾に注ぐ、印旛沼堀割普請前まで存在した、自然河川としての花見川)との間に、密接不可分の関係が存在すると、私が受けた示唆です。
この古墳が花見川源頭部(花見川の最源流部)に位置することを手がかりに、この古墳(以下、双子塚と呼びます)からイメージできる、人々と花見川との関係について思考したいと思います。
なお、双子塚は近世に塚として再利用されたため、古墳であるにも関わらず、埋蔵文化財の種別は「包蔵地、塚」となっています。
双子塚遺跡の場所
千葉県埋蔵文化財分布地図(3)№31習志野(千葉市域、部分) 平成11年3月千葉県教育委員会
破壊される前の双子塚
「千葉市双子塚 -横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」(1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)より引用
2 双子塚検討の前に-双子塚周辺の古墳時代以前の埋蔵文化財と土地環境-
このブログでは印旛沼堀割前に存在していた花見川筋の河川自然地形を、初めて明らかにしましたが、その河川自然地形と縄文時代遺跡の分布がきれいに一致します。
水の流れていた花見川と勝田川等の近くの河岸段丘上には縄文遺跡があります。これは飲料水をすぐ近くで確保できる場所で、なおかつ平坦で水害の心配のない場所が縄文時代には人々の居住場所であったことを示しています。
双子塚からは縄文土器も出土していて、古墳築造の前から人が住んでいた場所ですが、この場所は花見川源頭部の直近に位置し、花見川筋で飲料水を確保できる北端の場所です。
飲料水確保場所に立地している縄文遺跡分布の様子
3 古墳の存在から受けた示唆
花見川の水を主に飲料水として利用していた時代から、水田耕作のための灌漑用水として利用する時代になると、社会を支配し、生産活動を組織する豪族が生まれました。
豪族の最大の仕事は水田開発による生産力増強にあったと考えます。
その豪族の権威を全ての住民に知らしめる象徴物の一つが古墳です。
その古墳(双子塚)が花見川源頭部の場所にあるのです。
この事実から、花見川の水(灌漑用水)を支配し、水田開発に邁進していた豪族(といっても小豪族だと思います)が、花見川の最初の一滴が流れ出す場所の近くに古墳を作ったに違いないと、私は、示唆を受けました。
花見川の水を支配しているものの存在を誰にでもわかるように、古墳築造で示したものと考えました。
この示唆を出発点にして、花見川についていろいろと思考していきます。
つづく
次の記事を連載する予定です。
4 双子塚調査の概要
5 近隣類似箇所の事例
6 双子塚からイメージできること
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4 双子塚調査の概要
「千葉市双子塚 -横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」(1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)(以下報告書と呼びます)の概要を紹介します。
ア 調査の趣旨
「千葉県住宅供給公社が、この地域に横戸団地の建設を計画するのに伴って、…本遺跡については、やむを得ず記録保存の措置を講ずることになりました。」との趣旨から、財団法人千葉県文化財センターが昭和57年7月1日から8月6日まで調査を実施し、報告書をまとめました。
イ 双子塚の位置
報告書に空中写真上に示した双子塚位置が示してあります。空中写真の森林と草地の境が、柏井と横戸の境になっていますので、現代図に正確にプロットできます。
双子塚の位置
双子塚は、現在の横戸台団地消防用地(未利用地)に位置しています。
ウ 調査の見立て
報告書では「調査は、古墳の可能性を含みながらも塚として設定されており、調査方法もこれに習ったものとなった。」としています。
双子塚の実測図、土層断面
エ 調査結果
直径約15m、見かけの高さ約2mの規模のほぼ円形の墳丘を検出し、周りに周溝が存在し、縄文時代土器片、古墳時代甕、近世の有田焼皿、鉄鍋、寛永通宝が出土しました。
報告書では、「調査の結果、周溝の存在、規模、積土の状態などからして古墳として築造され、江戸時代に塚として利用されたものと推測されるに至った。古墳としては、主体部も検出されず、遺物としても古墳に直接的に関係すると判断できる遺物はなく、その時期的な判定は困難である。」と結論付けています。
双子塚出土物
なお、この報告書では近世の塚としての利用に関して、「本双子塚については存在を知らない人も多く、わずかに旧横戸村と旧柏井村の村界にあたることと、「境神」ということを聞いた人がいたのみであった。・・・わずかに「境神」という言葉が記憶されていることからしても「境塚」としての役割を果たしていたものと考えられる。」と記述しています。
双子塚は古墳であることが忘れられ、いつの間にか領地を境する境界杭みたいな役割を担ったのですが、このことについては、上の図「双子塚の位置」からヒントを得て、大変興味深い事象を発見しましたので、いつか別記事にします。
(青字部分は2012.4.30追記)
つづく
次の記事を引き続き連載する予定です。
5 近隣類似箇所の事例 -東京湾水系源頭部の文化諸相-
6 双子塚からイメージできること