5-1-1-②捨土土手の横断形

5-1 印旛沼堀割普請

5-1-1 印旛沼堀割普請土木遺構

② 捨土土手の横断形

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【捨土土手の横断形】

捨土土手検討プロジェクトの企画

1 検討の目的

地形断面図を5mメッシュ標高データの最少表示単位である10㎝単位で作成できるツールを思いがけなく入手しました。(2012.8.23記事「地形断面図作成の強力ツール入手(報告)」)

そこで、早速このツールを使って、手始めに天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討を行います。

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の現在の分布状況

5mメッシュを地図太郎PLUSとカシミール3Dで運用

図上のメッシュは2秒間隔経緯線(横方向=東西方向の間隔が約50m、縦方向=南北方向の間隔が約61m)

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手付近の地形3D表現

5mメッシュを地図太郎PLUSとカシミール3Dで運用

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の分布状況は上図に示す如く、5mメッシュにより分布図として、感覚的には詳細に把握することができます。

しかし、私の使えるツールでは、これまで詳細検討に耐えうる精度の地形断面図をつくることが出来ませんでした。

そのため、次に示す興味をさらに一歩進めることが出来ない状況にあり、それらはいつか取り組めることが出来るようになる日のために、温めておくしかありませんでした。

●分析ツールを所持しないために、これまで詳細検討できなかった天保期印旛沼堀割普請捨土土手に関する興味

1)土木遺構としての天保期堀割普請跡の範囲把握

2)天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の土量の把握

3)天保期印旛沼堀割普請前の谷津地形の把握

4)捨土土手以前のもともとの台地地形の把握

このたび、新たに入手したツールにより、これらの興味に取り組むことが可能になりました。

そこで、これらの興味を深めることを目的に、天保期印旛沼堀割普請捨土土手に関する詳細検討をスタートさせることとしました。

詳細検討の4つの目的について説明します。

目的1 土木遺構としての天保期印旛沼堀割普請跡の範囲把握

花見川両岸の台地等の上に分布する天保期天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細断面図を必要に応じていくらでも作れますので、捨土土手の範囲を明確に特定することが可能になります。

これにより、天保期印旛沼堀割普請の土木遺構としての範囲を特定することができます。

以前、千葉市教育委員会に問い合わせたところ、この土木遺構を千葉市が文化財として扱わない理由の一つが、「その範囲が明確でない」ということでした。

土木遺構としての範囲が特定できれば、天保期印旛沼堀割普請跡を文化財として扱おうとしない消極思考の一端を除去することができます。

目的2 天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の土量の把握

天保期印旛沼堀割普請では、捨土土手がある範囲では、掘り下げた土は全て両岸の台地上に捨土したものであると考えられます。

従って、昭和・平成期などの人工改変の影響を既知のものとすることができれば、普請当初の捨土土手の土量を把握できます。

そうすれば、普請の時の土工量を正確に把握できます。

それは、普請の土木活動量を知る上で貴重な情報となります。

目的3 天保期印旛沼堀割普請前の谷津地形の把握

捨土土手の土量分を、戦後印旛沼開発前の谷地形に対して埋め戻せば、普請前の谷地形を想定することが可能になります。

つまり、もともとの自然地形としての谷地形復元の手がかりが得られます。

この付近は花見川河川争奪により東京湾水系谷津と印旛沼水系谷津の谷中分水界があった場所であり、地形学的に有用な情報入手の期待が高まります。

目的4 捨土土手以前のもともとの台地地形の把握

5mメッシュのデータレベルで、捨土土手以前の台地縁の地形を復元することにより(つまり、5mメッシュデータ上で捨土土手を除去することにより)、そのデータを使って、花見川谷津付近の縄文遺跡や古墳から見えた土地の範囲を復元することができます。(景観復元図や可視領域復元図の作成)

それにより、縄文時代住居や古墳の立地環境としての景観環境や、近世における古墳の測量杭利用に関して検討を深めることが出来ます。

2 検討内容

次のような検討を予定します。

1)現状の捨土土手の範囲の把握

2)現状の捨土土手の土量の把握

3)昭和・平成期に除去等された捨土土手の範囲、土量の推定

4)土木遺構としての天保期印旛沼堀割普請跡の範囲確定

5)天保期印旛沼堀割普請の土工量検討

6)戦後印旛沼開発前の花見川地形の把握

7)普請前の谷津地形の復元

8)普請前の台地縁からの景観や可視領域の検討

(つづく)

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その2

2 予察作業

捨土土手の詳細検討で成果を得たいので、闇雲に作業に突入しないで、予察作業をしてみて、効率的作業のあり方や作業上の問題を探ってみました。

まず、下図のような20本の地形断面図作成のための直線を引き、その地形断面図を作成し、このような地形断面図作成で初期の目的が達成できそうか検討してみました。

予察作業のための地形断面線の設定

花見川の柏井高校-横戸台付近の約450mの区間に、花見川に直行する20本の地形断面線(延長約450m)を設定しました。

地形断面図(予察断面17の例示)

20本の地形断面線の地形断面図を作成しました。

この予察作業をして次の事柄に気がつきました。

作業の効率化について

1 地形断面図線を等間隔に機械的作業で設定する必要があること。

2 地形断面図線の間隔は、作業量との兼ね合いからは予察作業と同じ程度の間隔(約25m)でも可能であること。追加で後から地形断面図線を増やすことも可能であることも確認できた。

3 地形断面図はグラフ画像(altキー+prtscnキーで切り取る)を利用するのではなく、csvデータを取得し、そのデータをエクセルのグラフ作成機能で描いた方が、グラフの整形や多断面比較が効率的に出来ること。

予察作業における新発見と対応

4 明確な「土手」形状の下にその土台となっている広い捨土場がある可能性を発見したので、地形断面図線の延長をより長く設定する必要があること。

予察作業を行って、精度の高い地形断面図を見ていると、これまで認識していた捨土土手の下に土台となる捨土場の存在を新発見できました。

次の断面図に説明します。

明瞭な土手地形の下に存在する土手の土台部分(断面) 予察断面17

明瞭な土手地形の下に存在する土手の土台部分(断面) 予察断面19

この土手土台部分の分布は地形段彩図から確認することもできます。

土手土台部分の分布イメージ(平面、地形段彩図)

この土手土台部分の分布と横戸台団地との関係は次のようになります。

土手土台部分の分布イメージ(平面、DMデータ)

(DMデータは千葉市提供)

横戸台開発前に測量された千葉都市図をみると、土手土台部分の地形を確認できます。

開発前の状況(千葉市都市図「千葉27」)

昭和35年測量、昭和45年一部修正

(千葉市立郷土博物館所蔵)

土手土台部分がどうして造られたのか、それが天保期普請より前の天明期普請の土捨場であった可能性も感じられ、強く興味をそそられます。

また、横戸台団地開発工事でこの土手土台部分がどのように改変されたのか知る必要があることが判明しました。

予察作業にしては、価値ある重要な新発見がありました。

なお、花見川沿川の主要開発における切土、盛土の状況を知り、捨土土手改変の様子を調べることの重要性に今更ながら気がつきました。

たとえば次の事例です。

・戦前鉄道連隊架橋

・戦後印旛沼開発

・鷹の台カンツリー倶楽部造成(戦前、戦後2回のゴルフ場造成及び戦後開拓地造成)

・横戸台団地開発

・柏井高校造成

・その他小規模開発

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その3

3 検討区間

検討区間は柏井橋から旧勝田川合流部までとしました。

また、検討区間を双子塚古墳付近、鉄道連隊架橋跡付近、弁天橋付近で区切り、4つの区間を設定してそれぞれ詳細検討することとしました。

4 断面線の設定

予察作業で、これまで「土手」の一部とは認識していなかった地形が捨土土手を構成している可能性が濃厚になりました。

そこで断面線の延長は余裕を見て延長1200m程度とすることにしました。

また断面線の間隔は25m間隔としました。

柏井橋を通る断面線を0番とし、最上流部は96番となります。

断面線は次のような手順でGIS上に引きました。

ア 花見川の水面中央部を通る縦断線を引く

イ 縦断線上に25m間隔で印を打つ

ウ 印を中央点とし、縦断線と直交する延長1200mの直線を引く

この直線を持って断面線としました。

GIS上でこのような約束事を設けて作業するのは初めてで、効率的作業方法がなかなか見つからなかったのですが、同心円を引く機能を利用して作業を進めました。

断面線を引く作業の一コマ

5 区間毎の捨土土手の様子

キリの良い番号の断面図から区間毎の捨土土手の様子を概観してみました。

区間区分と断面位置

5-1 第1区間(柏井橋~双子塚古墳付近)

第1区間の様子

縦軸の1メモリは5m、横軸の1メモリは5m

0番、10番断面には捨土土手はほとんどないものと考えています。

20番断面には西岸で、古柏井川谷底上に捨土土手があります。もともと複雑な地形をしているところであり、自然地形と捨土土手をどのように分離認識できるか、詳細検討するつもりです。

5-2 第2区間(双子塚古墳付近~鉄道連隊架橋跡付近)

第2区間の様子

捨土土手が最も発達しているところです。

その理由は、この区間付近が古柏井川の谷底分布地域となり、最も掘削土量が増える場所であるからです。

40番断面では土手の裾に土手の土台となる捨土が見られます。この土台の部分が自然地形ではないことの証明も詳細検討で行います。

西岸では県立柏井高校の敷地造成工事で捨土土手が大幅に縮減した部分があります。(残っている部分もあります。)

50番断面では古柏井川谷底上に捨土土手が残っています。

5-3 第3区間(鉄道連隊架橋跡付近~弁天橋)

第3区間の様子

この区間でも捨土土手が発達しています。

東岸は古柏井川の谷底上に捨土土手がつくられています。

断面60では古柏井川谷底は平坦面としては残っていませんが、完全に埋め尽くされてはいません。

5-4 第4区間(弁天橋~旧勝田川合流部付近)

第4区間の様子

西岸は戦後の印旛沼開発工事で台地開削があり、その結果捨土土手は消失しました。

東岸の河岸段丘上の捨土土手は戦後の農地造成で縮減したようです。米軍空中写真等と照合して調べたいと思っています。

次に、区間毎の詳細検討に入ります。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その4

6 第1区間右岸(西岸)の捨土土手分布把握

6-1 第1区間の断面線の設定

次の図は第1区間の断面線の設定状況を示したものです。

第1区間の断面線の設定状況

6-2 第1区間右岸(西岸)の捨土土手形状

この図に示した断面線のうち、11番断面線、16番断面線、21番断面線について右岸(西岸)を検討対象として、断面形状から捨土土手の範囲を抽出しました。

第11番断面

高さ強調約27.5倍

下総上位面(標高29m程度)を刻む浅い谷(下総下位面相当)の底(標高24m程度)の上に1m強の厚さで捨土土手が作られていると判断しました。

第16番断面

高さ強調約27.5倍

下総上位面(標高29m程度)を刻む浅い谷(下総下位面相当)の底(標高24m程度)の上に1m強の厚さで捨土土手が作られていると判断しました。

第21番断面

高さ強調約27.5倍

浅い谷(下総下位面相当)を刻む古柏井川谷底(武蔵野面相当)(標高18m程度)の上に3m強の厚さで捨土土手が作られ、古柏井川谷底が凹地の底のような形状になっています。

6-3 第1区間右岸(西岸)の捨土土手分布

25mピッチの断面図から捨土土手の分布図を作成しました。

第1区間右岸(西岸)の捨土土手の分布

詳細な地形断面図情報から捨土土手の分布を押さえることができました。

捨土土手は幅50m~70m程度の帯状分布をしています。

すぐ近くの住民からこの付近は印旛沼堀割普請の捨土があり、その付近は農作物の収量がよいと祖先から伝わっているというヒアリングをしたことがありますが、そうした捨土土手存在情報と整合する結果を得ることができました。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その5

7 第1区間右岸(東岸)の捨土土手の下にある宮附遺跡

宮附遺跡(みやづけいせき)については何度か記事にしました。(2012.5.13記事「下総下位面(浅い谷)にある宮附遺跡」など)

この宮附遺跡が天保期印旛沼堀割普請の捨土土手下にあり、遺跡発掘調査時の土層観察記録がありますので紹介します。

7-1 宮附遺跡の位置

宮附遺跡の位置

「宮附遺跡発掘調査報告」(1985年、東京電力千葉支店 千葉市遺跡調査会)(以下報告書と呼びます)による

この位置を、このブログで作成した捨土土手分布図にプロットすると、次の図になります。

宮附遺跡は捨土土手の東の端に位置し、19番断面線の近くです。

捨土土手分布図における宮附遺跡の位置

7-2 宮附遺跡現場の状況

次の写真は報告書に掲載されている発掘調査時点の写真です。

宮附遺跡発掘現場

「宮附遺跡発掘調査報告」より引用

引用者注・・・下写真「北から」は誤記、「南から」が正しい。

この遺跡付近の状況は現在でもあまり変化していません。

宮附遺跡付近の現在の状況(東から)

鉄塔の下が宮附遺跡、背後は花見川東岸の崖の林

7-3 宮附遺跡の土層観察結果

報告書に掲載されている発掘調査時(昭和59年11月)の土層観察結果を掲載します。

宮附遺跡土層観察図

「宮附遺跡発掘調査報告」(1985年、東京電力千葉支店 千葉市遺跡調査会)掲載図に引用者が着色

灰色…砂層

褐色…ローム漸移層

報告書には観察結果が次のように記載されています。

「調査時川砂等を盛土してあったが標高はおおよそ23.00mである。川砂による盛土は、 西から東にかけて30㎝~50㎝の巾でなされその下層に粘性の少ない暗褐色土層(ソフトローム漸移層)が、20㎝~30㎝巾で堆積している。」(引用者注…巾は層厚の意味で使ってる。)

ここで川砂と記載された層が天保期印旛沼堀割普請の捨土土手であり、その層が西に厚く、東に薄いという観察が、この遺跡ポイントが捨土土手の西端付近に位置している状況とよく一致しています。

また、逆に、この土層観察結果から、19番断面における捨土土手断面を推定することができます。

19番断面における捨土土手断面の推定

7-4 まとめ

宮附遺跡発掘時の土層観察結果から、花見川の横断面図により検討している捨土土手形状把握作業の的確性(正確性)を自分なりに確認することができました。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その6

8 第1区間左岸(東岸)の捨土土手分布把握

2012.9.7記事「柏井橋~柏井高校間右岸(西岸)の捨土土手」のつづきで、同区間東岸の捨土土手の分布、形状を把握しました。

次に地形断面図を3例示します。

11番断面

断面線から東岸に捨土土手の顕著な形状を指摘できません。

16番断面

ここも、断面線から東岸に捨土土手の顕著な形状を指摘できません。

21番断面

断面線形状から捨土土手の形状を指摘できます。

このような断面図の検討から、第1区間東岸の捨土土手の分布を平面図に追記してみました。

第1区間(柏井橋~柏井高校間)の捨土土手分布図

9 11番断面や16番断面に捨土がなかった証拠はない

ここまで作業を進めてきて、自分の作業が多少無邪気であることに気がつきました。

11番断面や16番断面の東岸では、捨土の量が少なかったり、土手をつくらないで、層状に土を置いた場所であることも否定できないからです。

以前から次の図が気がかりでした。

この図は「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)に収録されている資料ですが、同書の説明によれば、横戸村と花島村間の台地は「土置場」として設定されているとなっています。

天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図(千葉市 川口和夫家文書T1-36)

「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)収録

読みも「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市発行)による。

私は、この本の説明から、11番断面や16番断面の東岸は、顕著な土手形状こそありませんが、「土置場」として設定された場所に位置していたと捉えました。

しかしよくこの図を検討すると、この本の説明が全く間違っていることに気がつきました。

この図のAは21断面付近の台地上の捨土土手を表しているように思います。

しかしBは花見川谷底における土置場であり、台地ではないことがわかりました。

なぜ、この本の説明が間違っているのか、別記事で説明します。

結論から言うと、私にとって以前から既知であったこの古文書からは11番断面や16番断面における捨土土手に関する情報は得られませんでした。

別の資料(別の古文書、米軍空中写真等)での検討を追ってしたいと思っています。

そうすることによって、11番断面や16番断面の東岸台地と天保期印旛沼堀割普請との関わりに関する何らかの情報は得たいとおもいます。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その7

10 柏井高校及び横戸台団地付近の捨土土手

私が第2区間とした区域で、25mおきに25番断面図~50番断面図を作成し、断面形状から捨土土手を検出しました。

予察作業で見つけたように、横戸緑地として指定されている土手だけでなく、その下に土台を形成する部分があることを発見しました。

分布図で示すと次のようになります。

捨土土手の分布

捨土土手は西岸では柏井高校付近でグラウンド造成のために若干削られています。

また東岸では鉄道連隊架橋付近で局所的に削られています。

しかし、両岸ともに連続して分布していることを確認することができました。

東岸横戸台団地の住宅となっている部分に存在する捨土土手の土台部分は私にとって新発見です。(世の中にこの捨土土手に興味を持っている人は殆ど皆無だと思いますので、おそらく、世の中的にも新発見になると思います。)

横戸台団地造成以前の地形図にすでにこの土台部分が表現されているので、団地造成の際に人工的にわざとつくられた可能性は無いとおもいます。

この団地は、団地造成の際には当時の地形をほとんどそのまま利用して土工事の量を最小化しているように感じる団地です。

確認のために、団地造成工事の図面資料を関係機関にお願いして閲覧して確かめる予定です。

この捨土土手土台部分が自然地形ではないことを確認するために、捨土土手分布を地形段彩図にプロットして、地形との関係を見てみました。

捨土土手の分布と地形との関係

この地形段彩図で赤っぽいところが下総上位面(下末吉面相当)、青っぽいところが下総下位面(小原台面相当?)であり、下総上位面が現在の花見川筋のところで下総下位面の浅い谷で分断されている様子を示しています。

捨土土手(土台部)分布は捨土土手分布と対応して存在しており、自然地形的な成因の可能性を見つけることはできないと考えました。

ボーリング資料があれば捨土土手であることが判ることですが、住宅地なのでありません。

26番断面

西岸の捨土土手は古柏井川谷底から積上げている可能性が濃厚と考えますが、証拠だてる材料は見つけていません。

39番断面

東岸の黒色部分(「横戸緑地」として指定されている園地部分)が、私がこれまで考えていた捨土土手です。しかし、東岸にはその土台となる部分があります。また、西岸の捨土土手は古柏井川谷底から積上げている可能性があります。

これまで普請の掘削土量をイメージすると、「それにしても少なすぎる」という感情に支配されることが多かったのですが、そうした疑問を解決できる可能性が出てきました。

46番断面

周辺の地形から、西岸の捨土土手は古柏井川谷底から積上げていることは確実です。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その8

11 鷹之台カンツリー倶楽部付近の捨土土手

私が第3区間と作業区分した区域(鉄道連隊架橋跡から弁天橋までの区間、西岸に鷹之台カンツリー倶楽部が拡がる)の捨土土手を25mおき地形断面図から抽出しました。

捨土土手の分布

東岸は弁天橋付近が人工改変のため捨土土手が撤去され、一部はその後盛土により畑がつくられています。(過去の空中写真等からその経緯確認済み)

西岸は64番断面付近を除き捨土土手が連続して分布します。64番断面付近は大正6年測量旧版1万分の1地形図では土手が連続しているので、戦後の印旛沼開発工事等で通路等を確保するために、土手が一部撤去されたのではないかと考えます。

捨土土手分布と地形との関係を見るために、捨土土手分布を地形段彩図にプロットしてみました。

捨土土手と地形との関係

東岸の捨土土手の背後(東側)に窪地(谷地形)があることがわかります。

(DMデータの等高線表現では必ずしもこの窪地は十分に表現されていません。)

実はこの窪地(谷地形)は見かけ上そうなっているだけで、台地を刻む谷津谷底の上に捨土土手がつくられたために形成されたものです。

57番断面で説明すると次のようになります。

57番断面

古柏井川谷底に捨土土手をつくり、捨土土手は古柏井川の谷津を全部埋め尽くすことが無かったので、見かけ上の窪地(谷状地形)が形成されたのです。

……………………………………………………………………

この窪地(谷地形)の部分は殆どが雑木林に覆われています。そして、戦後抜開されたことがなく、そのため1回として地表面がそのまま空中写真に撮られたことがありません。

そのため、地図作成(人による空中写真判読による地図作成)では測量技術者が樹林下の地形を想像して等高線を引くしかなく、これまでこの部分では不正確な等高線しか描かれてきませんでした。

このような事情から、現場を見ない限り、古柏井川谷津の存在とか、その谷底に捨土土手がつくられたなどの事実は誰も気がつくことがありませんでした。

私は、現場でわかった事実をこのブログで、平面図や断面図で表現しようとしたのですが、それが出来ない日々が続きました。

同じ5mメッシュでも人が空中写真判読した結果によるデータでは、不正確な情報で、現場の事実を表現することが出来なかったからです。

ところが、最近、航空レーザ測量による5mメッシュが公開され、上記のような人の要素による誤謬(測量技術者が空中写真判読を行う際の判断ミス)が入る余地がなくなり、GISを活用することにより、上記のように平面図や断面図で正しい地形の姿を知ることができるようになりました。

……………………………………………………………………

64番断面

東岸の捨土土手は古柏井川谷底上に積上げられ、その高さは少なくとも6.5mになります。西岸は、この付近では戦後通路確保のために、土手が削られたようです。

73番断面

東岸は人工改変で捨土土手は失われています。 西岸では台地上に捨土土手が積み上げられていて、土手の巾が110m以上になり、全区間を通じて最も巾のある土手となっています。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その9

12 勝田川合流部付近の捨土土手

私が第4区間と作業区分した区域(弁天橋から旧勝田川合流部付近)の捨土土手を地形断面図から検出しました。

捨土土手の分布

〔水部は青で塗っていますが、情報(数値地図2500(空間データ基盤))が古いので現在の勝田川合流部がまだ工事中になっています。あしからずご了承ください。〕

この付近は戦後印旛沼開発工事で、水路のカーブを変更したため西岸台地の一部を削る大規模な地形改変が行われました。

そのためはっきりした捨土土手は横戸元池弁天付近の東岸の一部に残っているだけです。

この捨土土手の分布を地形段彩図の上で見ると次のようになります。

捨土土手と地形との関係

DM図に旧版1万分の1地形図(大和田図幅、大正6年測量)を重ねて表示すると次のような図になります。

DM図と旧版1万分の1地形図のオーバーレイ

花見川の水路のカーブが戦後印旛沼開発工事で西よりに変更になり、西岸台地の一部が削られたことを確認できます。

代表断面として87番断面を示します。

87番断面

これでようやく検討対象区域の捨土土手の分布を25mピッチ地形断面図で確認しながら把握することができました。

基礎情報が出来上がりました。

次の記事から、この情報に基づいて、捨土土手に係る様々な興味をより一層深めていきます。

つづく

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その11

14 住宅団地造成による捨土土手の改変

20120920記事「柏井高校及び横戸台団地付近の捨土土手」で、地形断面図から捨土土手(土台部)を検出しました。

次にその記事の平面図と断面図説明を再掲します。

捨土土手の分布

39番断面

この記事で自分にとって新発見であった捨土土手(土台部)の素性について考えてみました。

当初、次のような可能性について検討項目をピックアップしました。

1 最初に土台部分を作って、その上に土手を作った。

2 団地開発で土手の中腹が削られ、土台があるような形状になった。

3 雨水の浸食でこのような形状になった。

4 天明期の普請で土台部分が作られ、天保期普請でその上に土手が乗った。

また、20120925記事「捨土を担ぐイラスト(続保定記絵図)」から次のような可能性も考えられなくはありません。

5 庄内藩郷人夫の捨土の仕方が人足引受人の捨土の仕方と違っていた。

4番などの結論になるととても面白いので、密かに期待したのですが、結論は2番に落ち着きました。(内心少しがっかりです。)

まず、住宅団地開発主体である千葉県住宅供給公社に問い合わせた、工事前の測量成果や土工事の計画図などの資料の閲覧を申し込んだのですが、結果それらの資料は10年間保存し、その後すべて焼却処分しているとのことで、団地開発の資料は得られませんでした。

しかし次のようなことが判ります。

1 断面図における捨土土手(グレー塗色部)形状が東西非対称性であり、東側〔左側〕が削られているように見えること。

2 捨土土手の東裾の境が石積擁壁を伴う直線道路であること。

3 捨土土手(土台部)(グリーン塗色部)の東端の平面分布線が住宅団地街区線をなぞるような関係にあること。

4 捨土土手(土台部)の分布が横戸台団地の区域と一致すること。

これらの条件に加え、なによりも現場で得られる観察から、捨土土手(土台部)の素性は、本来あった規模の大きな捨土土手が、団地開発でその中腹が削られ、その土が付近に運ばれ盛土となり、現在の土台のような形状に見かけ上出来あがったと、考えました。

この説明を絵にして次に掲載します。

横戸台団地造成工事における捨土土手改変の様子(想定)

現場写真で示すと次のよになります。

断面写真

正面写真

今後歴史的土木遺構としての捨土土手平面分布は、人工改変により強い影響を受けた土台部分は含めないことにします。

しかし、捨土土手の土量を考えるときには土台部分を捨土土手に含めて考えることにします。

つづく