5-4-2元池

5-4 印旛沼堀割普請に関連する地理事象

5-4-2 元池

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【元池】

明治15年(1882年)の弁天池

大正6年(1917年)の弁天池

「横戸元池弁天宮」が横戸弁天の正式名称で、「続保定記」には元池弁天と書かれています。この元池とはどの池のことでしょうか。3つ考えがあると思っています。

1弁天池が元池であるという考え方

明治15年測量迅速図の弁天池は、掘割一杯に広がっている姿が表現されています。天保の掘割普請からまだ40年程しか経っていない時期の名残の池です。

それから35年後の大正6年測量1万分の1地形図の弁天池は、池の周囲が水田に利用されるようになり、池が細長くなっています。地図上では延長1キロ、幅10~20メートルです。弁天池という名称が記載されています。

元池とはこの弁天池であるという考え方があると思います。

2天保掘割普請前の溜池が元池であるという考え方

弁天池は、天保の掘割普請の前はどうだったのでしょうか。

下図は天保の掘割普請前の「印旛沼干拓工事関係図」(幕張町中須賀武文家所蔵 千葉市図誌下巻〔千葉市発行〕掲載)です。

この絵図を見ると、勝田川と高津川が分かれた先の丘(墨色塗り)に囲まれたところに青色おむすび形の溜池があります。丁度掘割が位置するところですから、形はデフォルメされて表現されていますが、天保の掘割普請以前に目標となる顕著な池があったことは確実です。天保の掘割普請のときに、横戸弁天の鳥居が邪魔だから対岸の丘の上に移したということからも天保の掘割普請以前に弁天池同様の池があり、そこに横戸弁天が鎮座していた可能性が濃厚です。この池は享保及び天明の掘割普請のときに出来た地形を利用したものと考えられます。

この池こそが元池であるという考え方も成り立つと思います。

この池も弁天池と呼ばれていたものと想像できます。

3享保の掘割普請(最初の掘割普請)以前に存在した溜池が元池であるという考え方

弁天は水とのかかわりが深く、水のない場所に勧請されたとは考えにくいと思います。横戸弁天は最初の掘割普請以前に横戸に勧請されました。その時、既に溜池があり、そこに弁天が鎮座したものと考えることが自然です。弁天は「もともと」以前からそこにあった池に立地したから、元池弁天と呼ばれたと考えることは筋がとおります。あるいは、掘割普請後に弁天池と呼ばれるようになった池の「素(もと)」(元祖、根源)と言える水辺(池)に立地したから「もと(素)池」弁天と呼ばれ、表記が元池になったと考えることも出来ます。技術的土木的に掘割普請可能と人々が判断した場所ですから、そこにもともと谷地形があったと考えることが自然であり、谷地形があれば沖積地から見ると奥まったところですから溜池として利用されていたことは想像に難くありません。

なお、人々が目の前の池を「弁天池」と呼び、「元池」と呼ばないことも弁天池が元池ではない傍証になると思います。

今(現代)となっては、人々の記憶には、戦前の地形図に出てくる弁天池しかありませんから、「元池」=「掘割普請で出来た弁天池」となりますが、私は「元池」=「自然地形としての谷地形を利用して掘割普請以前のずっと前から存在していた溜池」と想像しています。

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私が、なぜ元池にこだわるか? その理由は、掘割普請以前に既に自然地形としてかなり大きな谷地形がそこにあったという仮説を私が持っているからです。仮に「元池」=「掘割普請以前のずっと前から存在していた溜池」が証明されると、自然地形としての大きな谷地形が存在していたという私の仮説が少しだけですが、補強されるからです。

なぜ、「掘割普請以前に既に大きな谷地形が存在していた」という仮説に興味を抱いているかというと、掘割普請の場所に、もともと河川の争奪現象があったと見立てているからです。

上のイラストは、河川争奪の古典的な説明図です。(「geomorphology」c.a.cotton 1958)