3-2 花見川流域の古代遺跡分布
3-2-2 花見川流域の時代別埋蔵文化財
① 時代別埋蔵文化財数
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【時代別埋蔵文化財数】
次の資料に掲載されている埋蔵文化財分布地図とリストを対照して花見川流域の埋蔵文化財数を把握しました。
・千葉県埋蔵文化財分布地図(1)-東葛飾・印旛地区(改訂版)-(平成9年3月)、千葉県教育委員会〔佐倉市、四街道市、習志野市、八千代市、船橋市分〕
・千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-(平成11年3月)、千葉県教育委員会〔千葉市分〕
結果は次の通りです
花見川流域の遺跡数(平成9年、11年資料)
200~300程度の遺跡数を予想していましたが、それより少なく、作業上はより手頃です。
文献がある遺跡は全部で46あり、全て入手して読んでみる予定です。
なお、平成9年、10年から現在までの情報の増加は今後各市教育委員会等に問い合わせて補足する予定です。
千葉県教育委員会ホームページで公表されている「ふさの国文化財ナビゲーション」を見る限り、平成9年、11年以降大幅な情報増加は無いようです。
次の図は上記資料の分布地図をGISに張り付け、花見川流域内の埋蔵文化財リストと対照しながらチェック確認したものです。
花見川流域の埋蔵文化財分布チェック図
このような作業を行う中で、とりあえず、時代別(旧石器、縄文、弥生、古墳等)の分布図を作成し、それを見ながら詳細な作業検討方法を考えることにしました。
遺跡数が手頃で、遠慮なく何回も作業をやり直せると考えると、気が楽で、発想が豊かになりそうです。
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次の図は埋蔵文化財地図をそのままアウトプットしたものです。
この分布図はあくまで全遺跡の概況を示すものです。 遺跡の分布は水系筋に沿って分布しているように見えるなど、分布上の特性が目につきますが、この図はあくまでも旧石器時代遺跡から中・近世遺跡まで全て含んでいるものなので、詳しい分析対象にすることは不適切です。
あくまでも時代別に遺跡を区分して検討することが大切であると思います。
埋蔵文化財地図のアウトプット
上記アウトプットは次の資料を編集して作成しました。
・千葉県埋蔵文化財分布地図(1)-東葛飾・印旛地区(改訂版)-(平成9年3月)、千葉県教育委員会〔佐倉市、四街道市、習志野市、八千代市、船橋市分〕
・千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-(平成11年3月)、千葉県教育委員会〔千葉市分〕
時代別に埋蔵文化財の分布を検討するための第1歩として、まず花見川流域埋蔵文化財数合計184の時代別内訳をカウントしてみました。
次の通りです。
花見川流域の時代別遺跡数(1つの遺跡に複数時代の重複がある)
私は埋蔵文化財に関する専門知識は大変虚弱ですが、そうであるためか、私の予想と大幅に違い、かつ特徴ある時代別遺跡数が現れました。
この5つの時代別遺跡数について強い興味を覚えましたので、その興味を記録し、それに伴って考えたことをメモします。
このメモは時代別遺跡分布図を作成し、報告書等の情報を得れば陳腐化する可能性があります。しかし自分の思考の跡を記録して後で振り返り、反芻したいという欲求を消せないので、次の作業に入る前に、あえて作成します。
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メモ 表「花見川流域の時代別遺跡数」を作成して感じ、考えたこと
目次
1 旧石器時代遺跡は他の時代の遺跡と併存している
2 弥生時代遺跡が極端にすくない
3 縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存している場合が多い
1 旧石器時代遺跡は他の時代の遺跡と併存している
・旧石器時代遺跡はそれだけで単独なものはありません。全て縄文時代遺跡や古墳時代遺跡と併存しています。
・旧石器時代遺跡を含む遺跡の併存時代は次の通りです。
・旧石器時代の遺跡は人の活動に特に好都合な場所であると考えます。水を得やすい、近隣の人々と交流しやすい、狩猟活動の都合がよい等。
・旧石器時代遺跡はそれ以降の時代の遺跡も高い確率で出現します。ここに大きな特徴があると考えます。ここにピックアップされた旧石器時代の遺跡は、単純に「生活に好都合な空間」だけであったのではなく、定住性が低い旧石器時代にあって、「地域の活動センター」のような人々にとって特に重要な場所であったと考えます。(仮説です。)
・旧石器時代と縄文時代は同じ狩猟時代ですから、縄文時代にはこれらの場所は同じ原理で、生活に好都合の場所としてだけではなく、「地域の活動センター」(特に祭礼・交易・贈与・交流等の機能空間)として継続して利用されたと考えます。
・弥生時代以降になると、旧石器時代に起源を有し縄文時代まで使われてきた「地域の活動センター」は主に祭礼の場(聖地)として継続利用され、古墳時代、奈良・平安時代など長らくその場所の意味が人々に伝わっていたものと考えます。
・現代人には、これら旧石器時代から歴史時代までの遺跡が継続して出現する場所の、重要な意味は伝わってきていません。既に忘れられています。しかし、古代人から中近世人までは、その重要な意味、つまりそこが生存に必要な拠点であり、精神生活に不可欠な祭礼の場・聖地であるという意味が受け継がれてきていたと考えます。このような発想(仮説)を、今後の検討で確かめたいと思います。(既に、子和清水遺跡の報告書を読み、出土物を閲覧しているので、このような仮説が自然と生まれました。)
つづく