5-5 下総国印旛沼御普請堀割絵図
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【下総国印旛沼御普請堀割絵図】
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、絵図注記文字の私の解読が間違っていたことを教えていただきましたので、報告します。
2011年10月15日記事「絵図から読み取れる興味深い情報」で「下総国印旛沼御普請掘割絵図」(八千代市指定文化財)の次の部分(赤囲い文章)を、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と解釈して、自分の考えを述べました。
「下総国印旛沼御普請掘割絵図」(八千代市指定文化財)部分
木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号より引用、赤線書き込み
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、「コノ間 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と読むことが正しいと教えていただきました。
「コノ」はカタカナ、間はくずし字であり、くずし字資料を見せていただきました。 丁寧な説明をしていただき、納得できました。
おかげさまで自分の間違いを訂正できました。
専門的見識を持って対応していただいた八千代市立郷土博物館に感謝します。
自分の考え(堀割普請前に台地に無能谷があった)をこの注記文字に投影したいという感情が強すぎた結果、「コノ」(カタカナ)を「ここ」(ひらがな)とよみ、間(くずし字)を「より」と読んでしまいました。
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八千代市立郷土博物館より下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市文化財)の画像ファイルの提供を受け、このブログで公表する許可をいただきましたので紹介します。
下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市立郷土博物館提供)
この絵図は八千代市ホームページによれば次のように説明されています。
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印旛沼の堀割工事に係わった時に描かれたものです。
当時の印旛沼周辺の村々のことが描かれ、また工事に関して必要な記述もみられ、当時の村の様子や工事計画の一端を知ることができる歴史資料として重要なものです。
利根川が東遷(とうせん)したことにより、利根川が増水すると、印旛沼に大量の水が逆流し、印旛沼周辺が洪水にみまわれ、大きな被害を受けるようになってしまいました。そこで洪水を防ぎ、干拓により新田開発をするため開削工事が行われました。工事は新川と花見川をつなげるというものでした。
江戸時代だけで3回行われましたが、いずれも成功しませんでした。この絵図は2回目の安永・天明期のものと推定されます。
所蔵者の信田家はこの工事に積極的に参画しており、指定文化財の附(つけたり)とした安永9年(1780年)の「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3年(1783年)の「印旛沼新堀割御普請目論見帳」もその時の資料で、当時の計画を知ることができます。
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以前の記事(2011.11.1「絵図注記文字の解読を教えていただく」)で紹介したとおり、この絵図の印旛沼水系新川(勝田川)と東京湾水系花見川の間に「コノ間 拾四丁芝地 高七丈壱尺」という注記文字が書かれています。
また、その注記文字の新川(勝田川)側に「溜井」が描かれていて、その部分の台地に谷状の地形が存在していたことを暗示しています。
下総国印旛沼御普請堀割絵図部分(八千代市立郷土博物館提供)
この絵図は、天明期印旛沼堀割普請の前には、横戸村と柏井村の間の台地に分水界があったことを示す貴重な地形歴史資料の一つです。
この絵図画像のブログ公表を許可していただいた八千代市立郷土博物館と所蔵者に感謝します。