5-6続保定記

5-6 続保定記

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【続保定記】

ここまでのブログで続保定記のイラスト多数を引用して掲載しました。引用しながら続保定記の情報の素晴らしさに感嘆しました。素晴らしいと思ったポイントを次に列挙してみます。

1絵地図で天保掘割普請の全地域を詳しく表現しています。

表現内容が写実的であり、当時の状況を詳しく知ることができます。このブログでも弁天の 様子や化灯場の分布などの情報源として活用しました。

2工事状況パースを掲載しています。

工事パースがあるため当時の工事の状況が手に取るようにわかります。作者久松宗作が徴集された農民と一緒に行動を共にした行動的実務家であったのでこのような貴重な資料が作成されたのだと思います。

3労働イラストを掲載しています。

黒鍬や庄内夫などの労働の姿をイラストで示していて、土の運び方や服装などが手に取るようにわかります。運搬用の道具や装置も多数掲載されています。

4元小屋の状況が詳しく掲載されています。

庄内藩の地元事務所であり、かつ徴集農民の宿泊施設でもあった元小屋の状況、及びそこでの生活が詳しく記述されています。

続保定記の作者の狩川通添川組大庄屋久松宗作は徴集農民に付き添って国元を出発し、普請所に到着の後普請の様子を事細かに見聞し、また農民の世話をしていたようです。

このような詳しい資料を残してくれた久松宗作に感謝します。

同時に、続保定記をはじめ印旛沼掘割普請の資料を収集編集し、市民でもわかるように解説をつけ、主要な絵図はカラー印刷で発行した千葉市(編集 千葉市史編纂委員会)に感謝します。

いつの間にか歴史に興味が集中してしまいました。せっかくのことなので、続保定記をはじめとする資料を有力な素材の一つにして、私の本来の興味対象である散歩のICT化や高度化に取り組み、花見川の魅力を探り、地域づくりに活かしていきたいと思います。

具体的には続保定記の絵地図(印旛沼から海まで見開き17枚分)をGISに落とす試みを始めたいと思っています。久松宗作の残した情報を現代地図にプロットし、散歩に活用しようという算段です。

その最初の作業として17枚の絵地図を1枚の巻物のような絵地図に編集してみました。下図はその結果です。詳しくは後日報告します。

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天保の掘割普請で、庄内藩は領民1400人以上を動員して横戸村から柏井村までの区間の掘削に従事しました。このとき庄屋の久松宗作は領民に付き添って普請の現場に出向き、領民の世話をするとともに普請の様子を見聞し、その結果をイラストと絵地図を多量に含む著作物「続保定記」にとりまとめました。

絵地図は木版多色刷りで見開き2ページが1つの画像になっており、全部で17あります。その全てが「天保期の印旛沼掘割普請」(千葉市市史編纂委員会編集、千葉市発行、平成10年3月)にカラー印刷で収録されています。17画像の最初は「印旛沼全図」と表題があり、利根川も書かれています。最後の画像は「海」と表題があり、黒田家元小屋などが描かれています。17画像で利根川から東京湾までの水系を全て描いています。

柏井付近の絵地図画像

絵地図には各藩の受け持ち区域、元小屋、特徴的な地物、地形、化灯場など貴重な情報が記載されています。従って、これら17画像を1つの画像に編集できれば地図としての活用利便性が飛躍的に向上します。そこで、17画像を1枚の巻物にデジタル的に編集することが可能であるかどうか、試みてみました。

デジタル巻物化の作業は次の手順で行いました。

1 書籍のページをスキャンして画像ファイル(jpegファイル)をつくる。

2 ページ画像ファイルから個々の絵地図を一つ一つ切り取りして、絵地図画像ファイル(jpegファイル)をつくる。(印旛沼から東京湾まで17ファイルができる)

3 17ファイルを横に連結して一つの巻物のような絵地図にする。

作業を行う上で、私のスキルレベルでは次の点が課題となりました。

ア 17ファイルを横に連結する簡便な方法があるか。

イ 17ファイルを横に連結して画面上で移動するなど、実用的に使えるか。

ウ ファイル接合の正確性をどの程度確保できるか。(続保定記作成に従事した絵師が、絵地図接合を暗黙の前提として作業しているのかどうか)

作業結果は次の通りです。

1 書籍見開きページをスキャンして5つのjpegファイルを作成しました。

2 フォトショップで5つのファイルを必要数分コピーして、17画像分のファイルを切り取りで作成しました。

3 17画像の連結はWEBでフリーソフトを見つけて利用しました。

私は通常、画像の張り合わせをフォトショップでしていますが、最初に画像を張り合わせる大きさを測ってキャンバスをつくる必要があります。17画像の大きさを調べて、それに見合うキャンバスを作るのは、大変億劫です。そこで、最初からキャンバスを作らないで随時画像を追加できるソフトを探してみました。

そうしたところJointogether

(作者のホームページhttp://homepage3.nifty.com/hirapro/program.htm

というフリーソフトを見つけ、思い通りの機能がありましたので、使いました。キャンバスの大きさは随時画面上にある窓に数値を入れて変化させることが出来ます。使いやすいソフトです。

このフリーソフトで絵地図4画像分を張り合わせた状況のプリントスクリーン画像(3画面使用で画面一杯に展開)を次に示します。

ディスプレイ3台を利用した場合のプリントスクリーン画像例

結果として幅12551ピクセル、高さ742ピクセルのキャンバスに17画像を張り合わせることができました。一つのjpegファイルにまとめることも出来ました。

1枚に編集した続保定記絵地図デジタル巻物

作成した一つの絵巻物のような絵地図はフリーソフトJointogetherでも、フォトショップでも同じように快適に閲覧できます。

さて、この作業で、絵地図の画像接合がうまく行くか心配したのですが、杞憂に終わりました。17枚の画像のうち東端の印旛沼の画像は他の画像ともともと別の縮尺の絵地図となっているので接合は出来ません。それ以外の絵地図の画像は全て違和感なく接合できました。

1枚の細長い長方形の紙に巻物として絵地図を作り、それを切り取って一枚一枚の冊子用絵地図にするという基本的な考え方に基づいて作業をしたことが確認できました。

同時に、柏井村の庄内藩と鳥取藩の境の出ているページとその西の花島観音の出ているページだけは、半ページほど重複部分(接合部分)があることがわかりました。恐らく庄内藩の管轄部分の絵地図作成とそれ以外の部分の絵地図作成の作業を分けて行ったためであるからだと思います。

今後、作成したデジタル巻物を使って情報の収集分析を効率的に行っていきます。

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天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その10

13 捨土を担ぐイラスト(続保定記絵図)

ここまで捨土土手の分布や形状について詳細な多数の地形断面図に基づいて検討してきました。

この検討はこれから、土木遺構としての印旛沼堀割普請遺構の平面範囲の確定や、捨土土手の推計土量を用いて普請前の自然地形復元検討などに発展させるつもりです。

この記事では、捨土土手を担ぐイラストが続保定記(※)に掲載されていて、当時の捨土の人力運搬の姿をリアルにイメージできるので、参考までに紹介します。

※ 続保定記

庄内藩大庄屋(添川組)の久松宗作が作成したもので、天保14年に幕府の命で庄内藩があたった印旛沼堀割普請の状況を多数の絵図を用いて詳細にまとめています。久松宗作自身が庄内人足と行を共にして現場に赴き、普請の有様をつぶさに観察して、それを基にまとめたものです。

原本は手書き1冊で、絵図を含めて久松宗作が直接筆を執ったと考えられています。(山形県教育委員会ヒアリングによる)

船橋市図書館、成田市図書館、東京大学などに筆写本が存在します。

山形県指定有形文化財(典籍)に指定されています。

江戸働黒鍬之者、大もっこうにて堀捨土かつく図

但し、土の重サ三、四十貫目ゟ、水つき候土ハ七十貫目位迄もかつき候由

久松宗作著続保定記掲載絵図

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

(ゟは「より」)

黒鍬者は岩波日本史辞典(岩波書店)によれば「各地の新田開発や川普請に従事した日雇人夫。尾張国などからの出稼ぎ人が多かったという」と説明されています。

土の重さ三、四十貫(水がつけば七十貫)目も担ぐとありますから、1貫=3.75キログラムですから、110~150㎏、水がつけば260㎏ということになります。

「ハアドッコトショ」「アアヨイショ」という掛け声が書かれています。(「ハアドッコトショ」は誤字で「ハアドッコイショ」と著者は表現しようとしたものと、私は推察します。「イ」と「ト」は筆で書く時似ています。パソコン入力で「に」と「の」をよく間違うのと似ています。)

黒鍬者かつき替之所

鬼つきい云て、申サハ六丁有之所を三丁行、先ノ者江渡こと也

久松宗作著続保定記掲載絵図

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

土方雇之者

是ハ古堀近郷又江戸辺之者にても、其土地之頭ニ随ひやとわれ出たるを云、重キをかつぐこと不叶、乍去無怠慢、図のことき両かつきかこに入、入レ候よりかつきあるくこと少しも弛ることなき故、思ひ之外果敢取候者也

久松宗作著続保定記掲載絵図

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

土方 雇頭黒鍬

土方共ニ如此江戸者多く、黒鍬の元方惣頭ハ新兵衛 七九郎トテ結城近在之者也、右の者の手ニ付小頭相勤候者ハ、何レも如図

久松宗作著続保定記掲載絵図

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

庄内役人

庄内夫 かつぐことをなれぬ故、背負ことを専らとす

久松宗作著続保定記掲載絵図

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

大もっこうを担ぐ黒鍬者、両担ぎ籠を担ぐ土方、籠に土を入れて背に担ぐ庄内夫(郷人足)の3様の捨土運搬の技術が見て取れます。

異国に来て土を運ぶ庄内夫の姿がなんとも華奢に見えます。

久松宗作は庄内夫を土方としてではなく本来の勤労農民として意識して描こうとしたのだと思います。庄内藩の農民は「土方をするために生きてきたんじゃない」といいたげな絵です。

次の図は庄内藩内部の丁場(持ち場)区分図です。

庄内藩の丁場区分と捨土土手

庄内藩からはるばる歩いて1463人の人足(農民)と村役人がこの現場にきましたが、その集団が労働に従事したのが現在の横戸台団地付近です。

高台という地名があり、もともと東京湾水系の谷津(花見川)と印旛沼水系の谷津(古柏井川)の谷中分水界があった場所です。

最も深く掘らなければならない場所です。

郷人足の丁場の両側は人足引受人(現代風に言えばゼネコン)に工事を投げた場所で、北は百川屋、南は新兵衛と七九郎が工事を受注したわけです。

この丁場で働いたのが、黒鍬者や土方です。 最盛期には庄内藩の丁場全体で1日に6000~7000人が働きました。

つづく