5-コラム成田山参詣記

コラム 成田山参詣記絵図

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【成田山参詣記絵図】

成田山参詣記に収録されている絵図「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」を紹介します。

河川争奪に直接関係するものではありませんが、地形がある程度写実的に表現されているので取り上げました。

成田山参詣記は成田山名所図会ともいわれ、江戸時代末期に成田山の寺侍の中路定俊、定得父子によってまとめられたものとされています。このなかに「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」の絵図2葉が収録されていて、つなげるとパノラマ絵図になります。

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」

現代語訳成田山参詣記(大本山成田山新勝寺成田山仏教研究所発行、平成10年)より引用

このパノラマ絵図で眺望している概略範囲を地形分類図に示してみました。

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲

この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図には西岸台地とその上の盛土地形が、描かれています。また、勝田川の河岸段丘と考えられる平坦面のスカイラインが意識されて(他の地形線と区分されて)描かれているように推察できます。

次にその推察を絵図に書き込んでみました。

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現

この絵図から、地形以外に次のような興味深い情報を得ることができます。

ア 弁天社の様子

イ 弁天池を渡る土橋の様子

ウ 解説文にある埋木の件

解説文には、天明普請の際に高台では巨木が出土することも多く、そのうちよさそうなものは碁盤にして、惣深新田(現印西市草深)の某家にあり、材質は欅のようであるという趣旨のことが書いてあります。

追記 2011.12.10 記事の一部を訂正しました。

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1 記事訂正

まず、記事の訂正です。

成田山参詣記(2011.11.16記事)に次の誤りがありますので訂正し、このブログを見ていただいている方にお詫びします。

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲

(文章)

この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図に盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察できますので、次にその推察を絵図に書き込んでみました。

(文章)

この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図には西岸台地とその上の盛土地形が、描かれています。また、勝田川の河岸段丘と考えられる平坦面のスカイラインが意識されて(他の地形線と区分されて)描かれているように推察できます。次にその推察を絵図に書き込んでみました。

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現

現場で、この視点から、盛土背後の緩斜面を見ることは不可能であることを確認しましたので、上記2つの図版と関連する文章を訂正しました。

2 検討

oryzasan氏のコメント4で次のような指摘を受けました。

この絵図は僕に言わせれば、地形に関しては全くいい加減です。山のように描いてあるのが台地でしょうが、台地の上は平らなはずで、この絵のような山状にはなりません。この絵図は当時の風景画の常套手段で、背景に山、手前に平野を描いて見せたに過ぎません。斜面に刻まれた谷のようなもの、木の高さに対してあまりに高すぎる台地面など、到底現場の忠実なスケッチとは考えられず、まして「盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察」とは見えすぎです。

この指摘について現場で自分なりに感じ、検討したことがありますので報告します。

ア oryzasan氏の指摘は正しい

oryzasan氏の指摘は正しいと思いました。それはこの絵図が、現代技術用語としての「写実的でない」という着眼点に立脚すれば、正しいということです。 確かに写真撮影すれば、このような風景を撮ることはできません。「絵」にならない、のっぺらした風景写真が撮れます。

イ この絵図を見る別の着眼点

この絵図から、当時の絵図作成者が観察したに違いない事実(観察したとき、感じた心理的事実…物理的事実ではなく、心理的事実)を知ろうという「着眼点」に立脚すれば、oryzasan氏とは別の絵図評価になります。

私は、当時の絵図作者が、それなりに地形をよく見て、この絵図を描いたと判断し、記事文章を書きました。

絵図表現上の強調や誇張は当然です。実際には一望できない風景構図を創作することも当然です。しかし、それを持って写実的でないということに「着眼」して論を進めるのか、反対に強調や誇張は作者が捉えた心理的事実の表現方法であると許容し、むしろそれを持って地形の本質を表現しようとしているということに「着眼」するのか、そこに分かれ目があると思います。

どちらが正しいという問題ではありません。その絵図を見る人が、そこからどのような情報を引き出そうとしているのか、立場や価値観の違いに多様性があるということです。

ウ 花見川対岸を「山」と感じた瞬間

河岸段丘の露頭を探して現場を歩いている時、一瞬対岸が100m位の山と感じた時があります。その時の自分の感覚を写真に記録できるかもしれないと思いながら撮った写真が次の2枚です。

いずれも柏井の東岸から西岸を見た風景です。

対岸の台地が山と感じた時撮った写真1

対岸の台地が山と感じた時撮った写真2

錯覚であると切り捨ててしまえばそれまでですが、対岸の風景が中景の樹木で遮られて一部しか見ることができなく、近景にいろいろな地物がある場合、対岸の風景が強調されて、「大きく」見える心理現象があると思います。

地平線近くの月が大きく見えることと原理が同じだと思います。

自分に生じたこの心理的現象が、藪の中を歩き回って沢山のスケッチを描き、架空の視点場から迫力ある構図で絵図を描こうとした絵図作者に生起しないはずはありません。

このような心理現象を活用しながら、迫力ある絵図を作成しようと、絵図作者は活動したに違いありません。もちろん無意識的行動としてです。

一般論として、現代人より江戸時代の人々の方がはるかに地形認識力があったと想像します。現代人は生活環境の都市化や知識増大により、地形認識力が著しく貧困化していると思います。

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【印旛沼掘割物語】

高崎哲郎著「印旛沼掘割物語」(崙書房出版、2011年5月)

「水とともに」(独立行政法人水資源機構)に連載され(2010年6月号~2011年3月号)、水資源機構WEBページの広報誌バックナンバーコーナーで閲覧できる「泥と汗と涙と<物語>江戸・天保期の印旛沼掘割普請始末」が単行本として崙書房出版から出版されましたので、紹介します。

印旛沼堀割普請の歴史(経緯)についてとてもわかりやすい本です。

1 諸元

著者:高崎哲郎

書名:印旛沼掘割物語 江戸・天保期の印旛沼掘割普請始末

発行:崙書房出版

発行年:2011年5月25日

体裁:新書版(17.6×10.6×1.6㎝)

ISBN978-4-8455-0198-4

2 目次第一章 暗雲、乱れ飛ぶ-五大名に御手伝普請の幕命が下る

第二章 非情の陥穽-五大名・対応を急ぐ 天道、是か非か

第三章 宿命の谷間へ-普請丁場、決まる 残酷な夏①

第四章 忍従の日々-各藩の江戸藩邸、準備に追われる 残酷な夏②

第五章 没義道ならずや-難工事、開始さる 残酷な夏③

第六章 闇夜を裂く稲妻-人夫、続々と現場に入る 残酷な夏④

第七章 大地の叫び-炎暑・落雷・疫病 残酷な夏⑤

第八章 響きと怒り-「大蛇に食いつくされる」 残酷な夏⑥

第九章 孤月、冴える-風水被害、変転する幕府計画、無駄死の人夫たち 終末へ①

第一〇章 崩壊の秋-印旛沼 堀田かいなし 水野あわ 終末へ②

あとがき ~<残酷な夏>印旛沼掘割普請放棄の巨額なツケ~

3 感想天保期に印旛沼堀割普請の様子を理解する上で最もわかりやすい、ポピュラーな本だと思います。

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、原典史料とその解説本)をベースに、読者の興味をそそるようなストーリーで書かれています。写真や図版も豊富です。

著者の考えや現地視察の様子も反映されています。

印旛沼堀割普請の歴史を知りたい方にはおすすめの本です。

なお、「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)をベースにして、同じくストーリー性を有する著作として鏑木行廣著「天保改革と印旛沼普請」(同成社、2001年)があります。こちらの方は原典史料を忠実にストーリー化しているという印象の本です。

4 参考 用字法

紹介した本の書名「印旛沼掘割物語」では「掘」の字を使っています。原典史料「天保期の印旛沼堀割普請」では「堀」を使っています。

このブログでは当初パソコンの漢字変換機能のままに「掘」の字を使い、字を意識してからは「堀」の字にしています。過去記事修正の手間を省いてサボっているため、用字法が混乱しています。時間を見つけて「堀」の字に統一したいと思っています。

「堀」の字に統一する理由は、天保期の普請では「古堀」(享保、天明期の工事跡)が存在していて、つまり既に形を成していた「堀」が存在していて、その普請ということですから「堀」の字を使う用字法が適確であると思うからです。

「掘」の字を使うと、掘るという活動イメージが強くなり、天保期の人々が「ホリワリ」に抱いていたイメージと乖離してしまうと思います。