6歳の戦争記憶

具体的に記述したブログをご覧ください.

1939年生れは戦後初の小学校1年生である.

戦後65年が経った.熊本も原爆投下の候補地にリストアップされていたという記事を読んだせいか,戦時中の記憶がよみがえってきた.

世が世なら幼稚園児の記憶にあたるが,現在の子供とはまったく異なるものである.

・ 熊本市山崎町の電車通りに面した薬局であったため,戦地へ向かうため熊本駅に向かって兵隊と戦車が行進する姿

・ 民宿する兵隊(何かの都合で汽車が出ない時)

・ 家庭用鉄製品を集める鉄回収(武器に転用)

・ 電車通りのアスファルトにできた防空壕(飛び込み式)

・ 馬車で島崎の隠宅(市内西部)へ疎開,途中でカボチャをもらったこと

・ 警防団が来て天井板を突き破った(爆弾が引っ掛るのを避けるため)

・ 熊本空襲と真っ赤に染まった空(焼夷弾)

・ 近くの家が焼夷弾(市内への投下の流れ弾?)で燃えたこと

・ 市中心部から避難する人達(一晩宿を貸りた人達)

・ 警戒警報と防空壕(4個)への避難

・ 機銃掃射の音,弾が竹に当たって跳ね返る音

・ 南から北に向けて飛ぶ米軍の飛行機の数を防空壕に隠れながら数えた

・ 本妙寺山の中腹に軍隊の防空壕が作られ,そこから民家に遊びにくる兵隊

・ 上級軍人による防空壕作りの指導(子供でもできると言った)

・ 市内空襲の時,落下した金属板とベルト(横文字が記載)

・ 終戦を伝えに来た近所の人

当時,大人が感じていた戦争体験にくらべれば,それほど悲壮感があったわけではないが,幼児体験としてその後の戦後体験と相俟ってたいへん影響を与えたこ とは否定できない.赤で記した語句は子供心に「何たることだ」と思った事項である.疎開した隠宅(祖母を隠居させるため)は一軒家であったため,焼夷弾が 命中して天井に引っ掛っても問題ではないと父は思ったようであるが,例外は許されなかったようである.子供心に愚行と感じたことのひとつである.

昭和9年生れの人のブログに,“戦時中のバカなこと”として,竹槍と天井板剥がしの文章がある.

参考ブログ:戦時中のバカなこと

総務省資料 一般戦災ホームページ:国内各都市の戦災の状況(大分市,佐世保市に記載あり)