3-3 貝塚と縄文海進
3-3-1 縄文海進と貝塚分布
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
【縄文海進と貝塚分布】
縄文海進のイメージと貝塚分布
縄文海進のイメージ図の確からしさを検証するために、この図に貝塚分布をプロットしてみました。貝塚のデータは「千葉県埋蔵文化財分布図(2)」(昭和61年3月 財団法人千葉県文化財センター)を用いました。この図の範囲には24の貝塚が確認できました。貝塚分布と縄文海進イメージ図(現在の等高線+10m付近まで海が侵入したと想定※)との関係に基本的な齟齬は認められませんでした。なお、馬加貝塚が海の中にあるように見えますが、これは後世の花見川ショートカット工事で台地が削られたため、台地縁砂洲にあった貝塚がそのような見かけになっているだけです。
縄文海進のイメージ図の確からしさを自分なりに検証したので、今後、このイメージ図を使って過去の出来事に思いを馳せたいと思います。
※過去の海面の高さが+10mになっていたわけではありません。
正面は城山貝塚を覆って造成された建売住宅
城山貝塚は千葉市最北端に位置する貝塚で、縄文海進の海が長作川の低地奥深くまで進入した様子を示す証人みたいなものです。この遺跡は長作川湾入部に半島状に突き出た地形となっていて、現在ではその半島状の地形をそのまま覆って建売住宅群が建てられています。従って、御成街道(東金街道)を車で走行しながらこの建売住宅群を遠望すると、半島状の地形が確認できます。縄文早期遺跡。
画像右側台地上の縁に坊辺田貝塚がある
坊辺田貝塚は長作川低地に湾入した海の湾口部を見下ろすような位置に立地した貝塚です。
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
化灯場、貝塚、縄文海進
続保定記絵地図デジタル巻物を使って、早速絵地図に記載されている「化灯場」と「砂地」の文字の位置を地図にプロットしました。続保定記絵地図は普請(工事)の絵地図ですから、工事現場の土質が記載されているのです。
「化灯(けとう)場」とは現在でも園芸で化土(ケド、ゲド)などの用語で使われているように、アシなど水辺の植物が土の中で腐って堆積し粘土質になった谷津堆積物が分布する場所です。掘割普請では掘ってもすぐ崩れるので、工事が最も難航したのが化灯場です。化灯場の工法にまつわる題材は松本清張が「天保図録」で取り上げているほどです。
その「化灯場」は絵地図に7箇所記載されています。現在の柏井橋上流付近から天戸町付近にかけて分布しています。これを赤で表示しました。また「砂地」は4箇所記載されています。亥鼻橋付近から検見川付近にかけて分布しています。これを黄で表示しました。
この情報に貝塚分布図と縄文海進想定図をオーバーレイしてみました。縄文海進想定図は海進想定場所を青系統色で、陸地を緑で表示してあります。
このオーバーレイ図をみると「砂地」と貝塚分布が対応しているように見ることができます。具体的には、「砂地」の最上流部と貝塚の最上流部(坊辺田、神場)が対応しているように見ることができます。「砂地」と貝塚の分布域には、縄文海進のころ海浜の性格が強い環境があったと想像できます。
「化灯場」はそれより上流側に分布しています。このことから、縄文海進のころ湾奥部の後背湿地的環境がそこにあったものと想像できます。
次に「化灯場」の分布が狭い幅の花見川の奥深くに伸びている特異な姿に気がつきます。
なぜこのような「化灯場」の分布になったのか、本来の本流筋(犢橋川筋)から分岐した花見川がなぜ台地深く浸食を進めることが出来たのか、今後検討を深めていくつもりです。
河川争奪が起こったからそうなったと見立てているのですが、なぜこの場所でだけ河川争奪が起こったのか、そのヒントが巨智部忠承の論文「印旛沼掘割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)あたりにありそうだと予感しています。
(なお、巨智部忠承の論文「印旛沼掘割線路中断層の存在」に関連して千葉県総務部消防地震防災課より返答をいただき、2011年3月18日の記事で紹介しました。現在大震災の真最中でそれどころではないと思いますが、将来一段落する時が至ったならば、活断層の可能性と防災について、もう少し私の考えているところを述べたいと思っています。)