2-2-コラム巨智部忠承の花島村活断層説

2-2 花見川筋の谷津地形発達史

コラム 巨智部忠承の花島村活断層説

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【巨智部忠承の花島村活断層説】

「大日本地名辞書 坂東」の柏井の項

以前の記事(花見川中流紀行5花見川の語源2)で吉田東伍「大日本地名辞書 坂東」(明治40年、冨山房の影印本)を入手したことを報告しました。

この「大日本地名辞書」から谷川健一(地名学者)が多くの示唆をうけたことをいくつかの本で読んでいたので、私も期待して花見川流域の地名を読みました。

柏井の項目を読みだしたら、「地学雑誌云、花島村の・・・」で始まる文章に、安政2年大地震で柏井村に大地開裂があり、断層の存在を推測できるとの内容が書いてあるのを見つけました。上の画像がそれです。期待したことが、すぐにかなえられて自分でも唖然としました。

記述の内容は、私にとって2重の意味で驚きでした。

1つ目の驚きは、もし大地開裂が事実なら、花見川が地質上の構造線上にある可能性が濃厚になり、河川争奪や化灯土存在の新たな説明が想像の域から科学的解明の端緒が開かれる方向に変化するからです。社会として河川争奪や化灯土存在の新たな解明機運が生まれるという意味で、少し興奮します。趣味の散歩と思っていた活動からアカデミックに影響するような種が生まれるかもしれません。

2つ目の驚きは、もし大地開裂が事実なら、安政2年大地震の新たなデータ発見になるのではないだろうかということです。安政大地震は首都圏直下型の地震でもう150年起こっていません。現在の首都圏の地震防災を考える上でこれまで見過ごしてきた貴重な情報を発見したことになるかもしれません。花見川に活断層は想定されていないので、もし活断層が考えられれば、防災対策の根本見直しになるかもしれません。

地学雑誌は東京地学協会が発行する、わが国で最も伝統のある地学系学術雑誌です。ぜひとも原文を入手して、この辞書に書いてあることが本当であるか確かめたくなりました。

原文を見れば、現代の人々が見過ごしてきた貴重な情報か、あるいはそうでもないのか、ある程度分かるのではないかと思いました。

東京地学協会のホームページに入ると、地学雑誌のバックナンバーは明治22年創刊以来、全て復刻CD-ROMとして頒布していることを知りました。またホームページで論文検索することが出来ます。そこで、断層や柏井などいくつかの言葉で検索すると、地学雑誌4巻3号(明治25年)に巨智部忠承「印旛沼掘割線路中断層の存在」という論文を見つけることが出来ました。早速復刻CD-ROMナンバー1(明治22年~33年分 3150円)を購入申し込みをしました。そして昨日到着しました。

貴重な学術雑誌の復刻版をこのような廉価で一般に頒布している東京地学協会に感謝します。

到着したCD-ROMをパソコンにいれて当該論文を読んでみました。そうすると・・・(つづく)

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東京地学協会から届いたCD-ROMをパソコンに入れて、巨智部忠承「印旛沼掘割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)を早速読みました。

漢文の素養に欠ける私は漢和辞典を頼りに読み進め、この論文の要点を次のように整理しました。

1掘割線路中の花島村「板所ベタ」の稲田では、灌水はことごとく地中に吸収され、挿苗には泥土の上層を填補して仮に水の滲漏を防ぐという。

2ここから数十歩の柏井村「八斗蒔」では安政2年東京大地震と同時に南北長さ30間から50間(約54mから90m)、幅2~3尺(約60cm~90cm)の大地開裂があり、2~3年以前まではその跡が残っていたという。

3ここから南10丁(約1090m)の犢橋村と天戸村の間の溝渠に沿う天戸村の崖地に第3紀と第4紀層の露出があり、東面に斜下約10度で、層向南北である。

4(千葉町以西の県道沿いの第3紀と第4紀層は下総常陸武蔵の平地の平坦地層の一部分で、概ね平準であるが、)登戸村地内で西千葉町との村界から2~3丁(約218m~327m)東南の地層が東に斜下約6~7度で層向は南北で、花島村地震割裂線とも同位である。

5平坦地層の1部が波紋状もしくは湾曲状になっているのは下層が維持する力を失っているから、脆弱な上層がその部分の陥落を惹き起こしている

6以上の現象(灌水が漏逸する土地の割裂、平坦地層一部分の陥落)は地層中の断層の存在を推測するに足るものである。

7余の測定は、掘割線路中溝渠の一部で懇水(※)を地中に漏逸する〔農民の〕憂いである。

※大切な水の意味か。

8幸い断層は狭小だから格別の変動をつくらないだろうということであれば、〔農民の憂いを〕防ぐことはできない。

9ここにこれを記述して当局者が地質構造がどうなっているかという点に注目することを希望する。

この論文のハイライトは1と2の大地開裂であり、これを知った著者が断層説を裏づけるために3、4、5の材料を集めたように感じます。

ただし2の大地開裂はヒアリング結果であり、著者は現場で確認していません。しかし、著者は現場確認していませんが、2~3年前までその跡が残っていたという農民の証言と、農民とのコミュニケーションを深めてヒアリングしたことが推察されることから(7、8、9)、大地開裂を事実として受け止めて間違いはないと思います。

なお、安政2年(1855年)大地震の32年後の明治20年(1887年)にこの論文が書かれています。

「板所ベタ」と「八斗蒔」は次の図面の「辺田」と「八斗蒔」でその位置を確認できます。

3、4、5の論点の可否は私には直感できません。3は平面位置的に納得できますが、4と5は平面位置が離れているのでなんともいえません。

私は専門家ではないので、今から124年前のこの論文を評価することはできません。ぜひとも専門家の方に評価していただきたいと思います。

なお、地域住民の1人として、趣味の散歩の次元とは別に、地域防災の一つの基礎情報としてこの論文が見過ごされてきているかもしれないと思い、この論文の存在を千葉県と千葉市の防災部局に連絡しました。

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前の記事「活断層存在の可能性1」と「2」で、「印旛沼掘割線路中断層の存在」の著者を西和田久學と紹介しました。しかし、調べているうちに私のミスで、本当の著者は巨智部忠承(こちべただつね)であることが判明しました。

ここに関係者の皆様とブログを見ていただいた方々にお詫び申し上げるとともに、訂正いたします。

前の記事の著者名は訂正しました。

間違いが判明した顛末を報告します。

1最初の出発点である「大日本地名辞書 坂東」の文章には「地学雑誌云、・・・」ということで論文著者名は出ていません。

2東京地学協会の地学雑誌ホームページでそれらしき論文を検索したとき、ミスが発生しました。

リストでは、著者名空欄、論文名「印旛沼掘割線路中断層の存在」となっています。

このリストの1行上は著者名西和田久學、論文名「金属鉱床の根源(承前)」となっています。

要するにリストでは著者名が出ていないのです。しかし、上の欄の著者名が下の欄の著者名であり、省略されているのだろうと誤解してしまったのです。

3さらに論文を読んだとき、著者名の記述を見落としました。

論文の最後に(明治廿年稿)と書いてあり、さらにその隣に(巨智部忠承君報)と書いてあります。著者が西和田久學と思い込んでいた私は、なんとなくおかしいと思いつつ、(巨智部忠承君報)を次の雑報である「石鹸の効用につきて」の著者であると判断してしまいました。私にとっては望外の論文発見であったため、あわてており、著者名確認という大切な作業に関して注意散漫になっていたようです。

4論文の内容を読んだ後、著者のプロフィールについて知りたくなりました。その調査過程で、私のミスが判明しました。

西和田久學についてWEBでいろいろ検索していると一橋大学機関リポジトリHERMES-IRという表題で石田龍次郎「『地学雑誌』-創刊(明治22年)より関東大震災まで 日本の近代地理学の系譜研究 資料第三」という論文のpdfを見つけました。この論文を西和田久學で検索してみると、明治25年から明治26年にかけて西和田久學が地学雑誌に「十九世紀地学大家伝」を掲載したころの肩書きは「大学生」になっています。従って、「印旛沼掘割線路中断層の存在」が地学雑誌に掲載されたときは大学生、「明治20年稿」ですから、論文を書いたのは10代中ごろになってしまいます。

おかしいと思った瞬間に(巨智部忠承君報)の意味が分かりました。地学雑誌では雑報欄では、論文の最後のカッコで著者を示していたのです。リスト上では雑報の著者は空欄になっていたのです。

「印旛沼掘割線路中断層の存在」の著者巨智部忠承は著名な地質学者です。手元の「新版地学事典」(地学団体研究会編、平凡社)では次のように紹介されています。

「1854.2.13~1927.3.29 長崎県に生まれ、1880年東京大学卒。地質調査所に入り、1/40万予備調査、1/20「宮津」「生野」「豊岡」「赤穂」など図幅調査、また別子・生野などの鉱床調査に活躍。<概測常北地質編>(1882)は古生物学的研究の先駆をなす。1893年地質調査所長となり、多目的な業務の刷新を図るとともに新規に油田調査事業に着手(1901~45)、本格的な油田第三系研究の道を開く。1905年退官。晩年は韓国農商工部技監(~1909)、日本石油顧問(1910~23)として応用地質学の面で貢献した。」

思いもよらない大家が、新進気鋭の時代に花見川の断層存在を論じており、私としては河川争奪や化灯土成因に関して、強力な応援部隊が到着したと感じるようになりました。

さて、これだけで著者名ミステイクの件は終わりませんでした。

巨智部忠承で復刻版地学雑誌CD-ROMを検索すると、なんと「印旛沼掘割之説」という論説(4p、理学博士巨智部忠承)を見つけました。この論説の最後には(雑報断層の項参照)と書いてあります。要するに「印旛沼掘割線路中断層の存在」の親論文を見つけたのです。

「印旛沼掘割之説」の内容を読むと、とても刺激的なことが書いてあります。

断層の存在と海進(という言葉は使っていませんが、それを想起させる記述)を念頭にこの付近の地形成因と掘割普請について論じているのです。断層の存在自体は注目すべきことなので、わざわざ雑報という形で独立させて報告しているのです。

内容の詳細は後日紹介します。

同時に「印旛沼掘割の企」という雑報(署名はB.k)も見つけました。恐らくこの雑報も巨智部忠承の書いたものだと思います。その内容と署名をB.kにした理由の推測も後日報告します。

断層論文の著者名を間違えたおかげで、より本格的な情報にありつけたような格好になりました。結果はとてもうれしいことになりました。

なお、この件で、1散歩者が124年前の学術雑誌の内容を、自分のパソコンで自由に読める環境に既になっているという、時代のICT化に深い感慨を持ちました。3つの夢の最初の1である「『趣味の散歩』のICT化、高度化を図り、地域発見ツールとして開発すること」は実現できるであろうという確信を持ちました。

(つづく)

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東日本巨大地震の被害状況は、18日午前9時現在で死者6405人、行方不明10259人と報道され、加えて安否不明の方が少なくとも25000人に達し、避難者は38万人以上という未曾有の大災害となりました。

犠牲になられた方々のご冥福を祈るとともに、被災された方に心からお見舞い申し上げます。

国民に与えられた突然の大試練として受け止め、もがき苦しみながら、状況打開のための取組に全国民が一体となって参加し、一歩一歩進むしかありません。

救援活動の現場にいない者の一人として、当面は節電等の社会的要請に応えるとともに、被災された方の苦しみと心を合わせるとともに、前をむいて生きていきたいと思います。

安政大地震で大地開裂が起きた柏井村八斗蒔の現況

花島橋下流、現在水田はない

さて、私は、このブログの3月3日、4日、6日の記事で活断層存在の可能性について話し、8日には巨智部忠承「印旛沼掘割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)を掲載しました。私は、この付近の河川争奪との関わりで、この論文に興味を持ったのですが、一方もし本当に活断層の可能性があるならば、現実生活の防災面で影響があるかもしれないと思い、念のため千葉県と千葉市の防災部局にこのような論文を見つけたという情報提供をしました。

東日本巨大地震発生4分前の3月11日14時42分に、千葉県総務部消防地震防災課より次のようなメール返答をいただきましたので、参考として掲載します。

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活断層を示唆する情報に対する回答(消防地震防災課)

○○ 様

活断層に関する御質問に回答させていただきます。

県では、阪神・淡路大震災後、県陸域で活断層との指摘があった東京湾北縁断層、鴨

川低地断層帯の活断層調査を実施し、どちらも活断層は確認できなかったとの調査結

果を得ました。また、国(地震調査研究推進本部)では、東京湾北縁断層は活断層では

ない、鴨川低地断層帯は活断層である確実な証拠がない(可能性が少ない)と公表して

います。

東京湾北縁断層の調査では、下総台地には新しい地層が厚く分布し地表にはなかなか

活断層の痕跡が残らないことから、通常の活断層調査(トレンチ調査)ではなく反射法

地震探査という物理調査を実施しました。

この活断層調査に加え同じ調査方法で、県北西部地域の地下構造調査を実施しまし

た。調査結果は、活断層調査と同様に基盤岩(先第三系)から地表まで連続し、地層を

変位させるような活断層は確認できませんでした。

このことから、千葉県では県域には活断層は確認されていません(地震を発生させ

た、発生させる活断層は確認できない)。

以上、千葉県の活断層について回答します。

……………………………………………………………………

千葉県域には活断層は確認されていないという回答です。この回答にある調査結果はWEBで公開されています。

花見川の近くに居住するものとして、現実生活面では一安心となりました。

上記回答には巨智部忠承論文に関する論評はありません。今後は、この巨智部忠承論文について、河川争奪との関わりから地学現象理解の素材の一つとして追究していきたいと思います。

そのためには追々、専門家の方から話しを伺うようなことが必須となるとおもいます。市井の一散歩者が専門家の話しを聞くような機会をどのように得るのか、そのルートを見つけたいと思います。

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【巨智部忠承の花島村活断層説の検討顛末】

花見川河川争奪を知る44 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説19

成因仮説2

巨智部忠承の断層論文や千葉図幅地質説明書(ともにこのブログのページ「断層論文」に掲載)で述べられている「印旛沼堀割線路中の活断層」が事実ならば、それに起因して河川争奪が発生したのではないかと考えました。

つまり、断層に起因する陥没や軟弱な破砕帯の発生により、近隣河川と比べて、古柏井川が東京湾側水系の浸食を受けやすい状況が発生したという考えです。

そこで、明治時代の、活断層かもしれないというこの情報について、専門家に評価していただき、それに基づいて断層仮説を構築しようと考えていました。

幾つかの経緯を経て、WEBで産業技術総合研究所に地質標本館地質相談所があり、地域の地質に関する質問ができることを知りました。

早速、巨智部忠承の「印旛沼堀割線路中の活断層」説についてその真偽を問い合わせてみました。

その問い合わせに対して、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの担当官より次の回答をいただきましたので紹介します。

「お問い合わせの件ですが,ご指摘の千葉市花見川沿いの断層につきましては,おそらくそれ以降に本格的な調査はなされていないと思われます.

また,この報告を引用あるいは検討した論文も確認しておりません.

そもそも,巨智部忠承の報告を見ましても,安政地震時における亀裂や地層の傾斜などから断層の存在を推定したもので,現在の学術レベルでは必ずしも断層を推定するに足る十分な根拠ではありません.

また,この地域に広く分布する段丘面には,花見川を挟んで高さの違いは認められませんので,少なくとも活断層であるとは考えにくいと思われます.

巨智部氏の論文にもありますように,花見川の谷に沿っては非常に軟弱な地層が堆積しており,そのために3月の地震の際にも地表に亀裂等が現れたということは十分に考えられます.」

産業技術総合研究所には丁寧な回答をしていただきお礼申し上げます。

活断層の存在そのものは、この論文をもって推定できないという専門家の評価を受け止めたいと思います。

忘れ去られていた明治時代の地質論文をきっかけにして、河川争奪成因の断層仮説を構築できないだろうかというロマンは、とりあえず矛を収めざるを得ないようです。

* * *

河川争奪成因としての巨智部忠承活断層説は一旦捨てたいと思います。

吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」を通して初めて巨智部忠承の断層説を知ったことや、「全部日本人の手になる」と強調される明治時代中期の地質調査成果を現物で検討したことは、私の知的体験としてとても有意義であったと感じています。

吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」(明治40年、冨山房)(影印復刻版)の「柏井」の項

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【巨智部忠承の活断層論文】

巨智部忠承「印旛沼掘割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)の影印を掲載します。

故巨智部忠承氏と東京地学協会に感謝します。

ページ「断層論文」にも拡大して掲載しています。

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【巨智部忠承の「花島村近傍地質図】

花見川河川争奪を知る26 巨智部忠承のカラー「花島村近傍地質図」掲載

ページ「断層論文」に、巨智部忠承のカラー図葉「花島村近傍地質図」と関連記述を掲載しましたので報告します。

20万分の1地質図幅「千葉」の説明書「千葉図幅地質説明書」(明治21年、農商務省地質調査所、巨智部忠承 述)に掲載されているものです。

次に、この花島村近傍地質図を拡大して表示します。

安政地震劈裂線、地水滲漏線、断層線が描かれていて、巨智部忠承が現場で見つけた情報と断層に対する考えを具体的に知ることができます。

図中の断層線は記述文章から「平坦地層一部の陥落」(天戸村の崖地に於いて第三紀層及び第四紀層の露出あり。東面に斜下すること凡そ拾度にして層向南北なり。)を示しています。

丙丁断面図の水流の下にf記号が描いてある通り、河道の下に断層本体を想定しているものと読み取れます。

まさに花見川河川争奪発生ポイントそのものにおける情報であり、3つの素材の空間位置が現在でも正確に特定できます。

124年前の情報ではありますが、河川争奪成因検討において何らかの参考になる可能性が濃厚です。

花見川河川争奪成因検討の断層説でこの情報を詳しく検討したいと思います。

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【参考 20万分の1地質図幅「千葉」明治20年発行】

花島村近傍地質図が掲載されている「千葉図幅地質説明書」(明治21年、農商務省地質調査所、巨智部忠承 述)の親図である20万分の1地質図幅「千葉」(明治20年、農商務省地質調査所、巨智部忠承)原本を産総研第7事業所の地質調査情報センターで閲覧し、コピーさせていただきました。

この原本は個人が使っていたもので、裏表に多数の書き込みがあり、古書店が付けたと思われる購入を促す和紙の付箋(「全部日本人ノ手ニ成レル…」)が残っています。

書き込みのない原本カラーコピーも見せていただきました。

次の4種の図面があり、明治中期の地質に対する重視がうかがわれました。

千葉図幅地質図(日本語バージョン)

千葉図幅地質図(英語バージョン)

千葉図幅地形図(日本語バージョン)

千葉図幅地形図(英語バージョン)

日本山岳会が所蔵する原本を借用してコピーしたとの説明がありました。

また、千葉図幅地質説明書の原本を閲覧し、「花島村近傍地質図」のページをコピーさせていただきましたが、この原本の裏には大久保書店のラベルが残っていました。神田の地質専門古書店から購入したもののようです。

巨智部忠承が地質調査所長であった時代もあるとのことですが、その地質調査所時代著作物を後の時代に同じ機関が古書店等から収集していることを知り、時代の変遷とはこういうことだと、妙に実感させられました。

花見川河川争奪に関連して、千葉図幅地質図から得られる情報は特に見つけることはできませんでした。

千葉図幅地形図からは、花見川流域に関して、当時の地形観を偲ばせる情報が得られましたので、機会を見つけて紹介します。