2-2-1-②河川争奪に関する先行論文

2-2 花見川筋の谷津地形発達史

2-2-1 河川争奪現象の見立て

② 河川争奪に関する先行論文

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【花見川河川争奪に関する先行記述】

河川争奪の古典的な説明イラスト

花見川における活断層存在の可能性の話を続ける前に、花見川における河川争奪に関する先行記述を見つけたので、報告しておきます。

私は「花見川上流紀行10河川争奪の見立て」で古柏井川の水系の過半が古花見川によって争奪されたと見立てました。争奪前後の水系想像図も添付しました。

こうした想像は、この地域の谷地形分布を地図で見れば、興味のある人や素養のある人は容易にすることができます。したがって、花見川の河川争奪の記載はどこかにあるのではないかと思っていましたが、確認することはありませんでした。ところが、最近WEBで情報検索していることをきっかけにして、白鳥孝治「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼-自然と文化-第5号、1998.11 財団法人印旛沼環境基金発行)という文献に花見川河川争奪の記載があることを知りました。

この文献による、河川争奪の記載の要旨は次の通りです。

谷が深いか浅いか、印旛沼の方向を向いているかそれとも東京湾の方向をむいているかということから、「少なくとも花島、柏井の枝谷津が形成された時代の初期河川は、印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって、花島付近の花見川は、ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。」「この河川争奪を起こす原因に、次の二つが考えられる。」として地盤隆起と東京湾水系の侵食力の強さを上げています。さらに、「隣接する数本の谷津のうち、花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は、ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか」として、常総粘土層の高度分布のデータを引用しています。

この文献には過去の地学的調査研究に関するリストが付いています。

私が興味を持つのは、この文献の著者は明治25年の巨智部忠承「印旛沼掘割線路中断層の存在」の存在を知らないと思われることです。もし断層の可能性について少しでも知っていたら、「ここが弱い沈降帯であったため」という記載にはならないと思います。

この文献の著者が巨智部忠承の断層論を知らないということは、それ以前の調査研究した人々が巨智部忠承の断層論を知らなかったからであると思います。要するに、巨智部忠承の断層論は一度世の中から忘れ去られてしまったということではないでしょうか?

栗原東洋も、水資源開発公団印旛沼建設所も巨智部忠承の断層論を知らなかったのではないだろうかと、想像します。

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前の記事で、白鳥孝治「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼-自然と文化-第5号、1998.11)という文献に花見川河川争奪の記載があることを紹介しました。

この記事アップの後、街の書店をふらついていると、白鳥孝治「生きている印旛沼-民俗と自然-」(崙書房、2000円)という本を書棚に見かけ、早速購入しました。

この本で白鳥孝治氏のプロフィールを始めて知りました。千葉県公害研究所長、千葉県環境部技監まで務め、その後環境分野で大活躍されている大御所の方でした。

白鳥孝治「生きている印旛沼-民俗と自然-」(崙書房)は印旛沼の自然と文化を理解するに格好のテキストであると感じ、今熱心に読んでいます。

花見川流域は印旛沼流域から「仲間はずれ」にされた高津川と勝田川流域をメインにする流域です。印旛沼についてはいろいろな社会的注目があるのに、花見川流域はいわば「見捨てられている」と感じる天邪鬼な私は、無意識に印旛沼流域の書籍を避けてきたようなところがありますが、この本を読み出して、印旛沼流域トータルに興味が湧きだしました。自分の狭量に気づきました。

さて、この本には白鳥孝治「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼-自然と文化-第5号、1998.11)の内容が収録されているのですが、河川争奪に関する記述だけは収録されていませんでした。何かの機会があればその理由をおうかがいしたいと思っています。

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花見川河川争奪を知る4 花見川河川争奪に言及した既存資料

花見川河川争奪の地形復元や成因について検討する前に、花見川河川争奪に言及した既存資料について確認しておきます。

私がこれまで得た情報の範囲内では、次の論文でのみ花見川河川争奪に言及しています。

白鳥孝治(1998):印旛沼落掘難工事現場の地理地質的特徴、印旛沼自然と文化第5号、pp43~48

この論文の花見川河川争奪に関連する部分を引用します。

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掘り割る以前の花見川について、天明期の掘割絵図をみると、花見川は柏井を谷頭として花島を南流する東京湾水系の河川になっている。したがって、掘り割る以前から花見川は周辺の谷津とは異なり、図1の分水界よりさらに北上していたと思われる。

花見川と隣接するその他の谷津の形をみると,東京湾水系の谷津と,印旛沼水系の谷津とは,明らかに異なった形をしている。前者は谷頭に至るまで深く刻み込まれた深谷津の形をしているのに対して,後者は浅谷津の形をとって,谷頭はほとんど台地面近くまで上っている。花見川は掘り割られているので,原地形の谷頭が深谷津タイプか,浅谷津タイプか不明であるが,花島から西に派生する花見川の枝谷津と,柏井から東西両方向に派生する枝谷津は,いずれも浅谷津タイプであり,しかも両枝谷津の流れの方向は印旛沼の方向をとっている。このことから,少なくとも花島,柏井の枝谷津が形成された時代の初期の河川は,印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって,花島付近の花見川は,ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。

この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。

隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。天保期の工事の際に,花島付近は多量の湧水のために難工事を極めたことは,沈降帯であるために台地の地下水がここに集中するためであり,また,花見川が,分水界を越えて北に延びた理由のひとつも,多量の湧水による侵食にあったと考えられる。

(図1、図2略)

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私が白鳥孝治氏の論文に気がついた経緯等は次の記事に書きました。

2011年3月7日記事「花見川中流紀行17河川争奪に関する先行記述

この論文による花見川河川争奪の成因については、追って検討したいと思います。

なお、この白鳥孝治氏の論文以外にも、花見川河川争奪に言及した資料・論文があるかもしれませんので、機会を見つけて調べたいと思います。