2-2 花見川筋の谷津地形発達史
2-2-4 河川争奪現象存在の証明とその成因
⑤ クーラーの成因検討
エ 地理的位置仮説の検討
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【地理的位置仮説の検討】
花見川河川争奪を知る46 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説21
成因仮説4
いよいよ真打登場です。 11月16日に思い浮かんだ、まだ孵化直後のアイディアですが、自分としてはクリーンヒットになりそうだと予感しています。(単なる外野フライに終わったらごめんなさいです。)
最初に原理的説明をします。次いで、室内の手作業を順次しながら思考を重ね、説明的記事を書き、その後野外調査をどうするか考えるつもりです。
* * *
花見川河川争奪成因
地理的位置仮説の原理的説明
前提
千葉第Ⅱ段丘(立川面)が谷底であった、V字谷が形成されていた時代、そのV字谷の河川縦断における発達は、下流から上流に向かって下方侵食(下刻)が波及していたと考えます。
その時代(立川面が形成された最終氷期)に、二つの河川があり、その流量(流域面積)や縦断勾配等が同じで下流で合流している場合、谷形状は次のようにモデル的にとらえることができると考えます。
谷形状分布モデル
印旛沼水系の谷形状分布モデル
このような考えを印旛沼水系に単純に適用して谷の形状が次のように分布する思考のためのモデルを作りました。
印旛沼水系の谷形状分布モデル
古柏井川ア地点と高津川イ地点、勝田川ウ地点の谷形状が下流のある地点(例高津川と勝田川合流点)から同じ距離aにあり、そのため最終氷期の侵食基準面低下の影響を同等に受け、谷形状が同じであると考えるモデルです。
また、ア、イ、ウ地点よりエ、オ地点の方が上流域に位置しますから、エ、オ地点はそれだけ谷形状が未発達になります。
このモデルはあまりにも現実の諸条件を抽象しすぎていますから、できるだけ現実の状況を説明できるように精緻化する必要があることは言うまでもありません。
しかし、原理を説明するためのモデルとして、地形分布を最単純化しました。
河川争奪の原理
この時代には東京湾側水系の方が印旛沼水系より侵食基準面に近いため、東京湾側水系の方がより下刻作用が盛んだった思います。
その下刻作用の前線が北上する様子をモデル図に書き込みました。
谷形状分布モデルと東京湾側水系下刻作用前線
この時、古柏井川のア地点と高津川エ地点、勝田川オ地点は東京湾側水系下刻作用前線の影響をある時点で一斉に受けます。
その時の南北方向の縦断面図を描くと次のようになります。
ア地点付近縦断面図
エ、オ地点付近縦断面図
東京湾側水系の盛んな下刻作用に対して、ア地点とエ、オ地点で生起する事象は次のように分かれます。
東京湾側水系の下刻作用で生起するア地点付近の事象
河川争奪発生
東京湾側水系の下刻作用で生起するにエ、オ地点付近の事象
河川争奪未発生
古柏井川ア地点では河川争奪が生じますが、高津川エ地点、勝田川オ地点では河川争奪は生じません。
以上の説明が、古柏井川が花見川によって河川争奪された原理です。
同時に古柏井川以外で規模の大きな河川争奪が発生しない原理でもあります。
なお、小さな河川争奪及び予兆現象は東隣地域(勝田川流域)に数か所以上あります。
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花見川河川争奪を知る47 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説22
成因仮説5
2011.11.20記事で説明した花見川河川争奪の成因仮説である地理的位置仮説の確からしさを検討するために、印旛沼水系(勝田川、古柏井川、高津川)の谷地形を俯瞰してみました。
下の図にあるように、古柏井川の上流付近にE地点を設定し、(任意に設定した)A地点からの河川距離を求めると、5.4㎞でした。
そこで、A地点から5.4㎞の距離にある、B、C、D(*)、F、G、Hの各地点を設定し、その地点における谷形状の概略を把握しました。
*D地点のみ5.0㎞地点(芦太川の延長がA地点から5.2㎞しかないため)
検討ポイントの設定
この結果を見ると、北高津川、芦太川、横戸川は河川の規模が貧弱で、A地点から5.4㎞の地点で浅い谷になっています。
最終氷期の海面低下(侵食基準面の低下)に起因する下刻作用(V字谷形成)の下流からの波及は及んでいません。
高津川、古柏井川、宇那谷川、小深川の4河川がV字谷になっており、谷幅(谷壁上端線間の幅)は宇那谷川>古柏井川>小深川>高津川の順になっています。
この順に河川の侵食力の強さを表しているものと考えられます。
宇那谷川がこの流域では本流筋で、ナンバー2が古柏井川であることが確認できます。
そして、V字谷の部分が東京湾側水系に一番近いのが古柏井川です。
このような情報から河川争奪成因仮説としての地理的位置仮説の確からしさを感じました。
なお、古柏井川の谷幅(谷壁上端線間の幅)として計測した値は、実際は大正6年測量地図から現在の花見川の谷幅を計測しています。
現在の花見川の谷幅が、争奪される前の古柏井川と異なるならば、この計測は意味がありません。
しかし、現在の花見川の谷幅は、古柏井川の谷幅を基本的に踏襲していると考えるので、このような計測をしました。
現在の花見川の谷幅の値は犢橋川合流付近で210m、花島付近で250m、柏井付近で270mであり、北に向かって広がることから、争奪される前の谷幅が争奪後も基本的には維持されているという仮説を支持しています。
柏井から犢橋川合流部までの花見川河道の基本形(特に谷幅)が古柏井川によってつくられたという考えについては改めて検討します。
また、古柏井川が河川争奪されたとき、そこがV字谷だったからというのが地理的位置仮説ですが、そうならば、河川争奪ポイントのさらに上流にあったはずの浅い谷である古柏井川の本当の源流はどこにあったのか、どうなったのか、という問題も当然生じます。
この問題も改めて検討します。
河川争奪を考える上で、この地域が陸化した後の谷の発達を、第1に、何度か繰り返された侵食基準面の低下による下刻作用の上流方向への波及と関連付け、第2に、印旛沼側と東京湾側の波及のタイムラグについて考えることが求められているようです。