3-7-7-①境界杭としての利用
3-7 双子塚古墳
3-7-7 後代における双子塚古墳の境界機能
① 境界杭(測量杭)としての利用
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【境界杭(測量杭)としての利用】
花見川源頭部付近にあった古墳 その6
1 古墳時代の境界機能
古墳時代における双子塚の境界機能は明白でした。
東京湾側に住んでいた人々が造った双子塚が台地上位面(下総上位面)の北端にあり、丁度その付近に花見川源頭部と古柏井川との谷中分水界がありました。従って、双子塚が東京湾側テリトリーの北端でした。
双子塚の北側段丘崖(下総下位面が形成した海蝕崖)と谷中分水界を結ぶ線分が社会的な境界になっていたと考えられます。
古墳時代の東京湾側テリトリー
2 近世の境界機能
ところが、近世の双子塚の境界機能に、ア微妙な異変と、イ測量技術発達的特徴がみられます。
ア 微妙な異変
以前の記事に掲載した双子塚位置図を再掲載します。
(再掲)双子塚の位置
双子塚の現代地図へのプロットでわかるように、双子塚は柏井町(旧柏井村)と横戸台(旧横戸村)の町丁目界線付近にありますが、横戸台(旧横戸村)に位置しています。
古墳時代の常識(東京湾側の人々が造った祭祀空間は、東京湾側テリトリーに属する)がここでは破られています。
異変が生じています。
なぜこのような異変が生じたのか、直接的に説明する手がかりは見つけていませんが、次のように考えます。
結局のところ、印旛沼側社会(横戸村)の方が東京湾側社会(柏井村)よりこの付近の土地に対する意欲が強かったから、双子塚付近の土地を印旛沼側社会が自らのテリトリーに奪うことが出来たのだと思います。
その理由は次の3点によるものだと思います。
理由1 双子塚における水田祭祀が何らかの理由で行われなくなった時が訪れた。
柏井や花島の狭小な谷津田ではなく、天戸付近から下流の広い平野に開発の焦点が移行したのだと思います。
水田経営の拡大は支配者と祭祀場所の変更も伴ったのだと考えます。
双子塚を築造した小豪族も絶え、祭祀空間であった記憶も薄らげば、辺境地になってしまった花見川源頭部における小さな塚の領有を守る必要性は、東京湾側社会にはあまり存在しなかったと考えます。
理由2 地形上の理由から印旛沼側社会の方が土地に対する意欲が強かった。
水田開発という視点ではなく、原野(入会地)の確保という視点からみると、印旛沼側社会は、本拠とする勝田川から、古柏井川(空川)を遡って土地を確保した時期があったと思います。
一方その頃、東京湾側社会から見ると、古柏井川は本拠とする花見川水系とは谷中分水界を挟んで、印旛沼側流域にあることを知っています。
印旛沼側社会を押しのけて古柏井川の原野を確保するという意欲は低かったと思います。
双方の土地に対する意欲の差が双子塚付近の台地小範囲の領有権の移行になったのだと思います。
理由3 双子塚を境界杭として、印旛沼側社会が利用した。
地形的な変化の少ない台地にあって、古墳はまたとない土地の目印です。
印旛沼側社会が主導して、双子塚を境界杭代わりに利用して領地境を設定したものと考えます。
その際、双子塚とその周辺の土地も自らのものにしたのだと思います。
東京湾側社会は、双子塚を境に領地境が設けられることに関して、大局的にみれば自らの領地を失うものとは考えないで、従ったものだと思います。
つづく
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花見川源頭部付近にあった古墳 その7
イ 測量技術発達的特徴
前記事の「(再掲)双子塚の位置」図を見て、そして17世紀中ごろから現代まで伝わる柏井町の領域界の分布、特に鷹之台カンツリー倶楽部を斜めに横切る、特徴的な柏井町と横戸町の境の線を何度も見ていました。
17世紀中頃の柏井内野の境と現代柏井町と横戸町の境の対応
そうすると、次のような強いイメージが私の脳裏に浮かびました。
脳裏に浮かんだイメージ
印旛沼側社会(横戸村)が、双子塚を境界杭みたいに利用したことは大変興味深いことですが、さらに、ゴルフ場を斜めに横切る境界線の先にも、もう一つ境界杭となるような地物があるのではないか?というイメージです。
このイメージが浮かんですぐに資料をしらべたら、
本当に、もう一つの境界杭として利用したと考えられる地物がありました。それも古墳です!
千葉県埋蔵文化財分布図(3)を見ると、高台南古墳が予想した場所にあります。
双子塚の北方向の町丁目界線延長付近に高台南古墳がある
千葉県埋蔵文化財分布図(3)№31習志野(千葉市域、部分)
平成11年3月千葉県教育委員会
早速、双子塚と高台南古墳を結ぶ直線と現在の町丁目界線を比較するとともに、地形断面図を作成してみました。
2つの古墳を結ぶ直線と現在の町丁目界線
古墳を結ぶ直線と現在の町丁目界線とは大きいところで50mほどのずれがあります。
現在の町丁目界線が17世紀中ごろの村界と基本的に同じものと考えることができるならば、そのずれの理由は次のように考えることができます。
つまり、領域界を設定する基本の考えは、二つの古墳のそれぞれ南側端を結んだ線分とするが、現場での杭打ちは古柏井川の谷壁と谷底が横戸村に入るように、線を結んだということだと思います。
古柏井川は印旛沼水系に注ぐ地形でしたから、その部分は直線を多少修正してでも横戸村に入れたのだと思います。
二つの古墳を結んだ地形断面
高台南古墳の高さは3m、視点の高さは1.5mとして設定
二つの古墳を結んだ地形断面図を見ると古墳上から双方を見通せることが確認できました。
印旛沼堀割普請の盛土(及び掘削)を除くと、双方の古墳の間はとても見晴がよい地形になっています。
古墳近くの樹木を伐採し、目印となる旗や吹き流しを長い竿で立てれば、双方から測量することが十分に可能です。
関連情報をもっと正確に整理すれば、少なくとも17世紀中ごろまでには、2つの古墳を測量杭のように利用して領域界が設定された事例がここにあったと報告することができると思います。
つづく