3-7-2双子塚古墳出土物の閲覧

3-7 双子塚古墳

3-7-2 双子塚古墳出土物の閲覧

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【双子塚古墳出土物の閲覧】

双子塚古墳出土物を閲覧して

先日、双子塚古墳(※)出土物を千葉県立房総のいえで閲覧しましたのでその結果を報告します。同時に、双子塚古墳に関わる情報や感想をシリーズ記事としてまとめてみました。

なお、過去記事と重複する部分がありますが、ご容赦ください。

※双子塚古墳は千葉県埋蔵文化財分布地図における正式名称は双子塚遺跡となっています。しかし、発掘調査報告書で古墳であることが判明していますので、この記事では双子塚古墳と表記します。

双子塚古墳が古墳として呼ばれていないだけでなく、事実上古墳として扱われていない社会現象の理由等はこのシリーズ記事のなかで検討します

目次

1 出土物閲覧

2 双子塚古墳の特異な位置

3 縄文時代

4 古墳時代

5 近世

6 近代

7 現代 開発と古墳撤去

8 近未来 古墳撤去だけでいいか?

1 出土物閲覧

1-1 出土物閲覧申請

双子塚古墳の出土物資料は現在千葉県立房総のむらに所蔵されていることが判りましたので、房総のむらに出土物閲覧許可の申請をして、許可をいただきました。

閲覧承諾書

なお、このブログに出土物写真を掲載するために上記閲覧申請とは別に掲載許可の申請も行い、その許可も得ています。

1-2 出土物閲覧

千葉県印旛郡栄町に所在する千葉県立房総のむらを訪ね、双子塚古墳の出土物を閲覧し、写真撮影しました。

発掘調査報告書の情報だけを知っている場合と、それに加えて実物を手に取った時の印象を経験した場合を比べると、自分の場合、後者の方が発想の豊かさが飛躍的に高まります。

同時に、この資料閲覧時に、学芸員の方から出土物に関連してさまざまな考古学的な情報を教えていただき、大変参考になりました。感謝します。

閲覧のために用意していただいた出土物資料

なお、発掘調査報告書に掲載されていた片口鉄鍋は房総のむらには伝わってきていないとのことです。

出土後非公開資料として別管理されているのか、あるいは紛失したのか不明でした。

2 双子塚古墳の特異な位置

双子塚古墳の出土物を検討する前に、この古墳の特異な地理的位置を確認しておきます。

1 双子塚古墳は東京湾水系花見川の最源流部(谷中分水界)に位置する。

2 双子塚古墳は東京湾水系流域の古墳では、千葉市域で最北端に位置する。

双子塚古墳の特異な位置

双子塚古墳は東京湾水系花見川の最初の一滴の水が流れ出す最源流部を見下ろす台地縁に作られた古墳です。東京湾水系流域古墳の中では、千葉市域で最も北に位置しています。この特異な位置が、東京湾水系花見川の谷底平野の開発史を考える上で貴重な情報をもたらす可能性があります。

つづく

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双子塚古墳出土物を閲覧して

この記事シリーズでは発掘調査報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)を報告書と略記します。

3 縄文時代

双子塚古墳そのものの検討に入る前に、双子塚古墳本体の土の中から出てきた縄文土器について検討します。

次の写真は閲覧した出土縄文土器です。

双子塚古墳出土縄文土器片 A

(千葉県立房総のむら所蔵)

双子塚古墳出土縄文土器片 B

(千葉県立房総のむら所蔵)

報告書では写真Aの資料から土器の復元想像をしています。

双子塚古墳出土縄文土器片 Aの復元図

報告書掲載図

報告書によれば「墳丘の調査時に、墳丘盛土の主として北西部分から53点の縄文土器片が得られた。個体数としては2個体にすぎない。」と記述されています。

墳丘は周溝を掘った土や周辺の土を盛土して作られたと考えられますから、縄文土器はこの古墳北西部付近の土中にあったものが、古墳築造工事の際に盛土に混入したものであることは間違いないと思います。

この付近は花見川河川争奪の結果できた谷中分水界があり、丁度、東京湾水系花見川の源頭部です。

源頭部に存在していた湧泉の水を飲料水にして縄文人がキャンプしていたと考えられます。

この様子を想像して絵にしてみました。

縄文土器片の出土ポイントと縄文人居住場所の推定

縄文時代遺跡という切り口で双子塚古墳の位置を見てみると、次の図に示すように東京湾水系が印旛沼水系の奥深くに入り込んだところにあります。

双子塚古墳の場所にある縄文時代遺跡の位置

双子塚古墳の場所にあった縄文時代遺跡は千葉市域の縄文時代遺跡の最北端に位置します。

千葉市域の最北端だからと言ってそれだけで価値があるわけではありません。

しかし、東京湾水系の縄文時代遺跡が密集する場所から、花見川の谷津を遡ってここまで北に位置する場所に縄文時代遺跡があることは、縄文時代人が花見川の特異な地形(河川争奪)を活用して居住場所を拡大していたということであり、興味が湧きます。

その興味は、印旛沼水系勝田川の縄文時代居住地(遺跡)まで1400mの地点(歩いて15分?)まで迫っていて、この場所が印旛沼水系を活用する縄文人との交流の橋頭保であったに違いないということの感得に通じ、古代交流ルートの幹線がここに存在していたという仮説(検討テーマ)に通じます。

なお、ここに縄文時代遺跡がある最大の理由は、ここで飲料水が得られるからだと考えて間違いありません。

次の記事で検討する、古墳時代の古墳がある理由はそれとは異なります。

同じ場所にある時代の違う遺跡が共に花見川源流部の泉(水あるいは谷津)と深い関係にあり、その関係の中身が全く異なる点に着眼し、検討を深めて行きたいと思います。

つづく

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双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代

3-1 2つの出土物

報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)では古墳時代の出土物として次の2点を記載しています。

「古墳時代の遺物 いずれも周溝覆土の最上層のa層よりの出土であり、古墳に直接関わるものとは断定できない。3は底部の突出する甕型土器の底部破片。和泉期。4は小型甕で、1/3ほど遺存し推計で口径14㎝、底径6㎝、器高15㎝を計る。最大径は胴中位にあり15.6㎝を計る口線部横ナデ、胴部ヘラナズリ。鬼高期。」

次に閲覧した資料現物の写真を掲載します。

3 甕型土器底部破片(和泉期) 表面

3 甕型土器底部破片(和泉期) 裏面

4 小型甕(鬼高期) やや上方より正面

4 小型甕(鬼高期) 甕口

4 小型甕(鬼高期) 甕底

閲覧資料はいずれも千葉県立房総のむら所蔵

古墳との直接関係を断定できないにしても、この2つの土器が双子塚古墳形成時期等を推察する唯一の手がかりです。

断定はできないということで、そこで思考を停止してしまい、撤退してしまうのではなく、手がかりとなる資料から、双子塚古墳についてできるだけ情報を引き出してみたいと思います。

幸い、報告書では土器の形式と出土状況、土層断面を明らかにしてますので、これらの情報を分析すれば、報告書記載情報にプラスアルファの情報を加えることができそうです。

(つづく)

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双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代

3-2 土器の出土状況

2つの土器は報告書によれば次の土層から出土しています。

古墳時代土器の出土層

報告書による

3-3 土器形式からみた古墳年代と利用期間

双子塚古墳出土土器の形式と出土状況を一覧表に整理し、土器と古墳築造年代との関係を見てみました。

(参考)岩波日本史辞典(岩波書店)による土器形式説明

和泉式土器:関東地方に広く分布する5世紀を中心とした時期の土師器。東京都狛江市にある和泉遺跡出土土器を標式として、1940年杉原荘介によって命名された。西日本同期の土器の影響を強く受けている。関東地方の中期古墳の副葬品として出土するほか、祭祀遺構からもまとまって出ることが多い。

鬼高式土器:関東一円に分布する5世紀末~7世紀後半の土師器。千葉県市川市にある鬼高遺跡出土の土器を標式として1938年に杉原荘介が命名。大きな特徴は坏(つき)や高坏に赤彩を施すものが多いことで、長胴の甕と須恵器の形態を取入れた坏が目立つ。

ここでは、出土土器の形式判定に間違いがなく、また、土器形式の年代認識が上表の通りであることを機械的に前提とし、検討します。

双子塚古墳からは、古墳時代中期と後期の2つの年代の土器が出土したことになります。

このことから、次の2点が判明します。

1 古墳築造年代をある程度絞り込むことができる情報が得られること。

2 古墳利用期間に関する情報が得られること。

古墳築造年代に関してみると、土器の出土状況は、いずれも古墳築造時につくられた周溝が後の時代に覆土され、その覆土中から見つかっていることが重要な手がかりとなります。(報告書では逆にこれを持って「断定できない」とし、そこで思考を停止しています。)

つまり出土状況からみて、ア 古墳築造年代は土器作成年代と同じか、イ それより古いか、のどちらかになります。

上記のうち、「イ 土器作成年代より古墳築造年代が古い」かもしれないという条件は直感的に理解していただけると思います。

「ア 古墳築造年代は土器作成年代と同じ」かもしれないという条件は、土器がもともと古墳本体中に埋納されていて、それが後代に何らかの理由で一旦出土し、その後二次的に周溝覆土中に収まったという可能性があることから考えられます。

周溝覆土a層は、断面分布形状から明白に把握できるように、古墳本体の積土が雨水等によって流下して形成されたものです。

従って、土器がもともと古墳本体の積土中にあり、雨水浸食(や盗掘等)で一旦古墳の外に出て、周溝に落ちたという可能性は十分にあり得ます。

結論としては、古墳築造年代に関する情報として、古い方の土器(甕型土器底部破片、和泉期)が示す年代、つまり古墳時代中期が双子塚古墳の作成年代か、あるいはそれより以前に作られたという情報が得られたことになります。

また、和泉期と鬼高期の土器が(祭祀が行われたと考えられる)テラス近くの周溝覆土の中から見つかったということは、和泉期から鬼高期にわたるある期間、つまり古墳時代中期から後期にかけてのある期間、この古墳が祭祀の場として使われていたということを物語っていると思います。

おそらく柏井、場合によっては花島付近を拠点とする小豪族の支配力が、ある一定期間安定して継承されていたことを示す情報を得ることが出来たと考えます。

和泉式土器を配下の各地小豪族に普及した時の中央権力が、鬼高式土器を普及させた次の中央権力に移行していった時間の中で、双子塚古墳を築造し利用した小豪族はその時々の中央権力と折り合いを付けながら、自らの支配力を子孫に継承させていったと考えることもできます。

土器が出土した周溝覆土は古墳本体から流出した土ですが、その古墳本体のつくり方や築造後の浸食のされ方について、次に、参考までに検討します。

(つづく)

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双子塚古墳の過去・現在・未来 その9

双子塚古墳出土物を閲覧して

4 近世

4-1 双子塚古墳の近世遺物閲覧

近世になると双子塚古墳は古墳としての意義はすでに忘れさられており、それを築造した小豪族の本拠地とは関係のない横戸村が奪取するところとなりました。

そして、横戸村と柏井村の領域確定のための境界杭として利用され、その後横戸村と柏井村の境界付近にある境界塚として利用されました。

次の出土遺物は報告書では次のように記載されています。 「5の皿は径13.5cm、器高3cmの高台付の有田焼の皿である。文様はくすんだ藍色を呈し、蛇の目型に釉をふき取って重ね焼きしたあとが見られる。江戸時代後期。」

有田焼の皿

(千葉県立房総のむら所蔵)

江戸時代に双子塚古墳は境界塚として利用されたのですが、この皿は信心深い近隣住民が供え物をしたり、灯明を灯したりするのにつかったのでしょうか。

寛永通宝は報告書で、次のように記載されています。 「7と8の寛永通宝は、古寛永であり、7は径1.9、8は径1.8cmを計る。」

寛永通宝

(千葉県立房総のむら所蔵)

双子塚古墳の南東部の裾部から検出されたとのことであり、双子塚古墳の東側を通り柏井村と横戸村を結ぶ道路に近いことから、通行人(旅人)などが安全と願い事成就を祈願して賽銭として置いていったものかもしれません。

あるいは、数十m西で行われた天保期印旛沼堀割普請の関係者(幕府監督役人や庄内藩現場監督等)が工事安全・目標達成祈願をしたのかもしれません。

4-2 片口鉄鍋

以上のほか、片口鉄鍋が出土しています。しかし、出土物を所蔵している千葉県立房総のむらには最初から伝わってきておらず、現物は紛失してしまったようです。

報告書では次のような記載と図版、写真が添付しています。 「6の片口鉄鍋は、周溝南西部のa層中に伏せた状態で検出された。掘り込み等の遺構は特別認められなかった。口径32cm、器高21cm、器厚2.5mmを計り、片口を持つ独特な形態の鉄鍋で、いわゆる燗鍋と称せられる形式の鍋である。」

片口鉄鍋の出土状況

報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)より引用

この片口鉄鍋が伏せた状態で見つかったことから、疫病等による不浄の遺体を周溝内で土葬し、この片口鉄鍋で顔を覆ったという可能性もあります。

もし仮にそうだとすると、遺体を土葬したのに、遺体はもとより「掘り込み等の遺構は特別認められなかった」という土層形成の特徴が浮かびあがります。

そうした土層形成の特徴は、古墳主体部が見つからなかったという特徴に通じます。

古墳築造当初のローム層撹拌・混合・堆積というプロセス、及びローム層の理化学的特性などの条件がこのような土層形成の特徴に結びついているのかもしれません。

(つづく)