2-2 花見川筋の谷津地形発達史
2-2-4 河川争奪現象存在の証明とその成因
④ oryzasan氏の説検討
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【oryzasan氏の説検討】
花見川河川争奪を知る12 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想1
oryzasan氏から河川争奪に関連して再度コメントをしていただきました。「図を使わずに文章だけで意見を述べるのは困難なので、掲示板での場ではなく、メールに添付する形でコメントする」ということで、立派な論文をメール添付で送っていただきました。専門家の立場から詳しい情報を懇切丁寧に教えていただき、大感激、大感謝です。
論文は次のような4章構成になっており、11画像付きA4版8ページに及ぶものです。(論文題名はクーラーが付けました)
花見川の地学
Ⅰ. 台地と低地の形成史
Ⅱ. 現在の川筋が決まったのはいつか
Ⅲ. 「古柏井川」は存在したか
Ⅳ. 花見川付近でのみ分水界が北にずれたのはなぜか
ブログという性格上記事を区切る必要がありますので、1章1章別記事として順次紹介させていただき、その都度私の感想等も述べさせていただきます。後日論文全体を別のページに掲載させていただきます。
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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用
Ⅰ. 台地と低地の形成史
房総半島北西部を含む関東平野の地形は、大きく見ると、高さの異なる二枚の平坦面と境界の急斜面とから出来ています。高い方の平坦面が「台地」、低い方の平坦面が「低地」、境界の斜面を「段丘崖」と言います。
図1
台地では古東京湾と呼ばれる海に積もった、上岩橋層や木下層の上に、常総粘土層や武蔵野ローム層、立川ローム層などの火山灰層が堆積しています。なお、これらの火山灰層のうち、常総粘土層は湿地堆積ですが、他は乾いた陸上に降灰したものです。またこれらの火山灰層中には、三色アイス軽石層(SIP:約13万年前の箱根山の噴出物)、東京軽石層(Tp:約5万年前、箱根山)、姶良-Tn火山灰(約2.4万年前、鹿児島湾の姶良カルデラ)などの年代、分布、噴出源の明確な「鍵層」が挟まれています。
一方低地では、これらの地層をV字状に削り込んだ谷を、沖積層が半分ほど埋めています。沖積層はこの地域では、約1.7万年前以降に堆積した地層で、海または海へと続く湿地堆積の地層です。この海はいわゆる縄文の海で、この地域では、印旛沼方向から入り込んだ「古鬼怒湾」と、東京湾側から、海老川、菊田川、浜田川-花見川低地などに入り込んだ小さな入り江がありました。古鬼怒湾は新川低地の宮内付近まで入り込んでいたことが、沖積層中のケイソウ化石の分析からわかっています。また花見川低地では、天戸付近にまで海が入り込んでいたことを、もう20年も前のことですが、河川敷に散布されていた工事残土中の貝化石から確認しています。
従って台地と低地とは、新川低地を例にすれば、次のようにしてできたと考えられます。
台地と低地の形成には、海水面の上下が密接に関係しており、古東京湾の時代以降V字谷の時代に至る海水面低下期にかけての、浸食作用卓越期に低地の基本形となるV字谷が形成され、海進期の入り江の時代に底が埋められて低地が完成します。浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。
図2
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花見川河川争奪を知る13 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想2
oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用に対する感想を述べます。
感想
ア 自分の思考に時間観念が無いことに気がつく
最新地学の基礎をわかりやすく噛み砕いて教えていただき、ありがとうございます。
図1と図2で花見川付近の地形発達の模式がとてもよくわかりました。
この模式図をみて、私の花見川河川争奪のイメージには地史的な時間観念がないことに気がつきました。
この教えていただいた地形発達モデルを思考の基盤として、それに自分の考えていた花見川河川争奪の概念をあてはめたところ、次のようなことが、まず、わかりました。
イ 沖積層を切るような形での河川争奪ではないこと
oryzasan氏の次の文章から、花見川河川争奪は沖積層を切るような形での河川争奪ではないことに気がつきました。
「浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。」
時間観念なしに考えてきたので、思考の中に河川争奪により、沖積層を切ることがあったかのような一種の勘違いが混在していたことを意識することができました。
ウ 花見川河川争奪の谷地形変化モデル
oryzasan氏の図2のモデルに従って、自分のイメージしている花見川河川争奪プロセスを想像たくましく整理して時間軸に投影してみました。
花見川河川争奪による谷地形変化モデル
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花見川河川争奪を知る16 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想3
oryzasan氏論文全4章の第2章を紹介します。
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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第2章引用
Ⅱ.現在の川筋が決まったのはいつか
ですから、現在の台地と低地の分布が決まるのは湿地の時代からV字谷の時代にかけてのことであり、V字谷の時代以降、川筋の変更は起きていないと考えて良いでしょう。おそらくは乾陸化の完成する東京軽石層降灰期の5万年前には、ほぼ現在の川筋に固定されていたのではないでしょうか。
古東京湾の海退直後にはまだ川はありません。海退直後の地表面の微妙な高低の分布に従って流れ出した小さな流れが、現在の川筋、つまり低地の元になったと考えられます。つまり現在の川筋が決まったのは、湿地の時代のことです。
図3
常総粘土層最下部には「三色アイス軽石層(SIP)」と呼ばれる、約13万年前の箱根山の噴出物が挟まれています。右の図は花見川流域におけるその分布図ですが、SIPが層状で挟まれているのが観察される地域と、軽石の粒として砂の間に散っているか、全く見られない地域があり、後者は前者に比べて、離水が遅れた地域と考えられます。なぜなら後者は河原など水の動きの激しい環境と考えられるからです。層状のSIPの分布域は現在の分水界地域よりも東京湾よりの、やや低い地域にあります。
図4
また、常総粘土層の最上部は、やや緑がかった、白~灰色の石けん状の粘土層よりなることが多いのですが、この粘土層は、水成の火山灰層で、水との化学反応の結果粘土化したものと言われています。しかし花見川下流域の千葉市天戸~長作付近にはこの粘土層は見られず、かわりに赤土状のローム層が分布します。この地層は「下末吉ローム層」と呼ばれる、常総粘土層と同時期に降下した陸成火山灰層です。このことは、古東京湾の海退後、まだ湿地環境が残っていた他の地域に対して、天戸~長作周辺地域の乾陸化が先行したことを示しています。離水は最も高い場所から進むはずなので、天戸~長作地域は現在の分水界地域である、横戸~柏井周辺よりも高かった(下の図)ことになります。
図5
図6
この地域に最初に流れ出した川はおそらく、この地域から北東の印旛沼方向と南西の東京湾方向に向かって流れ出しますが、間もなく分水界地域に隆起帯の軸が移って、現在の分水界が形成されたのでしょう。
次の図は八千代市周辺の台地と低地の分布に、印旛沼水系と東京湾水系との分水界を入れたものですが、最も高い、海抜高度が30mを越える地域が、分水界よりも印旛沼水系側にあることに注目してください。このことは隆起軸の印旛沼側への移動が、分水界確定後も続いていることを示しています。しかし現在の川筋はこの頃、既にある程度できあがっており、周りの隆起にもかかわらず、谷底の下刻作用を続けて、現在(正確には海水面の最降下期、つまり最終氷期最寒冷期)に至ったのでしょう。隆起軸の長作-天戸地域から30m地域への移動は、陸成下末吉ローム層に挟まれる御岳起源の軽石層、Pm-Iの年代の約7万年前から、この地域全域の陸化の完了する5万年前(東京軽石層の降灰年代です)までの間に行われたと考えられます。
図7
そうした中で花見川だけが、その流域を北に「食い込ませて」おり、やや異質な印象を受けます。それは東西の柏井の谷津の合流によります。柏井の谷津はどちらも、他の谷津と同様、北東方向に向かって流れ出しますが、30m地域に遮られるようにして流路を直角に曲げ、花見川に合流して、当初とは逆方向の東京湾へと向かいます。クーラーさんはその理由を、かつてあった「古柏井川」の上流域を花見川が奪ったためとしていますが、僕は柏井の谷津は5万年前には既に花見川の流域であったと考えています。理由は次の通りです。
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花見川河川争奪を知る17 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想4
oryzasan氏論文「花見川の地学」第2章引用に対する感想を述べます。
感想
ア 5万年前には、ほぼ現在の川筋に固定されていたこの論文を学習させていただき、沖積層を切る河川争奪という勘違いを排することができました。感謝します。
既報の通り、空中写真による地形面対比の作業を始めました。
その作業の中で、堀割普請で、掘削土捨土で埋め尽くされないで残った古柏井川の谷底面らしき地形面断片を見つけています。その地形面が勝田川の千葉第1段丘(武蔵野面相当)(房の駅より北に分布する河川段丘)に連続する感触をもっています。
もしそうだとすると、千葉第2段丘(立川面相当)を形成した河川の下刻時期に河川争奪が起こったのかもしれません。その場合5万年前より新しい時代(約2万年前)になります。
こうした想像が正確であるかどうかまだわかりませんが、作業の手がかりを得たので作業を進めて、順次報告します。
杉原(1970)による地形・地質概念図
杉原重夫(1970):下総台地西部における地形の発達、地理学評論43-12
イ 掲載図を見ながら、一つのヒントが浮かぶ図5の花見川流域模式地質断面図とその説明から花見川流域の地層と地形発達の特徴がよくわかりました。花見川流域を含めてこのような素晴らしい研究が行われていることを知り、感動しました。
この図の上岩橋層上面が谷の形をしています。この谷の形はこの図では実際の谷ではなく、地殻変動を表現しているものだと思います。
この図の掲載趣旨と全く離れますが、この埋没谷イメージを引き金にして、「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」で次のような記述があることを思い出しました。
「木下層は、下末吉海進期の堆積物(菊池、1974)であり、上岩橋層を不整合におおって本地域のほぼ全域に分布する。基底面は一般に平坦であるが、しばしば深さ10mを越す埋積谷を基底に伴う」
もし、上岩橋層を削る深さ10m以上の埋没谷があり、その谷を埋める木下層の層相が泥層であれば、そのような場所が水蝕にさらされたとき、埋没谷が無い場所と比べて浸食が激しいという現象がおこるのではないかと想像しました。
自分としては花見川河川争奪の成因検討対象の一つになるのではないかと思いました。
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花見川河川争奪を知る19 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想5
oryzasan氏論文全4章の第3章を紹介します。
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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第3章引用
Ⅲ.「古柏井川」は存在したか
①河川争奪の時期はいつか
最初に述べたように、この地域の川が侵食力を持っていたのは、海水面の低下期であるV字谷の時代、つまり最終氷期最寒冷期以前でなければなりません。1.7万年前(八千代市平戸における新川低地沖積層の下限の年代です)以降は海進期になり、谷は沖積層堆積の場となります。約4000年前の縄文の海の海退後もこの状況に変わりはなく、関東平野で新たに谷を刻み始めた川はありません。ですから河川の争奪があったとすれば、それはV字谷の時代以前ということになります。
②「古柏井川」の下流域は存在するか
古柏井川の上流域を花見川が奪ったとすれば、古柏井川の下流域が地形的に確認されねばなりません。とくにその時期が、最も河川の侵食力の強かった(つまり海水面の最も低下した)最終氷期最寒冷期の出来事であったとすれば、明瞭な谷地形が残されているはずです。クーラーさんはそれが横戸-柏井間の花見川開削部にあったとしていますが、はたしてそうでしょうか。
航空写真は1949年にアメリカ軍が撮影したものです。柏井の谷津と花見川の開削部が写っていますが、他の低地に比べて、花見川の開削部分は明らかに直線的です。人工的に作られたものという印象を強く受けます。花見川開削部が「古柏井川」の下流部を人為的に広げて作られたとすれば、このことは説明がつきます。しかし、その幅は柏井の谷津よりも明らかに狭く、ここが柏井の谷津の下流部であったとは考えられません。なぜなら谷津の幅は下流部ほど広いのが原則だからです。まして、「古柏井川」の下流部を人工的に広げて作られたのが花見川の開削部であるとするならば、なおのことです。
図8
また花見川の開削部の地形は、幅に比べて台地との高度差が大きいのが特徴です。このことは、例えば勝田川低地の地形と比べてみれば明瞭で、大きすぎるといって良いでしょう。もしこれが、古柏井川の谷津の底を掘り下げた結果であるとするならば、人為的改変以前、勝田川低地との合流点において、古柏井川は急流をなして勝田川に合流したことになり、不自然です。
さらに、北東に向かう柏井の谷津が突然直角に曲がるのは、30m地域の出現によって、行く手を遮られたためでしょう。それなのに、東西の谷津の合流後、改めてそこを横切ってゆくのもおかしなことです。
以上の理由から花見川の開削部が、かつての古柏井川の下流域であったとする、クーラーさんの考えには賛成できません。そして他には古柏井川の下流域の候補にあたるような地形は見あたりませんから、古柏井川はなかったというのが僕の結論です。
ただし、それは現在のように谷筋が明瞭になって以降(つまり5万年前以降)のことです。常総粘土層の堆積期、あるいはその直後であれば話は別です。この頃、この地域はほとんど平坦で、わずかな高低の差に従って水が流れ、それが現在の低地の元となる谷を刻んでゆくのですが、そんな、谷筋がまだはっきりと形成される以前であれば、「古柏井川」の存在は充分に考えられます。この頃、東西の柏井の谷津の元を作った川(「東柏井川」と「西柏井川」とでも呼びましょうか)は、芦太川や宇那谷川などと一緒に(もしかすると花見川も)、南西方向から北東方向へと並行して流れていたでしょう。30m地域の出現によって、東西の「柏井川」だけが直角に流路を変えて花見川に合流し、東京湾へと流れることになるのですが、これは河川の争奪というよりは単なる流路変更と見た方が妥当ではないかと思います。
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第3章の感想は次の記事で述べます。
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花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6
oryzasan氏論文「花見川の地学」第3章に対する感想を述べます。
感想
①河川争奪の時期はいつか
oryzasan氏のおっしゃる通り、河川争奪の時期は1.7万年前の海進開始期以前だと思います。ここらへんの地史時間概念はこの論文で学習させていただきました。
②「古柏井川」の下流は存在するか
oryzasan氏は以下の点から古柏井川下流の存在に疑念を述べられています。
ア 明瞭な谷地形が確認されない
イ 下流部ほど広いはずの谷幅が狭い。(人工的に広げたなら、なおさら)
ウ 川幅に比べて台地との高度差が大きすぎる
エ (高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。
以上のoryzasan氏の論点を検討します。
1949年撮影米軍空中写真をディスプレイ上で裸眼実体視して、次の地形分類図を作成しました。
地形分類図
この作業で、これまでの私の地形理解で重大な誤りを犯していたことに気がつきました。
次の図はこれまでこのブログで何度も掲載してきたものです。古柏井川の無能谷になった部分の水系を赤線で示してあります。2支流を考えています。
旧版1万分の1地形図の等高線分布から想定したものです。
これまでの古柏井川の無能谷部分の水系理解
余談になりますが、地団研専報45論文のリストで発見し、最近読んだ戦前の地形学者論文(基礎資料は同じ旧版1万分の1地形図を使っている)でも、同じ2支流が水系に図化されています。この論文を見た時、自分の水系理解も間違っていないと思い、まんざらでもない気分でした。
戦前地形論文の花見川水系認識
花井重次、千葉徳爾(1939):関東平野の凹地地形に就いて 特に下総台地上の凹地地形、地理、VOL2.、NO2
この水系理解が空中写真の実体視をした途端に、疑念なく、間違いであることが判りました。
A-B付近の3D画像は次の断面のようにきわめて明瞭に見ることができます。
断面A-B付近の地形分類図
断面A-Bのイメージ
このデータ、特に台地(下総下位面)を削る斜面(緩斜面、急斜面・小崖)と平坦面の連続性から、次のような地形解釈をすることができると考えました。
古柏井川の復元にかかわる地形解釈
当初考えていた支流は、支流ではなく、堀割普請の盛土で埋め尽くされなかった古柏井川の河道(の河岸段丘部分)と盛土に挟まれた空間であることが判りました。
この区間の下流の右岸(西側)の支流も同じように古柏井川の谷壁と盛土に挟まれた空間であることが判りました。
空中写真実体視恐るべしです。実体視した途端に地形の解釈ができました。
この地形解釈の精緻化による変更は大いにありうると思いますが、根本は変わらないと思います。
次の地図は1960年(昭和35年)測量の千葉市都市図ですが、堀割普請背後の平坦面が千葉第1段丘に連続している有様をよく表現している等高線が描かれています。
千葉市都市図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」440ページ掲載図を引用
oryzasan氏の古柏井川下流存在に対する次の疑念
ア 明瞭な谷地形が確認されない
イ 下流部ほど広いはずの谷幅が狭い。(人工的に広げたなら、なおさら)
ウ 川幅に比べて台地との高度差が大きすぎる
には、以上のデータで答えることができたと思います。
(つづく)
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花見川河川争奪を知る21 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想7
oryzasan氏論文「花見川の地学」第3章に対する感想の続きを述べます。
感想(つづき)
oryzasan氏は以下の点からも古柏井川下流の存在に疑念を述べられています。
エ (高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津(*)が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。
* 谷津の名称は地名として前谷津と後谷津があります。oryzasan氏は前谷津を西谷津と、後谷津を東谷津と仮称していますが、現地地名(河川名)を優先して使用しないと混乱しますので、この記事では前谷津、後谷津の名称を使います。
次の図は標高30m以上を赤で、27.5m以上をピンクで色塗りして、河川の方向を矢印で描いたものです。
花見川付近の地形と流向
この図を見て次のことに気がつきます。
1 前谷津は最初北流し、ついで東流します。最初から高地があり、それに遮られて東流したということならば、oryzasan氏の考えは理解できます。(しかし、その場合隣の芦太川が最初からある高地を浸食して北流する説明ができません。)oryzasan氏はこのようなことをのべているのではないと思います。
2 そもそも印旛沼水系ができた当初はここに高地はなく、その後隆起帯が北に移って、この場所が高地になったというストーリーを大方の人が採用しています。oryzasan氏もそのようなお考えだと思います。そうすると、最初北流していた前谷津が、東流に流路を変更する前の流路が、高地に跡となって残っていなければなりません。地形図からそのような証拠は見られません。
東西方向と南北方向の水系パターンが構造的なものを表現していることは推察されると思います。
3 「前谷津と後谷津が合流した後、あらためて隆起した高地を北流するのはおかしい」とのことです。
高地が隆起する前は北流していたのであるが、隆起した後は流れることができなくなったということを述べているものと理解できます。もしそうならば、流出口を失った河川の水が溜まり、そこには湖沼ができるはずです。(実際に、そのような成因の湖沼として、宇那谷川の長沼池が存在したと、私は考えています。)しかし、この付近に湖沼の堆積地形は見つかりません。湖沼堆積物の観察記録もないと思います。(もしあったとしても、結局は河川争奪を考えることになりますが。)
高地の隆起で北流できなくなったので、湖沼を形成することなく、河川がみずから出口を探し、反対方向として、南流した(南流する谷を削った)ということは、原理的にあり得ません。
以上の検討から、「(高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。」という理由設定そのものが成立しません。したがって、そのことは、古柏井川下流の存在に疑念を持つ理由になりません。
前記事とこの記事で述べたことから、古柏井川の下流部が存在したという事実は疑う余地はないと思います。
古柏井川下流部は、江戸時代の掘割普請により河床掘削が行われ、同時に盛土により谷形状のほとんどが隠されました。この古柏井川下流の古地理詳細復元は今後大いに行うべき課題であると思います。
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花見川河川争奪を知る22 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想8
oryzasan氏論文「花見川の地学」全4章の最終章である第4章を紹介します。
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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第4章引用
Ⅳ.花見川付近でのみ分水界が北にずれるのはなぜか
白鳥さんの論文で引用された図2は僕が描いたものです。あの図は築地書館発行の「日曜の地学 千葉県編」中の「花見川から印旛沼へ」という章の中のものですが、文章の中で僕は、印旛沼と東京湾という地域の差異は木下層堆積期からすでにあり、前者に泥質の潟湖(ラグーン)堆積物が分布するのに対して、後者には砂州の堆積物が分布している。両地域の分化は地殻変動と密接な関係があり、印旛沼西部調整池周辺と東京湾とは別個の沈降域である。花見川開削の行われた横戸の台地は両者を分かつ隆起帯であり、工事の困難さをもたらした遠因になっているのではないかと書いて、常総粘土層の高度分布と泥質の木下層の分布を重ねた図を描いたのでした。図を素直に見ればわかるとおり、花島から横戸間の花見川流域は尾根状の高まり(隆起域)であり、白鳥さんの言われるような沈降域ではありません。したがって地下水が特にここに多く集まる理由はなく、谷津の頭部侵食が花見川だけで進まなければならない理由はありません。
天明・天保の開削工事において、多量の湧水のために花島付近の工事が困難を極めるのは、「ケト土」の部分を深く掘ったからでしょう。「ケト土」は泥炭層ですが、縄文海進の海が及ばなかった低地の奥に分布し、弥生時代から古墳時代の「草本質泥炭層」と縄文時代後期から晩期の「木本質泥炭層」の二つの部分に分けられます。木本質泥炭層は当時低地に成立した、ハンノキやヤチダモなどの湿地林の林床堆積物で、木の枝などの破片が厚く積もった地層です。砂や泥などはあまり含まず、分解が進んでいない、スポンジ状の木くずの集まりといった見かけを呈することもしばしばです。このため隙間が多く、多量の地下水を含むことができますし、固結力はほとんどありません。工事の困難さはこうした木本質泥炭層を深く掘り下げねばならなかったところにあったと考えられ、花見川に限らず、低地の奥であればどこででも起こり得る現象です。
図9
花見川付近でのみ分水界が北にずれる理由(即ち、東西の「柏井川」が30m隆起帯を越えられなかった理由)は実のところ、僕にはよくわかりません。下の図はクーラーさんの作られたものに僕がオレンジの直線を書き加えたものですが、僕はこの図を見て、27.5mの等高線の分布域のずれに目がいきました。地図の東に比べ、西側が500mほど北東側にずれています。地図の西の外れには花見川が見えています。これは花見川流域のみで隆起運動の軸が北にずれていることを意味するのかもしれません。
図10
関東平野における地殻変動は、1000mを越える地下の深所にある岩盤(「基盤」といいます。関東平野はこの岩盤の上に新しい時代の地層が厚く積もっています)の動きと密接な関係があるといわれています。基盤は北東-南西方向と北西-南東方向の直行する2方向の断層でズタズタに切られており、これを「ブロック」と呼びます。このブロックの動きが上に積もっている地層を変形させて、様々な地殻変動を引き起こすと考えられています。いわば畳の上に厚く布団が敷かれていて、一枚々々の畳の上下によって、上に敷かれた布団がゆがむというイメージ(関東平野の海岸線が北東-南西と北西-南東方向の直線の組み合わせからできているのはこのため)です。上図のオレンジの線の方向は、ほぼ基盤中の断層の方向であり、25m等高線のずれは、ここを境に地下のブロックが異なっている可能性(想像を逞しくすれば右の図のようなイメージ)があります。
図11
と言うわけで、花見川の流域が、この地域の一般的な分水界の北に入り込んでいる理由ははっきりしません。しかしそれは、地下深部のブロックの動きに起因するだろうとの漠然としたイメージを、僕は持っています。
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この章の感想は次の記事で述べます。
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花見川河川争奪を知る23 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想9
oryzasan氏論文「花見川の地学」第4章の感想と謝意を述べます。
感想
地下深部ブロックの動き
花見川河川争奪(oryzasan氏によれば単なる流域変更による分水界のずれ)の成因について、oryzasan氏は「地下深部のブロックの動きに起因するだろう」とイメージしています。
この論文や関係する論文を読ませていただくと、私も花見川河川争奪の原因の根っこには必ずや地下深部のブロックの動きがあると予感します。
地下深部のブロックの動きが表層地質・地形の世界でいくつかの事象連鎖を起こし、その事象連鎖が媒介項となり、花見川河川争奪を発生させたというモデルが考えられると思います。
地下深部のブロックの動きそのもの(例 隆起とか沈下)が直接花見川河川争奪を引き起こしたとは考えられません。地下深部のブロックの動きに起因する河川争奪媒介事象を見つけることが、成因検討になると考えています。
花見川河川争奪成因検討モデル
謝意
oryzasan氏に感謝
このブログにoryzasan氏が論文「花見川の地学」を寄せていただいたことに改めて感謝します。
おかげさまで、私自身が地史基礎学習を行うことができ、いくつかの勘違いや間違いを訂正できました。またoryzasan氏との論点の違いを検討するなかで、偶然ですが空中写真実体視というツールを獲得でき、花見川河川争奪の認識を一挙に深めることができました。それにより今後の私自身の検討展望を大きく切り開くことができました。
花見川河川争奪に関する表現の違いはありますがoryzasan氏の考える地形発達と私、あるいは白鳥氏が考える地形発達はほぼ同じものだと感じました。
機会が得られれば、現場でoryzasan氏から台地の地層観察についてご指導を受けたいと願っています。
oryzasan氏のホームページ「佐山自然誌通信 八千代市とその周辺の大地と森の歴史」を見させていただきました。台地と低地の自然史、花粉分析と八千代の森の歴史など豊富で充実したコンテンツに驚きました。すべて学術的に高度なものばかりです。このホームページを手がかりにして花見川流域の自然史の学習を深めたいと思っています。
(次の記事から、私[クーラー]の花見川河川争奪成因に関する考えをシリーズで掲載します。)
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花見川河川争奪を知る24 oryzasan氏のコメント(2011.10.25)
oryzasan氏から次のコメントをいただきましたので、掲載します。 このコメントに対する私(クーラー)の感想等は追って別記事で述べます。
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Cooler 様 「花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6」を拝見しました。
空中写真の判読から古柏井川の旧地形が復元できそうだとのお話しを興味深く読ませていただきましたが、残念ながら地形の解釈に誤りがあります。次の点です。
「断面A-Bのイメージ」ですが花見川の開削部の上部半分を「盛土」としていますが、この部分は地山です。盛り土部分は2m弱(「横戸緑地」の公園が台地面から出っ張った部分)しかありません。 僕はこの部分が造成される現場を見ていますが、盛り土部分が関東ローム層の上に乗っているのを観察(貝化石層がローム層の上に乗っていてびっくりしました)しています。
また、現在はヤブで覆われていますが、開削部も調査がされており、厚さ約5mの陸成の関東ローム層(武蔵野ローム層+立川ローム層)の下に、常総粘土層と木下層、上岩橋層が分布するのを確認しており、これは対岸も同様です。
従って、この部分に「古柏井川」の谷があったとすれば、それは花見川開削部の内側以外に考えられません。
下図はCoolerさんのブログ中の地図に手を加えたものです。盛り土は両岸にありますが、これは台地面上を薄く覆っているに過ぎず、基本的にはここは地山です。各地形面の境界部ははっきりしない部分はありますが、おおかたはこんなところでしょう。
問題は千葉第Ⅰ段丘が南西に出っ張る部分(?部分)ですが、これは5万年前(千葉第Ⅰ段丘堆積物堆積時)の勝田川の支流(段丘堆積物の分布は河川の氾濫原の広がりを示しますから)を示すのかもしれません。
ただしこれが柏井にまで連続し、現在の柏井の谷津に接続したかとなると、この段丘面は柏井まで伸びてはいませんから、そうは考えられません。
なお、柏井前谷津と後谷津の南流の時期は30m地域の隆起が始まって間も無く(この頃のこの地域はわずかな高低はあったと思いますが、ほとんど平らと見て良いでしょう。)のことと考えています。
おそらくは現在の花見川も、この前後に流れの方向を変えていると思います。千葉第Ⅰ・第Ⅱ段丘の形成はそれよりももっと後のことです。
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■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
花見川河川争奪を知る31 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説6
2011年10月26記事「oryzasan氏のコメント(2011.10.25)」の感想を述べます。
oryzasan氏からコメントをいただいてからだいぶ時間がたってしまい、申し訳ございません。
コメント記事も画面の奥深くに移ってしまいましたので、再度引用させていただき、文章毎に私の感想を述べさせていただきます。
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Cooler 様 「花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6」を拝見しました。
空中写真の判読から古柏井川の旧地形が復元できそうだとのお話しを興味深く読ませていただきましたが、残念ながら地形の解釈に誤りがあります。
次の点です。 「断面A-Bのイメージ」ですが花見川の開削部の上部半分を「盛土」としていますが、この部分は地山です。
盛り土部分は2m弱(「横戸緑地」の公園が台地面から出っ張った部分)しかありません。
僕はこの部分が造成される現場を見ていますが、盛り土部分が関東ローム層の上に乗っているのを観察(貝化石層がローム層の上に乗っていてびっくりしました)しています。
また、現在はヤブで覆われていますが、開削部も調査がされており、厚さ約5mの陸成の関東ローム層(武蔵野ローム層+立川ローム層)の下に、常総粘土層と木下層、上岩橋層が分布するのを確認しており、これは対岸も同様です。
従って、この部分に「古柏井川」の谷があったとすれば、それは花見川開削部の内側以外に考えられません。
下図はCoolerさんのブログ中の地図に手を加えたものです。盛り土は両岸にありますが、これは台地面上を薄く覆っているに過ぎず、基本的にはここは地山です。
各地形面の境界部ははっきりしない部分はありますが、おおかたはこんなところでしょう。
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横戸団地より南(鉄道連隊鉄橋跡より南)の東岸ではoryzasan氏のおっしゃる通りの地層になっているものと推察できます。
江戸時代の堀割普請でも地山を削って掘っています。さらに戦後の工事でもその斜面の表面を削っています。
見かけ上台地の上にしか盛土がないよう見える部分が多いと思います。
しかし、西岸には古柏井川由来と思われる谷壁残片があり、詳細に調べると違うと思います。「対岸も同様」と片づけるのは早計だと思います。
横戸団地より北(鉄道連隊鉄橋跡より北)(断面A-Bも含まれます)では東岸の盛土背後に勝田川河岸段丘から連続する平坦面とその背後の崖が1949年撮影空中写真で確認できます。
したがって、盛土は古柏井川の谷底面上にあるものだと考えます。
もしこの部分の盛土が薄く(2-3m)地山の上ならば、私の地形解釈を変える必要があります。
これまで存在しないと連絡を受けていた戦後の詳細な工事資料(平面図、断面図等)について、水資源機構千葉用水総合管理所より倉庫の中で見つかったとの連絡を受けました。
昨日訪問し、その膨大な資料を確認させていただきました。
この資料を活用することにより戦後工事の実態がよくわかるようになります。つまり、現在の地形と堀割普請によりできた地形の関係が判りますので、自分としては現場観察の基礎をしっかり確保できることになると思っています。
今後この発見資料を検討させていただく予定になっています。
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問題は千葉第Ⅰ段丘が南西に出っ張る部分(?部分)ですが、これは5万年前(千葉第Ⅰ段丘堆積物堆積時)の勝田川の支流(段丘堆積物の分布は河川の氾濫原の広がりを示しますから)を示すのかもしれません。
ただしこれが柏井にまで連続し、現在の柏井の谷津に接続したかとなると、この段丘面は柏井まで伸びてはいませんから、そうは考えられません。
なお、柏井前谷津と後谷津の南流の時期は30m地域の隆起が始まって間も無く(この頃のこの地域はわずかな高低はあったと思いますが、ほとんど平らと見て良いでしょう。)のことと考えています。
おそらくは現在の花見川も、この前後に流れの方向を変えていると思います。千葉第Ⅰ・第Ⅱ段丘の形成はそれよりももっと後のことです。
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私の感触では千葉段丘が南西に出っ張る部分(?部分)が古柏井川の谷底そのもので、その谷の谷壁の残片が西岸に幾つか残っており、さらに、北柏井の集落を乗せる前谷津の河岸段丘、さらに花島の谷津の河岸段丘へ連続すると、捉えて(空想して)います。
大胆すぎる想定ですが、このような想定の下で入手できる情報を組み立てられるか、検討作業しています。
作業がまとまったところから記事にしますので、oryzasan氏からのご指摘、ご批判、ご指導よろしくお願い申し上げます。