5-4 印旛沼堀割普請に関連する地理事象
5-4-1 横戸弁天
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【横戸弁天】
横戸弁天は、石碑に現在地下流250メートル地点から昭和37年に遷座したと書いてあります。
この旧位置を古地図で調べてみました。
この地域の最初の近代測量図である迅速図(第一軍管区地方二万分の一迅速測図原図、「千葉県下総国印旛郡上志津村及千葉郡横戸村」、明治15年測量)をみると(上図)、弁天社として記述があります。よく見ると、建物の印が(くっついてしまっていますが)二つあることが確認できます。もともとあった旧弁天橋の左岸ほとりです。
迅速図の精度は落ちるので、正確に過去と現在を比較するために、大正6年測図の1万分の1地形図「大和田」を使って、GISで現場を検証してみました。
上図のとおり、過去の弁天社は現在の弁天橋下流にあった旧弁天橋のさらに下流に位置していることが確認できました。現在の横戸弁天から直線距離で約270メートル下流です。
なお、この図から、戦後の河川改修で天保期掘割普請による流路が、現在の横戸弁天から勝田川新合流地点付近で、西側に変更になっていることが確認できます。
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上記の絵図は横戸弁天付近を示しており、「天保期の印旛沼掘割普請」(平成10年千葉市発行)に収録されている「続保定記」(山形県平田町久松俊一家文書)の口絵の一部とそれをさらに拡大したものです。逆さになっていますが、「元池弁天」の文字と社と社務所及びそれぞれ背後の樹林が描かれています。小型の建物が社で、弁天池に張り出した岬のような部分に位置しています。社と社務所双方とも赤く彩色されており、当時の横戸弁天の姿を生き生きと描写しています。
弁天すぐ下の建物は「御小屋」と書かれており、庄内藩の工事関係建物です。
対岸の丘の上の赤い大鳥居は横戸弁天の鳥居で、掘割普請の邪魔になるとのことで移されました(「天保改革と印旛沼普請」鏑木行廣著、同成社)。現在の鷹之台カンツリー倶楽部付近です。
なお、弁天橋が両岸から土をせり出して堀を狭め、中央部で橋を架ける「土橋」の形式になっていることが確認できます。これは明治15年測量の迅速図からも読み取れるので、この絵図の弁天の姿が天保掘割普請が概成した状況での姿を表していると考えることができます。
この絵図に示された横戸弁天の姿をさらにリアルに想像するための参考図を下に掲載します。
この図は現在埋め立てられて羽田飛行場の敷地になっているところに立地していた玉川弁天(羽田弁財天社)の名所図(原本「江戸川名所図会」、新訂江戸川名所図会2 ちくま学芸文庫 収録)です。この図でも社が東京湾に張り出した部分に立地しており、社務所と思われる大きな建物がその近くにあります。また樹林で周りを囲んでいます。なお横戸弁天は正徳5年(1715年)に江ノ島弁財天から勧請されたのですが、玉川弁天は宝永8年(1711年)あるいは正徳3年(1713年)に江ノ島弁財天から勧請されたので、いわば兄弟筋にあたります。(横戸弁天も玉川弁天も戦後の地域開発で近くに移転し、共に往時より退縮しています。しかも、今なお信仰が途切れないで細い糸のようにつながっている姿も似ています。)
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コンビニやスーパーのチェーン店を広く地域展開する運動と同じように、神社の地域展開が行われた場合も多かったようです。ある特定の宗教的人脈(ネットワーク)が特定の神様を広めて行ったことが多かったのだと想像します。
多摩川の沿川には各地に漂着神伝承のある神社仏閣があるのですが、よく調べると多くの神社仏閣がある宗門の学問所のメンバーとつながりがあることがわかったという事実もあります。(「新多摩川誌」編著新多摩川誌編集委員会、平成13年発行)
横戸に弁天が勧請されたのも、横戸村の住民が弁天勧請を望んだことは当然ですが、外からの戦略的な「出店」が横戸に行われたと考えるのが本筋だと想像します。同じ江ノ島からほとんど同じ頃多摩川羽田にも、横戸にも勧請されたことからそのように想像します。
ここで、なぜ横戸という場所に勧請されたのでしょうか。横戸に勧請されたのが正徳5年(1715年)ということが正しければ、3回行われた掘割普請のうち最初の享保期掘割普請のきっかけとなった享保9年(1724年)の平戸村農民染谷源右衛門などの幕府に対する印旛沼干拓願い出より9年前のことです。まだ掘割はありません。
現地を散歩しながら想像したことは、弁天を各地に「出店」していた「江ノ島商事」の戦略担当役員が、「印旛沼干拓」、「掘割普請」、「東京湾連絡舟運」などをキーワードとする地域開発機運の情報をいち早く察知し、リスク覚悟で当時未開の横戸に「出店」したのだと思います。
横戸にたまたま弁天が勧請されて、後から偶然に掘割普請がそこに決まったとはどうしても考えられません。そこを掘りぬけば印旛沼と東京湾が結ばれるという象徴的戦略的な場所に、リスクテイクの達人である「江ノ島商事」の戦略担当役員が「出店」を決めたのだと思います。
享保9年(1724年)から始まった享保の掘割普請は完成することなく終わりましたが、その後、安永9年(1780年)から始まる天明の掘割普請、天保13年(1842年)から始まる天保の掘割普請と3回にわたるビッグプロジェクトがこの地で行われ、弁天の横戸「出店」は結果として成功したのではないでしょうか。「天保改革と印旛沼普請」(鏑木行廣著、同成社)には普請の監督である幕府役人が弁天を利用ことなども書かれており、ビジネスとしての弁天が成功していたであろう様子を空想させます。