3-5 落合遺跡(縄文丸木舟と大賀ハス)
3-5-1 遺跡の状況と出土物
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【遺跡の状況と出土物】
浪花川流域紀行3 縄文丸木舟と大賀ハス1
花見川旧河口付近
迅速図「千葉県下総国千葉郡畑村」図幅と「千葉県下総国千葉郡馬加村」図幅を機械的に集成したものです。いずれも明治15年測量。
丸木舟出土地点(×印2箇所)が掲載されている資料
「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」(中野尊正、地理調査所時報第3集、1948年)収録の地形分類図。これより精度の高い丸木舟出土地点情報は見つけることは出来ませんでした。
1 はじめに
現在東大総合運動場になっている花見川区朝日ヶ丘町の浪花川谷底から縄文丸木舟と大賀ハスが終戦直後の昭和20年代に出土しました。
花見川流域散歩人としては大変興味のあることです。
以前からその情報は知っていましたが、詳しく調べることが無かったので、このたび少し気張って調べてみました。
ア まず、江戸東京たてもの園にて検見川出土現物資料を閲覧させていただき、丸木舟を体感してみました。
イ その際教えていただいた論文「縄文丸木舟覚え書-房総の諸事例から-」(高橋統一、アジア文化研究所研究年報39、2004年)を参考とし、さらにその参考文献を手がかりにしてめぼしい資料を見てみました。
検見川の丸木舟については、出土が昭和20年代前半であるため、現在の遺跡調査のようなまとまり整理された調査報告書はないようです。
ウ しかし、以前から所持していた書籍(「日本の平野-沖積平野の研究-」(中野尊正、古今書院、昭和31年)に、著者が遺物出土に立ち会って堆積環境や地形について調査した結果が詳しく掲載されていることに気がつきました。
エ さらに、八千代市立郷土博物館にて印旛沼出土丸木舟(複製物)を閲覧させていただき、現物資料の写真を借用させていただきました。東京湾だけでなく、花見川(河川争奪地形)を利用した古代回廊でつながる印旛沼(香取の海)の情報も合わせて考えることにより、発想の幅が広がります。
オ 大賀ハスについては、7月4日に千葉公園で開花最盛期の姿を観察体験しました。
カ また、大賀ハス情報を体系的に整理取りまとめた書籍「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)を読みました。
このようにして得た情報を、私の興味に沿って順次紹介します。
(つづく)
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浪花川流域紀行4 縄文丸木舟と大賀ハス2
2 丸木舟の出土経緯
検見川出土丸木舟についてもっとも詳しいと感じた資料は「上代独木舟の考察」(松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文)(以下松本論文とします)です。
この論文を引用・参考にしながら、丸木舟の出土と調査経緯をかいつまんでまとめてみます。
なお、江戸東京たてもの園で検見川出土丸木舟現物を閲覧させていただいた際、論文「縄文丸木舟覚え書-房総の諸事例から-」(高橋統一、アジア文化研究所研究年報39、2004年)(以下高橋論文とします)の存在を教えていただきました。この論文には検見川出土丸木舟の出土調査経緯の外、その後の調査体制等について、関係者ヒアリングを加えて詳しく解説されています。
2-1 丸木舟の出土
「昭和22年(1947)7月28日千葉市畑町1501、旧東京大学運動場予定地であり、当時東京都の所有に帰し、作業中であった東京都林産組合草炭採掘場に於いて長さ6m20、幅43cm、材カヤなる鰹節形丸木舟(第46号)が発見せられ、頗る学界の注目を惹いた。
また今一つの独木舟(第47号)の一部を附近の表土以下約3m20の地点に於いて発見したので越えて昭和23年(1948)1月25日慶大考古学教室、東洋大学考古学会、日本考古学研究所の共同調査、畑青年団の奉仕協力により、之を発掘し得た。此舟は長さ5m80、幅48cm、深さ44cmであり、舟の先端に小突起あり、此点に従来の刳舟に見えない特色を示してをる。
またこの舟と相並んだ前二者よりやゝ大型の独木舟(第48号)の破片、長さ3m48、幅52cmを発見した。材は、三隻ともカヤで出来ている。」(松本論文)(引用に際して、読みやすくするために段落余白を加えました)
高橋論文では日本考古学研究所の詳しい説明や慶大や東洋大学の調査体制についてヒアリングをもとにまとめています。昭和20年代の考古学分野のイキイキとした状況が専門外の私にも伝わってきて、引き込まれます。
2-2 丸木舟の収蔵先
「第46号の舟は、今日井の頭公園の武蔵野文化博物館に、第47号の舟は(図版第20.1)慶大考古学教室に、第48号の舟は東洋大学に蔵せられてをる。」(松本論文)
松本論文図版第20.1
慶大考古学教室に収蔵された第47号の舟
高橋論文では調査団の組織化や調査費の裏づけが明確でなかったことが出土物の収蔵先に反映していること、なぜ武蔵野文化博物館になったのかその理由・背景について資金や日本考古学研究所内の問題を含めて解説されています。
普通知ることが出来ない生々しい情報が含まれていて、また私自身も疑問に思っていたことの答えの一つがそこにあり、興味津々に高橋論文を読みました。
武蔵野文化博物館に収蔵された丸木舟(最初の出土した丸木舟)は、現在後継組織である江戸東京たてもの園(東京都小金井市)が所蔵しています。
(つづく)
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浪花川流域紀行5 縄文丸木舟と大賀ハス3
2-3 丸木舟の年代
松本論文(「上代独木舟の考察」〔松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文〕)では出土した丸木舟について次のような議論を行っています。
「此三隻の刳舟以来問題となったのは、その年代鑑定である。舟の出土に伴出した考古学的遺物は、全然なく、たゞ3mも堆積する泥炭層の上部から完全な土師の壺を出してをる。附近の地表からは土師器の破片を拾ふことが出来、また舟を出土した谷の源頭に近く土師器時代の小貝塚が発見せられ、また所々に弥生式土器の破片を拾ふことが出来るが、縄文式土器の破片は、何処にも発見出来ず、結局遺蹟地より20町以上も離れた犢橋(コテハシ)の貝塚まで行かなければ縄文文化遺蹟に接し得ない。然しこの附近表面に見出される文化遺物を以って深層出土の文化遺物の年代を判定するのは頗る危険である。後述する加茂の遺蹟の如き地下に豊富な前期より中期にかけての石器時代泥炭遺物を包蔵しつゝも地表には何等その痕跡を示してゐなかったのである。
また丸木舟及び櫂の刳り方に対しても両様の見解が対立した(図版第21.6・8、第15図)。その如何にも稚拙な凸凹ある、所々に焼痕ある削り方は、その製作の石器によることを推察せしむるが、他の論者はこのつくりをもって金属器によらざれば不可能なりと云ふ意見を表白されたのである。
地質、地形上より本遺蹟を考察された地理調査所の中野尊正氏は、本泥炭層の生成した年代を今日の幕張附近の砂地が陸地となる以前であるとし、独木舟は泥炭層の下底に近い所から出土してをるので泥炭形成の中期までに年代を比定し得るとし、独木舟の年代は、砂地形成年代よりも遡り得るとて、検見川の谷が、犢橋の石器時代遺蹟の近くまで進入してゐる所から独木舟埋没の年代も或いはその辺の年代にもってゆくことが出来るのではないか、その頃台地の上では腐植層が生成してゐたが、その後海岸に接する崖の所から舞ひ上げられて来た砂が台地の上に砂丘を堆積する様になった。独木舟及び台地上の遺蹟とをこの腐植層、砂丘との前後関係に於て追求することによって更に時代関係が明瞭になるのではないかと論ぜられた。
かく丸木舟の年代は、地理学的に見れば砂丘の生成した歴史時代にひきさげ得ぬものであるが、文化科学的には、之を石器時代と見るか、歴史時代初期と見るかの二説が対峙し、此問題は結局丸木舟と伴出する考古学的遺物によらなければ解決されぬ破目にあった。かくて検見川の谷から発見せられた刳舟の年代を比定する為に、他所に考古学的遺物を伴う丸木舟の発見に必要が感ぜられたのである。」(松本論文)(引用に際して読みやすくするために段落余白を加えました)
松本論文図版第21.6・8
櫂の彫刻部分の写真です。実用的道具に美的意識を投影していた縄文人の気持ちが伝わってきます。
松本論文第15図
櫂の実測図です。
その後、加茂遺跡で「縄文前期の諸磯式土器」と同種の土器片が伴出する丸木舟が、八日市場で刳り残しの横梁が4箇所ある丸木舟と櫂が出で近くの同じ層位から「縄文末期(晩期)の安行式土器」の大きな破片がみつかりました。櫂の彫刻は検見川出土の櫂の彫刻と類似しているとのことです。八日市場の丸木舟は検見川出土の丸木舟と較べて構造上の複雑さ(横梁がある)と全体に華奢であることから検見川出土丸木舟より後のものと考えられました。
結果として、検見川出土の丸木舟は縄文前期の加茂遺跡のものより後で、縄文末期(晩期)の八日市場出土のものよりも前ということになりました。
2-4 c14年代測定
昭和28年に大賀博士が大賀ハスの年代を調べるために、大賀ハスと同層位から出土した丸木舟のうち東洋大学所蔵資料と武蔵野郷土博物館所蔵資料から木片を切り取り、c14年代測定しました。結果は平均すると1125年前後180年BCとなり、3075年前、前後180年(縄文後期から晩期)という結果になりました。(「大賀ハス」〔千葉市立郷土博物館発行〕による)
「ラジオ・カーボン・テストに用いた丸木舟の断片」
「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)17ページ掲載写真
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浪花川流域紀行6 縄文丸木舟と大賀ハス4
3 丸木舟の出土地点及び周辺の地形
3-1 丸木舟の出土地点
丸木舟の正確な出土地点情報を見つけることが出来ていません。
そこで既存資料情報をGIS上にプロットして正確な位置を絞り込めないか検討してみました。
私がみつけた出土地点関連情報が掲載されている地図は次の4点です。
1 「千葉市史史料編1原始古代中世」(千葉市発行)98ページの「落合遺跡の周辺地形図」
「千葉市史史料編1原始古代中世」掲載地図
落合遺跡が直径100m程度の円で示されています。
2 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)738ページの「遺跡の位置(1/25000 千葉西部)
「千葉県の歴史資料編考古1」掲載地図
1の黒丸が落合遺跡です。この黒丸は次の千葉県埋蔵文化財分布地図の情報をポイント表示したものです。
3 「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-」(千葉県教育委員会発行)の「NO.40千葉西部」図幅(落合遺跡〔102〕の括り線)
「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)(改訂版)」
102番が落合遺跡です。
4 「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」(中野尊正、地理調査所時報第3集、1948年)収録の地形分類図
「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」
丸木舟出土地点と銘打った情報で入手できたのはこの資料だけです。(中野尊正著「日本の平野」〔古今書院〕にもこの情報を編集したものが掲載されています。)
地形分類図に「独木舟出土地点」として×点が2箇所掲載されています。(丸木舟は昭和22年7月と昭和23年1月の2回にわたって出土しています。)×点の位置が浪花川の本川筋谷津の谷底ではなく、それに流入する谷津の尾根末端を結ぶ線上に位置しています。この資料の著者は丸木舟発掘調査に参加している地形学者ですから、出土地点の位置と地形との関係の特徴は、この地形分類図が小縮尺であるにも関わらず、正確に捉えて表現しているものといえます。
なお、大賀ハスについて、「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)に大賀ハス発掘位置の精度の高い地図が掲載されています。この資料の文章中に「前年丸木舟の発掘されし場所を掘り始めたけれど作業困難のため、発掘場所を55m奥にうつす」との記述があります。この記述から逆に丸木舟出土場所の推定が可能かもしれませんから、検討材料にこの情報も加えます。
5 「大賀ハス」(千葉市立郷土資料館発行)の大賀ハス発掘位置
「大賀ハス」掲載地図
上記5つの情報をGISに落とすと次のようになります。
落合遺跡位置の資料比較(現代地図)
この地域は丸木舟、大賀ハス発掘後大規模な地形改変が行われ、谷筋の概形は辛くも残っていますが、谷津地形の詳細は全て失われてしまいました。従って、現代の地図から資料比較することは困難です。そこで、この情報を旧版地形図をベースに見てみます。
落合遺跡位置の資料比較(旧版1万分の1地形図「検見川」)
この資料比較分布図(旧版地形図ベース)から次のような感想を持ちました。
1 埋蔵文化財地図(「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)(改訂版)」)と千葉県資料(「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」)に示される落合遺跡位置は浪花川本川筋の谷津谷底を指しており、正確性に欠けると考えられます。近くに「大賀ハスの碑」があるためそれに曳かれるなどして、「だいたいこの近く」という情報を提供したものと考えます。
2中野尊正資料(「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」)と千葉市資料(「千葉市史史料編1原始古代中世」)は真の出土地点の近くを示すものと考えます。
3大賀ハス発掘地点(「大賀ハス」掲載)は、「舟出土地点から55m離れた場所」が正しいなら、不正確だと思います。旧版地形図にプロットすると谷津の奥になりすぎるし、地形上、低地と尾根の境目附近になります。私の想像ですが、大規模地形改変が行われ、谷の幅が2倍以上になったときの現地や地図を参考にして、発掘当時の印象を後年にプロットした資料のように考えます。もちろんこの資料は大賀博士が作成したものではありません。
この資料を最初に見たとき、丸木舟出土地点特定の切り札になるのではないかと密かに期待に胸を膨らましたのですが、そうはなりませんでした。
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浪花川流域紀行7 縄文丸木舟と大賀ハス5
3-2 丸木舟出土地点の現状
前報で推定した丸木舟出土地点の現状写真を掲載します。東京大学検見川総合運動場のホッケー場付近が丸木舟出土地点です。推定位置を写真に赤楕円で示しました。
この附近の谷津・台地地形は1953年(昭和28年)から東大ゴルフ場(24ホール)造成のために大規模に改変されました。1962年(昭和37年)から運動場として再整備されました。
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浪花川流域紀行8 縄文丸木舟と大賀ハス6
3-3 丸木舟出土地点周辺の地形変遷
中野尊正著「日本の平野」(古今書院発行、昭和30年)には丸木舟、大賀ハスの遺物出土点の位置を明らかにするために行ったボーリング、電探調査、井戸屋からの聴込調査等による結果が詳細に報告されています。以下主要点を紹介します。
ア 泥炭地の厚さ
電探調査等により作成した泥炭地の厚さの等高線が示されています。
検見川低地の泥炭層の厚さ(中野尊正著「日本の平野」)
この調査から丸木舟と大賀ハスが出土した場所は支谷の出口付近の泥炭層が最も深い場所であり、その前面(花見川側)には埋没している砂州(砂堆)が見つかりました。
イ 地形の変遷
3枚の地図を掲載して、調査結果を次のように説明しています。
検見川低地の地形発達A初期(中野尊正著「日本の平野」)
検見川低地の地形発達B中期(中野尊正著「日本の平野」)
検見川低地の地形発達C末期(中野尊正著「日本の平野」)
「この谷の地形発達史は次のように考えられよう。冲積世のある時期に海進があって、検見川の谷には広く入江が形成された。台地を刻む小谷の出口には、比高1~2mの砂堆の形成されたところもあったが、東京湾に面した谷の出口には、もっと大きな砂州が発達しはじめた。海の後退にともなって、出口を砂堆でふさがれた谷奥部にはいち早く泥炭の形成をみた。時代が下がるにしたがって、泥炭はその厚さを増大したが、その泥炭堆積の初期に丸木舟と蓮実とを埋積した。ついでもっとも大きい砂洲もそのすがたを海面上にあらわすようになった。」
丸木舟や大賀ハスに関する地学的な考察はこの書(中野尊正著「日本の平野」)掲載情報が一番詳しいのではないかと思います。