3-9古代における花見川地峡の役割

3-9 古代における花見川地峡の役割

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【古代における花見川地峡の役割】

八千代市発行の「八千代市の歴史通史編上」に大変興味深い記述がありましたので、紹介します。

八千代市の歴史通史編上の第3章第2節農村の分散と個性化(弥生時代後期)138ページから141ページ部分の、次の記述が目に飛び込みました。

「印旛沼周辺からも新川を通じて内房地域へ向かった人々がいたのかもしれない。」

「・・・内房地域と同じ土器であり、新川を利用した交流の深さをうかがえる。」

「南との交流のために新川に船を出しやすかったからであろう。」

記述の趣旨は、印旛沼周辺の栗谷遺跡、田原窪遺跡、萱田遺跡群などの弥生時代後期土器形式調査や集落立地サイトの分析から、新川筋が南との交流の玄関口になっていたというものです。

この記述について八千代市郷土博物館に問い合わせたところ、

1地域間の交流で、特に物の移動というのを想定すると、陸上よりも船を利用した水上輸送を考えるのが自然であり、

2新川を通じた水上交通というのが想定でき、

3新川を通じて、北は当時の香取海とよばれた内海へ出ることが、南へは、僅かながら陸路を入れて、花見川を通じて東京湾へと出ることが可能であったと考えられること、

などについて教えていただきました。

このブログでは地史的年代における花見川の河川争奪について想像し、享保期堀割普請前の河川の状況を考えました。(花見川上流紀行10河川争奪の見立て花見川上流紀行15堀割普請前の花見川谷頭その1花見川上流紀行16堀割普請前の花見川谷頭その2など)

この考察から、現在の花見川河道を次の6つの成分に分解することが出来ます。

1河川争奪前の花見川本流河道(当時の花見川の本流筋は犢橋川筋です。)

2河川争奪前の本流から分かれた争奪先兵の支川

3河川争奪によって花見川が古柏井川から奪取した河道

4河川争奪後残った古柏井川の河道

5古柏井川合流後の平戸川河道

6戦後東京湾埋立に伴う花見川延伸河道

花見川河道の6つの成分

花見川6成分は縄文海進想定図をベースに表示しています。

この6つの成分のうち、3(河川争奪によって花見川が古柏井川から奪取した河道)と4(河川争奪後残った古柏井川の河道)は、谷地形上は繋がっているけれども、水系上は短区間繋がっていない状況にありました。

古代特に縄文時代や弥生時代にあっては台地上には原生林が分布していたことから、ここを荷物を運びながら通りぬけることは難儀なことであったと想像できます。一方丸木舟等を利用した海面や河川水面の通航は障害物が少なく、効率的な移動、輸送が可能であったと考えられます。

関東地方では、印旛沼(とそれに連なる香取海)と東京湾でそれぞれ湾内各地の交流が舟運で行われていました。同時に、花見川という好条件を備えた幹線ルートを通じて、印旛沼(香取海)周辺地域と東京湾周辺地域の交流が水運で(一部短区間が陸路となりますが)行われていたと考えます。

「八千代市の歴史通史編上」はこのような花見川の交流物流幹線としての戦略的意義を弥生時代後期を例に説明しているものと、私は捉えます。

天保の堀割普請では黒船来訪に当たって、東京湾口が封鎖された際の物流ルート確保が主要な目的であったわけです。こうした機能(利根川印旛沼と東京湾の連絡機能)を花見川に求めた発想は当時の独創ではなく、縄文時代から花見川が果たしてきた連絡機能の記憶が社会に残っていて、当然のごとく生まれた発想であったと考えられます。

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花見川流域のイメージと感想5 古代を知る手がかり

花見川流域を歩いて、古代(狩猟時代)における花見川流域の人々の生活に興味を持ち出しました。

そこで、古代の生活について知るための手がかりについて考えてみました。

ア 遺跡

このブログではこれまでに花見川流域の古代遺跡として、犢橋貝塚、長作城山貝塚、検見川の落合遺跡(縄文丸木船、大賀ハス)、子和清水遺跡、長沼池の縄文遺跡、高津川谷津の縄文遺跡などについて記事にしてきました。これらの個々の遺跡記事を書く中で、花見川流域の自然・地形を狩猟時代の人々にがどのように利用・活用して生活したのか、興味がわいています。

縄文海進の海(漁労の場)、砂堆(が形成する自然の良港)、湧泉(飲料水確保)を含めて、自然・地形の特徴を縄文人がどのように利用したのか検討し、花見川流域を構造化して把握してみたいと思っています。

幸い埋蔵文化財地図が千葉県から発行されていますので、今後作成する自然・地形情報とGIS上で重ね合わせて、分析を深めたいと思っています。

私の花見川流域古代遺跡イメージ(想像)

受身的観察(ページ「散歩論」参照)レベルのイメージ(想像)です。

イ 地名

縄文時代から弥生時代に移行するときに大規模な人種や言語の断絶がなかったと分かってみると(*注)、地名も縄文時代から伝わってきているものがあると考えます。

このブログではハナミ川、ハナワ、ハナシマなどの「ハナ」について、縄文時代から伝わってきているものと考えました。(2011年6月4日「花見川の語源7 アイヌ語源説の取り下げ」)

地名を分析考察すれば、そこから農業社会以前にルーツを持つものを抽出できて、縄文時代人が地名として命名して共有する必要があった当時の重要情報を知ることができると思います。

千葉市域を見ると明治初頭ごろの小字名が地図情報として入手できそうなので、いつか花見川流域の小字データベースをGIS上に作り、地名と自然・地形を対照して、検討したいと思っています。

*小泉保「縄文語の発見」(青土社、1998)などによる。

ウ 民話

私に、民話を分析する知識も能力も全くないと言っていいのですが、子和清水の記事を書く中で、言い伝えの出発点が、古代人がその清水に抱いていた気持ちにあると直感しました。(2011年7月28日「子和清水」)

ひょっとすると民話というジャンルから、狩猟時代の情報(人々の感情)を、間接的にはなりますが、引き出すことができるかもしれないと考えるようになりました。

中沢新一「人類最古の哲学」(講談社、2002)、同「熊から王へ」(講談社、2002)など中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズを読んで、強く影響を受けています。(ブログ「ジオパークを学ぶ」参照)

花見川流域に民話があるのかどうか、そこから調べたいと思っています。

(コワシミズの「コワ」、「シミズ」いう言葉も縄文語由来であるかどうか、調べたいと思っています。)

エ 神社

神社の起源も狩猟時代の祭祀にかかわるものがあると感じられます。証拠となるような物や伝承は期待できないと思いますが、神社、古代遺跡、自然や地形などの情報をGIS上で対照してゆくと、縄文時代にかかわる新たな情報を得られるかもしれないと思っています。

このブログでは埋立前長沼池のほとりの「三社大神」を「縄文人の感情が神社という形態で現在まで残っているもの」と想像しました。(2011年5月23日「長沼池と縄文遺跡」)

神社だけでなく、花島観音(天福寺)もその立地場所から狩猟時代とのかかわりを想像しています。

オ 民俗

(中沢新一の影響を受けて、筆が滑ってしまっている状況ですが、)民俗のジャンルに入る指標の中から狩猟時代の情報を引き出せないものか、花見川流域を対象にして、おいおい見つけていきたいと思っています。