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熊本大学薬学部の沿革には,明治18年に開校した私立熊本薬学校について次のように書かれている.
熊本大学薬学部の沿革(一部)
熊本の薬学教育については特別の教育機関はなく、医学教育の一部として取り扱われてきた。当時熊本に陸軍薬剤官として在住した町田 伸(1881 (明治14)年東 京大学薬卒)、平山増之助 (1882(明治15)年東京大学薬卒)、県立熊本医学校教諭兼薬務局長蔵田孝貞らは県下に薬学教育機関 がないことを憂い、熊本区内の薬業家諸氏に薬学校設置の必要性を説いたところ、賛意が 得られ、1885(明治18)年2月6日熊本県令富岡敬明に私立熊本薬学校設立願を提出した。 これに対して、同年3月3日付をもって私立熊本薬学校の設立が認可され、熊本における 独立した薬学教育機関が誕生した。
初代校長になった平山増之助(1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1914年(大正3年)6月29日)は,明治15年に22歳で東京大学薬を卒業し,陸軍薬剤官として熊本鎮台病院に赴任した.平山等は「県下に薬学教育機関 がないことを憂い、熊本区内の薬業家諸氏に薬学校設置の必要性を説いた」と書かれている.しかし,実際は明治10年(此年,西南の役終結,東京大学設立)前から「薬学校設置の機運」が熊本の地で高まっていたのは別の資料からも明らかである.
実際の設立においては,土地,建物,設備等の財政的な問題が大きな課題であったはずである.そのような課題に目処が立ち,明治15年には薬学校通則が文部省から通達され,時を同じくして西欧薬学を修めた平山等が熊本陸軍病院に赴任し,開校の準備が整ったと言える.県令(県知事)への設立願提出,授業内容等については自らの知識を活かして平山等が全面的な協力をしたのは想像に難くない.
注) 平山増之助の校長在任期間: 1888年1月 - 1889年7月.大正3年の薬学雑誌追悼文(故薬学博士平山増之助君小傅,羽田益吉)には富山県立薬学専門学校長のことはふれられているが,私立熊本薬学校のことは書かれていない.
ここでは,明治10年以前に薬学校の必要性を自ら強く感じ,財政的,物理的に支援したと考えられる人達を紹介したい.
明治26年に書かれた「日本薬業界名士傅」には,明治9年薬種商の店に仕えていた尾崎栄次郎は”薬学校(仮称)”で薬学を講修している.”薬学校(仮称)”は私塾的なものであったと考えられるが,明治10年の西南の役では薩軍に動員されている.尾崎栄次郎氏傅では,西南の役後,薬業を再び営み金融会社(後の熊本進歩銀行)を設立した後,明治18年山田善十郎等と私立熊本薬学校を設立したと書かれている.「日本薬業界名士傅」の著者は全国に取材した旨を巻頭に記している.私立熊本薬学校が正式開校して間もない頃の当事者が現役時代の取材および出版であるので誤りはないはずである.
尾崎の友人である橋本伊平も,同じ(私塾的)”薬学校(仮称)”に入学していたと書かれている.
尾崎栄次郎氏
氏は熊本市呉服町一丁目 河北治三郎氏の二男にして嘉永元年十一月を以て生れる.資生磊落(らいらく)にして活潑なり.九歳の頃より野菜の行商をなす.朋友等氏の名を呼ばずして菜賣小僧と唱ふ.氏,之を意とせず己れの物を己れ之を賣る.何そ笑を受くることあらんや笑ふ者こそ愚なるべしとて反て其笑ふ者を笑へり.十六歳にして,仝地唐人町薬種商 尾崎茂平氏の店に仕ふ.尾崎氏々を遇すること甚だ刻なり.日々近郡数里の地を行商せしめ.夜は十一時過迄家族の按摩をなさしむ.氏,憤慨すること屡々なり.遂に実父に訴へて尾崎家を出でんことを乞ふ.実父怒て曰く「忍び難きを忍び,堪へ難きを堪へ,而て後始て完然たる人たることを得べし.汝夫式(それしき)の事に堪へざる亦人たるを得ざるなり」と.氏,已むを得ず再び尾崎家に帰る.然るに主家の待遇益々厳刻,氏,窃かに主家を脱出せんとすること再三.二十四歳に及び主人氏を尾崎家の養子に改めんとす.氏,之を辞して曰く「不肖は主家の為めには再三棄てられたる者なれば,養子抔とは意外のことなり」とて之を諾せず.後,実父の説諭に依り漸く之を諾す.
其他,氏が公共の事に盡くしたる事績少しとせす.嗚呼,氏の如き熊本に於ては実に必要の人たるべし.
注)(株)熊本進歩銀行,存続期間: 明治21年~明治35年,前身銀行は,進歩社(明治21改称) ,明治35解散
橋本伊平氏
新町三丁目 高濱利平氏の長男,三歳にして利平没す.苦労に対して藩主細川公の賞美を得.十一歳の時,慈母没す
薬種商 山田善十郎の店に奉公,二十余名の雇人中より氏を抜擢して”熊本薬学校(仮称)”に入学せしむ
祖先 播州赤穂の藩士 橋本市左衛門
注)高浜亀八(利平)は明治22年 私立熊本薬学校第3回卒業となっている.
橋本伊平の息子 橋本壽七は明治33年卒(25回生)である.
住田正章氏
日本薬業家名士傅に紹介されている三人目の熊本の人,熊本薬学校との関係は記されていないが,橋本伊平の協力者として尽力した.
細川家の臣竹田忠左衛門の二男,熊本市竹部七軒町に生れる.
十三にして藩学校に入る.十五歳にして藩校を卒業す.
爾後水道村に引越し,,叔父武藤厳男の宅で文武の学を講修す.
倒幕論の起るや砲術の師範長峯雲七の門に入り砲隊を司る.奥羽征討の命を受け参戦武功を挙げる,
乱後,藩主より選ばれて東京留学,兵学校に入り武学を講ず.
明治8年 親類の住田家の養子となる.
9年 熊本師範学校に入る.
敬神党に加盟,翌年の西南の役では薩軍には加わらず,東上説を唱えて行動するが関西で捕われる.
放免後,熊本に帰り士道を棄て農に従事.
兵乱後,県下の教育が乱れていることを憂い,自ら発起人となり上益城郡に中学校を設立し,親族なる佐々友房等を教師とする.
明治15年 同士であった長谷川清等と川尻に汽船会社を設立,
その後,天草に転住し活版所を起こして大に益あり
明治19年 熊本の汽船廻漕会社の支配人
明治24年 汽船廻漕会社を解き,再び天草に至り橋本伊平と賣藥店を開き全島の商権を占呑せんとす
付記 明治7年有禄士族基本帳に氏名記載あり.
明治9年には,熊本では神風連の乱が起こり,翌年の西南戦争では市街地は砲弾が飛び交い焦土と化した.そのような中で熊本薬学校(仮称)の実態は定かではない.明治維新で藩の再春館は閉鎖され,明治4年長崎医学校からマンスフェルト(オランダ)が招かれ西洋医学所兼病院が誕生している.明治8年医学校は廃止され,病院は下通に移転するが明治10年の西南の役で焼失する.県立医学校が再興したのは明治11年になってからである.西南の役以前に薬種商に務めていた尾崎や橋本等が薬学を勉強した学校は一連の西洋医学導入の流れの中で生まれた「薬の知識を教える学校」であったに違いない.「日本薬業家名士傅」では,西南の役以前の薬学校と正式に設立された私立薬学校を同じ名称の「熊本薬学校」と書いているので,前者に「仮称」を付した.
資料
熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System (PDF)
平山増之助:東京大学予備門を経て,1882年(明治15年)東京大学医学部薬学を卒業した。直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し、1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した。
藥學雜誌 1914年4月26号. “「故藥學博士平山増之助君小傅」 羽田益吉”.
(2013.3.18)