3-6 子和清水遺跡
3-6-3 子和清水遺跡の出土物閲覧
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
【子和清水遺跡の出土物閲覧】
子和清水遺跡の位置
1出土物を手に取って観察したくなる
花見川流域の散歩の中で古代遺跡に興味を持ち出しています。
近々花見川流域全体の古代遺跡の分布特性について学習したいと思っていますが、まだしていません。
しかし、子和清水遺跡については、その報告書を読んでみました。また子和清水の由来について考えたことがあります(2011年7月29日記事「子和清水遺跡」)。そこで、古代遺跡について深く考える一つのきっかけとして、子和清水遺跡について、その出土物を自分の手で触って観察してみたいと思いました。
実際の出土物を間近で見ると、書物からの情報では得られない「豊かな発想の展開」が期待できるであろうことは、検見川出土の縄文丸木舟の閲覧で体験しています(2011年8月9日記事「縄文丸木舟と大賀ハス7」)。
思い切って千葉市教育委員会に閲覧を申請したところ、許可していただきました。
子和清水遺跡の報告書
2 出土物の保管状況
8月下旬に千葉市埋蔵文化財調査センターにて出土物を閲覧させていただきました。
閲覧に先立ち出土物の整理保管状況について教えていただきました。
出土物は箱、コンテナに整理され保管されています。報告書が出土物の台帳を兼ねているとの説明でした。調査は4半世紀前に実施されたものであり、デジタルカメラやパソコンを使うことなく実施されたものです。
出土物の保管状況
3 旧石器時代出土物
報告書で尖頭器と記載されている先の尖った石器をいくつか手に取ってみました。
材質はチャート、砂岩などです。出土物は水洗いし陰干しするという処理がされたそうです。出土物は表面が風化しており、手から離した後、皮膚にかすかに残留物を感じました。
旧石器時代尖頭器(チャート)
旧石器時代尖頭器(砂岩)
旧石器時代尖頭器(砂岩)
これらの尖頭器は、木の柄につけて投げ槍として、動物の狩りに用いられたものと想像しました。
これが無い時代は石を投げたり、手に持った石で動物に立ち向かったり、石に弦や木を括り付け投げ打った時代もあったと想像します。尖頭器による投げ槍が生まれた時の狩猟効率の向上は、大きなものがあったと思います。
しかし、この尖頭器では一撃で動物を絶命させることは困難です。長時間に及ぶ闘争、追跡が必須であり、まだ人と動物の関係に非対称が殆どないと感じます。
この時代には弓矢はまだ発明されていなかったようです。
この尖頭器を作るスキルに関心しました。別の石を使って端から欠いていったのだと思いますが、その時使った道具(台座、ハンマー用石、怪我を避ける防具など)や工作場所(工作に集中できる場所)に思いが馳せます。何しろ力いっぱいひっぱたけば完成するものではありません。石の割れ方特性の知識と力の入れ方加減が大事な精密加工スキルです。
また、尖頭器の材料となる石の入手方法についても興味がわきます。自ら遠征して石を求めたのか、交易(交換、贈与)により得たのか、近くで手に入るのか(堆積地層中の礫層や海川の漂着物)。旧石器時代の交易ネットワークの広がりは想像以上だったと思います。この付近で出土する黒曜石については箱根由来のものが多いようです。
旧石器時代黒曜石出土物
この出土物は動物の皮や筋を裂いたり、切ったりする時に使えると感じました。あるいは皮から脂肪を削ぐときにも使えるように感じました。植物についても裂いたり、削ぐことができます。
石核(玄武岩)
報告書では「打面が周囲に設定されている円盤状の石核である」と説明されています。石核をWEBで調べると「石核(せっかく、core)とは、一般に打製石器の素材とされる剥片(flake)をはがし取った際に残った原石のことをいう。」(ウィキペディア)と出ています。
(つづく)
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
4 縄文時代出土物 土器
縄文のある土器片
素材の土に砂や他の混入物(軽石片?)が思いのほか沢山入っています。
縄状の物で付けたと思われる模様の突起部分が、柔らかい時に扱われて扁平になって失われた様子や、ヘラ状の物でその上から模様を描き直した部分も確認できます。
調査者が小片を接合しています。
大型波状口縁を有する土器片
報告書では写真土器片を含む一群について、「前期後半の諸磯式・浮島式土器」に区分し、「大型波状口縁を有する土器で、口縁下には連続爪形文を施す。短沈線か撚糸文を配した隆帯を伴い、胴部文様は木葉文か肋骨文となる。」と説明しています。
浅鉢型土器片
土器復元図(報告書94ページ)
報告書では写真土器片を含む一群について、「晩期後半の千網式・荒海式土器」に区分し、「浮線文を有する土器。肩部文様帯に連続浮線楕円文やレンズ状付帯文を有する土器。」と説明しています。
今回の子和清水遺跡出土物閲覧は欲張りすぎるのもよくないと思い、土器の閲覧は最小限にとどめました。報告書では、出土した縄文土器について10の時代区分をしているようです。それらについて模様の違いなどを観察したかったのですが、次の機会に土器類の閲覧をじっくりしたいと思っています。
5 縄文時代出土物 石斧
石斧(砂岩)
報告書では分銅形としています。
6 縄文時代出土物 凹石
凹石(安山岩)
スケッチ(報告書103ページ)
報告書では「敲打による凹みが両面にあり、磨痕と敲打痕を共有している。」と説明しています。
WEBで凹石を調べると、「凹石(くぼみいし)とは、こぶし大の円礫・楕円礫のほぼ中央に浅い凹みをもつ礫石器。凹みは打撃を加えたものと回転摩擦痕跡によるものがあり、前者はクルミの殻割りや石器製作に使われたと考えられ、後者は火を起こすための火きり杵を上から押さえたものではないかと考えられている。」(ウィキペディア)と出ていました。
7 縄文時代出土物 磨石
磨石(安山岩)
スケッチ(報告書104ページ)
報告書では「磨痕と敲打痕を共有している。」と書いてあります。植物などを磨り潰す道具のようです。
8 縄文時代出土物 石皿
石皿片(安山岩)
スケッチ(報告書106ページ)
WEBに「凹みを多数もつ石器として蜂の巣石(はちのすいし)がある。凹石とは異なり、板状の石材が選ばれることが多く、凹みは主に回転摩擦痕跡によるものであることから、火きり臼であると考えられている。雨垂れ石(あまだれいし)との呼称もある。」(ウィキペディア)という情報が出ており、この石皿片がこれに相当するものと考えます。
(つづく)
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
9 縄文時代出土物 石棒、独鈷石
石棒(粘板岩)
スケッチ(報告書107ページ)
報告書では「粘板岩製で基部側が折れている。敲打によって成形した後、部分的な研磨によって仕上げられている。出土地点から晩期のものと考えられる。」としています。
19.5cmあります。
リアルな男根の様子はうかがえませんが、増殖にかかわる祭祀の道具であると考えられます。
人々の思考の中で増殖に対する思いがどのようなものであったのか、興味がわきます。
独鈷石(石英粗面岩)
スケッチ(報告書107ページ)
報告書では「石英粗面岩であるが、軽石に近い石材で軟質である。片側は折れている。先端部分には敲打痕が認められる。出土地点から晩期のものと考えられる。」としています。
密教法具の独鈷杵(とっこしょ)と形がにているので、類似出土物を独鈷(とっこ)石と呼んでいるそうです。祭祀に使われたと想像される非実用石器としてくらいしかわかっていないようです。
よく見ると独鈷杵を握るときのように、握りやすいようなくぼみが石の真ん中に削られています。どんな目的の祈りに使ったのか、興味がわきます。
10 縄文時代出土物 玉類
三角形の玉(半欠 滑石)
スケッチ(報告書108ページ)
報告書では玦状耳飾りの半欠品で薄緑色を呈し、完形状態では平面形が三角形になるとしています。
円環状の玉(破損 滑石)
スケッチ(報告書108ページ)
報告書では玦状耳飾りの半欠品で、断面が円形に近くm、完形なら円環状になるものであり、破損後に穴を2孔穿っていて、両側から穿孔されているとしています。
これ以外に勾玉の製作の各段階を示す資料が多数見つかっており、報告書ではこの遺跡が縄文時代の玉製作跡として、小規模ではあるが、千葉県レベルで珍しいとしています。
二つ玉の例をみて、装身具に対する縄文人のセンス(この場合たぶん女性)は現代人と全く変わらないと思います。
近くの検見川の沖積層から出土した木製の櫂に施されていた彫刻をみても、その装飾に対する縄文人のセンス(この場合たぶん男性)は現代人と変わらないと感じていました。
検見川で丸木舟と一緒に出土した櫂の柄の彫刻
「加茂遺跡」三田史学会(1952)収録図版第21
(つづく)
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
11 縄文時代出土物 石鏃(せきぞく)
石鏃(チャート)
長さ2.4×幅2.1×厚さ0.6㎝
石鏃(チャート)
長さ2.7×幅2.1×厚さ0.5㎝
石鏃(黒曜石)
スケッチ(報告書101ページ)
長さ2.7×幅1.2×厚さ0.3㎝
小突起の数
●整形打撃数
この黒曜石鏃の一つの刃にある小突起を数えると30でした。この小突起は他の石で打撃した時にできたものです。スケッチをよく見ると、この刃の見えている部分は20の打撃でできていますから、両面各20回程度の打撃で30の小突起が残る刃ができたと考えました。
2枚の刃を作るために合計80回の打撃をこの長さ3センチに満たない鏃(やじり)に加えています。全体の整形にはもっと多数の打撃を加えていることになります。
●超精密作業のスキル
自分の(平均より華奢な)手の指でこの石鏃をつかんでみて、どのような道具でどのようなスキルでこれを作ったのかリアルに想像できません。自分の指が大きすぎます。
縄文時代人の手の指は、指に力を入れる機会が多く、現代人と比べてはるかに「ゴツイ」ものであったでしょうから、その指で、この小さな鏃を作る超精密作業に感嘆します。
当時この鏃をつくるために用意した台座、抑え器具、打撃器具、飛び散る破片から目や体を守る防具、作業に集中できる作業空間など高度な技術について知りたくなりました。
●鏃作成時間また、この小さな鏃をどのくらいの時間をかけて作ったのかということも興味がわきます。原石から元となる小塊をつくる工程があり、その後、小塊から鏃をつくる時間だけで、200打撃が必要であるとすると、熟練者で1時間~2時間といったところでしょうか?1日に1人が生産できる鏃はどんなに多くても10個に満たないと想像します。
●兵站活動比
さらに、鏃の他に、矢柄の竹(?)と矢羽を採取加工して装着しなければ矢ができません。
1回の狩猟で捕獲する動物の量とそこで消費する矢の量などの関係から、動物を追う狩猟そのもの時間と、狩猟を行うための兵站活動(消費財としての矢の作成活動、そのほか耐久消費財としての弓、矢筒、捕獲動物運搬具等の作成活動)の時間の関係などにも興味が湧きます。
●縄文人の気持ち
鏃を実際に手に取ってみると、この鏃を作っていた縄文人の心に浮かんでいた気持ちがどのようなものであったのか、興味が湧いてきます。
当時のハイテク素材(黒曜石)を交換等により何とか入手し、ハイテク加工技術(黒曜石の整形技術)で鏃を作ったときの気持ちは、ものづくり技術という点では、現代のハイテク産業起業者と類似していた面があったと想像します。
黒曜石製鏃はおそらくチャートなどの素材の鏃とくらべて高性能であり、狩りでの成績を上げたものと想像します。そうした鏃を備えた矢をつくるためには縄文人は交易や贈与で関係する人々との友好関係を増大させ、黒曜石原石の入手に努めたことと思います。同時にハイテク技術の習得に特段の熱心さをもっていたものと想像します。
●ものづくりの目的しかし、ものづくりの目的は全く異なります。縄文人にとって狩猟能力は生活していく上で最も重要な能力だと思います。その能力が劣れば生命の維持が困難になります。縄文人は自ら作った矢で自ら動物を狩り、自らの食糧を得、生命を維持し、子孫を残す増殖を可能としました。
現代のハイテク産業起業者は生活のためではありますが、社会の仕組みからして「利潤追求が目的」とすることにならざるをえません。
利潤という概念も実態もゼロの縄文人と、利潤追求が支配している社会の現代人の気持ちのとの落差についても大いに興味が湧きます。
一つの鏃を手にして、とめども尽きない発想が流出してきますが、切りがないので、一旦止めます。
●参考 幸矢・幸弓さちや【幸矢】幸(獲物)を得る矢。狩猟用の矢。さつや。
さつや【猟矢・幸矢】狩猟に用いる矢。さちや。
さちゆみ【幸弓】幸(獲物)を得る弓。狩猟用の弓。幸矢と合わせて用いる。さつゆみ。
さつゆみ【猟弓・幸弓】狩猟に用いる弓。さちゆみ。
以上「国語大辞典」(小学館)による。
このように「さち(幸)」という日本語と狩猟との間に強い関係があります。
折口信夫は次のように述べています。
「未開野蛮の時代に於て、最幸福な、或は、或種の君たるべき資格ともなる筈の、祝福せられた威力の根元は、狩猟の能力であると考へられて居た。私は、此威力の源になって居る外来魂は、さちと言ふ名であった事を主張して居るものである。即、古くから用ゐられた語に、さつ矢・さつ弓・さち夫など言ふのがある。此さちは、只今も残って居る方言、又は其背景をなして居る信仰に於ては、明らかに抽象的な能力、或はその能力の出所となるものを意味して居る様である。普通、山ノ幸・海ノ幸といふ事は、山の猟・海の猟、或はそれに、祝福せられた、といふ形容がついた位に説かれて居るが、実は、山海の漁猟の、能力を意味する威力を表すのが、此語の古義であったと思ふ。だから、その威力を享けた人が、山幸彦・海幸彦であったのだ。」(「原始信仰」)(ただし、中沢新一「モノとの同盟」からの孫引きです。)
縄文時代において、(弓矢による)狩猟で獲物を得た体験から、「さち(幸)」という言葉がうまれたということです。
(つづく)
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
11 縄文時代出土物 石鏃(せきぞく) つづき
子和清水遺跡出土の縄文石鏃例
左よりチャート製、チャート製、黒曜石製
●参考 さち(幸)「さち」という言葉が、石鏃が主構成物である矢から直接発生していることを確かめましたので、そのメモを記録しておきます。
「さ」【矢・箭】矢の古称か。語源未詳。
「ち」【霊】[語素]神や自然の霊の意で、神秘的な力を表す。「みずち(水霊)」「のずち(野霊)」「おろち(大蛇)」「やふねくくぢのみこと(屋船久久遅命)」など。
「さち」【幸】①獲物を取るための道具。また、その道具のもつ霊力。②漁や狩の獲物の多いこと。また、その獲物。③(形動)都合のよいこと。さいわいであること。しあわせ。幸福。
以上国語大辞典(小学館)
元来、矢のことを「さ」と呼んでいて、矢が獲物をもたらす霊力を有していることから、矢を「さち」と呼んだ。その矢(さち)が多くの獲物をもたらすので、獲物のおおいことや獲物そのものも「さち」と呼んだ。ということだと思います。
さらに獲物を多くもたらす矢を「さちや」「さつや」(幸矢、猟矢)、獲物を多くもたらす弓を「さちゆみ」「さつゆみ」(幸弓、猟弓)、魚のよく釣れる釣り針を「さちち」(幸鉤)と呼ぶようになったのだと思います。
閲覧した縄文石鏃は、縄文人にとっては単なる道具ではなく、それに「獲物をもたらす神秘の力(霊力)」を感じていた特別の道具であったものと想像します。
(つづく)
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
12 古墳時代出土物 小型甕
古墳時代出土小型甕
出土時写真(報告書図版24)
小型甕スケッチ(報告書112ページ)
小型甕観察表(報告書113ページ)
手にとった土器は使用感は感じられず、底面と胴の成す角(かど)は鋭利な状態でした。供献用の土器であることを実感できます。
出土後口縁部の一部を補修しています。
古墳時代の遺物として多数の完形小型甕が出土しています。
古墳時代の住居址は2軒で、時代を異にしています。「台地縁辺部に単独で存在している点や遺物が1点を除けば全て小型甕形土器である点から特殊な遺構と思われる。」、また「供献用の土器がその大半を占め、割合は1:9ないし1:5に及ぶ。」「集落の本体からはずれた位置に独立して単期間形成された住居であり、儀式の場とも考えられる。」(報告書)
古墳時代の建物(場所を途中移すが1軒が存在)は子和清水の泉を祀る祭祀の場であったと想像します。
子和清水は「こわ(強)い」(干天でも枯れることのない強靭な湧水力を有する)水源であり、
1 この時代の水田耕作の農業用水源として大切であり
2 水田耕作に従事する住民の飲料水水源として大切であり
3 狩猟時代以来の祖先の命を育んできた歴史的水源として大切であった
ことから、特段に重要な水源であり、その水源を守り、祀る気持ちが、そこに祭祀の場を作ることになったのだと思います。
同じような水源で、船橋市三山には二宮神社が現在もあります。
子和清水は「こわ(怖)い」(思いもよらない不思議な力がある)水源であり、
1 病気治癒のために大切な水であり
2 健康増進のために大切な水であり
3 酒にも匹敵する美味しい水である
ことから、特段に重要な水源であり、その水源を守り、祀る気持ちからそこに祭祀の場ができるとともに、民話「子和清水」が生まれたのだと思います。
古墳時代の祭祀跡の存在から、縄文時代以来、この地に住んだ人々が、子和清水の水量と水質の双方について注目して、大事にしてきたことを想像することができます。
(つづく)
■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□素材■□花見川■□
13出土遺物を閲覧して
独鈷石(石英粗面岩)
今回の出土遺物閲覧は千葉市教育委員会の許可を受けてから、日程を調整し、所定の日時に遺物が保管されている千葉市埋蔵文化財調査センターに出向き2時間かけて行いました。
事前に閲覧を要望した資料が全て机の上に用意していただいていました。
実際に資料を目の前にしてみると、全てについて興味を投影しながら詳細に閲覧することは不可能であるとすぐにわかりました。そこで、資料数の多い土器類の閲覧は思い切って最少点数にし、石器類のうち代表的なものに閲覧を絞り、それをじっくり見ることにしました。
時間配分は、最初の1時間20分は資料閲覧とし、残り40分は写真撮影としました。
なお、写真撮影では、用意した方眼紙(台紙)と小型三脚が役立ちました。
資料を閲覧した感想はこれまでの記事に書いた通りですが、全体を通して次の感想も持ちました。
ア 木や草や獣骨素材の用具遺物として出土したものは石器や土器などであり、木や草あるいは獣骨などの素材の物は一切出土していません。関東ローム層に覆われた土質のため石器や土器以外は全て溶けてしまたったようです。木や草や獣骨を素材とした生活用具がどんなものであったかしりたくなります。
イ 近隣居住者とのネットワーク
子和清水遺跡の近くには犢橋貝塚があります。直線距離にして2㎞しか離れていません。しかし、子和清水遺跡から貝殻は1枚も出土しなかったとのことです。子和清水に住んでいた縄文人も出かければ魚介類をとることは可能です。しかし1枚の貝殻も出土しなかったということは、縄文人の間に社会的な役割分担のあるネットワーク(交換、贈与関係)が発達していたことを示唆します。犢橋縄文人は干貝や干魚をつくり子和清水縄文人に贈る、子和清水縄文人は干肉をつくり犢橋縄文人に贈るという役割分担が明確にあったように感じます。
ウ 黒曜石こうした近隣縄文人同士のネットワークが、結局全国を覆っており、黒曜石原石などもこのネットワークを伝わって、はるばる箱根から千葉まで届いたのだと思います。
エ 狩対象の増殖祈願
生活の中で、狩りが最も重要な活動ですから、狩りの対象の動物が増えていき、なくなることがない「増殖」を願ったことは間違いないと思います。
人の増殖(生殖)を祈願するための道具の一つとして石棒が位置付けられるようです。
狩りの対象の増殖を祈願するための道具として何があったか興味があるところです。
(私の妄想では、独鈷石がそれにあたるのではないかと思います。狩った動物の腹を裂いて、まだ脈打っているような心臓[命の象徴]を握って取り出す時の手の感触を独鈷石が再現しているように、独鈷石を握ってみて、感じました。)
オ 物証のないことの想像
狩りをする時の心の持ち方、狩りのあとの動物の処理の仕方、動物に対する感謝の在り方、料理の仕方、獲物の皮や骨などの利用の仕方、肉の保存の仕方、交易に使う部分のつくり方、などなどについて、想像しなければいけないと思いました。物証(証拠)がないから考えないということは、古代人に対して大変失礼(不遜)であると感じました。
最後に出土物資料閲覧を許可していただいた千葉市教育委員会に感謝します。
(おわり)