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熊本大学の郷土史研究グループがまとめた「熊本藩年表稿」の1600年代の項目に,「玄察」という略名が付いた資料が33回引用されている.熊本県上益城郡早川(そうがわ)の厳島神社神主であった渡辺玄察によって書かれた渡辺玄察日記(拾集物語)である.私自身の認識不足で,熊本の中心から南東へ21kmの距離にある地域のローカルな記録と思っていたが,実際に本文を読んでみると,私の先入観とは異なるものであることが分かった.
渡辺玄察日記は,寛永9年(1632年)から元禄14年(1701年)に至る年録(年代記)であり,国会図書館の近代デジタルライブラリーの肥後文献叢書第4巻に「拾集物語」として収載されている.これまで見てきた同ライブラリーのデジタル資料に較べるとスキャンの画質がよく読みやすい.
巻頭のページを以下に示したが,「13歳までの記録は父親に聞き知ったことを記した」と書いている.
玄察が誕生した年は加藤忠廣(清正の息子)が参勤交代の途中で足止め,改易されて,代わって細川氏が入国した寛永9年(1632年)である.日記の最終年である元禄14年には,浅野内匠守の事件が記載されている.
以下はワープロで書きなおしたものである.
拾集物語(表紙には渡邊玄察日記と題す 編者 云)
1自分事寛永九年壬申二月十一日に誕生
1十三より内の事は父親に相尋候而書記候其以後は自分見聞之事色々書出候
1寛永九壬申年
此年玄察生字を鍋坊丸と云
此年の六月加藤肥後守廣様出羽之國へ御流罪に御逢被成候
此年の六月より十一月迄 天下様之御蔵納忠広公日遊御配流御上使内藤左馬守様稲葉丹後守様御奉行衆に伊丹播磨守様秋本但馬守様御横目衆に秋山修理様石川三右衛門様熊本御城番に石川主殿様石川惣十郎様中川内膳様伊藤修理様八代御城番に秋月長門守様島津右馬様稲葉民部少輔様木下右衛門佐様
此年十一月細川越中守光利様當国被遊御拝領豊前之國より當御國へ被遊御入国候
此年より當所下早川村御給知と鳴る御求人は中村左馬進殿田邊平助殿井上孫兵衛殿清成作助殿山田次右衛門殿
1同十みつのとのとりの年
此年より御仕置目出度御事多し 殿様日仰出候は
以後?忝難蒸有可奉存御事段段に可被 仰出との御ふれ御座候
1同十一きのへいぬの年
此年より當所中村左馬進殿御知行御百姓衆厳島宮之御祭禮九月六日吉?に毎年執行神楽も奏上いたし候 此年之眞父渡邊孫兵衛吉政一カにて厳島前廉之本殿修造
1同十二きのとのいの年
此年より當所田邊半助殿御知行御百姓衆同宮之祭禮執行いたしはじめ候山囲殿清成殿井上殿御知行御百姓中右同前
1同十三ひのへねの年
此年大ききん銀百目に米八斗大麥三石粟二石八斗
1同十四ひのとのうしの年
此年より鍋坊丸六つになり候十一月十五日より手習はじむる三日にいろは箪立覚え候師匠は上豊内村玄情と云仁 此年ほうそうはやるなぺぼう丸も此年疱瘡いたし候 此年の十一月より肥前国島原に切支丹謀叛を起す
1同十五つちのへとらのとし
以下略
上記は肥後文献叢書の1ページであり,玄察の生涯の記録が40ページで描かれている.
本文には,玄察自身と中村伊織という人物の動向を中心に記録しているが,伊織は当地の給主(領主から所領の管理をまかされた者)であり,貴重な情報源であったと思われる.甲佐地区は河狩(鮎)や鷹狩の場があったため藩主が度々訪れていたこともあり,情報の希薄な土地柄ではなかったと思われる.遠くで起こった事件の内容やそれに関わった人物の氏名等も詳細に記録しているのは驚きである.また給主である中村伊織は米田監物(細川忠興・忠利・光尚・綱利の四代に仕えた重臣)と能を舞う間柄であったため能見物に監物の屋敷を訪ね,その詳細を記録している.日記に書かれている地名の多くは現在も残っており,その付近を訪ね史実を追うのにたいへん都合がよい.最近,都市部では無粋な役人による区画整理によって旧地名が判らなくなっていく傾向にあるが,それとは対照的に歴史を学ぶ者にとって好材料の例と言える.
記載事項を大まかに区分けすると次のような項目に分けることができる.
当地の状況 村,隣村の様子,天候,災害,行事,流行病,作況,寺社,祭礼,百姓の名前をあげて記載
熊本の状況 全般 藩主参勤 殉死者の詳細 熊本の寺社の動向 火災
江戸の状況 江戸屋敷 明暦の大火 生類哀之御ふれ 浅野内匠守の事件
京都の状況 地震 洪水 火災 噂話
長崎の状況 切支丹 島原の乱 南蛮船事件 オランダ ポルトガル船事件と舟のサイズ 警備陣の詳細
藩主の動向 甲佐のやな等 甲佐川の鮎,甲佐谷での鷹狩など 御鷹場
上使,国廻の動向,給主の動向 知行 お能
作況 虫害 旱魃 飢饉 (詳細別稿) 穀物の相場
主要穀物の相場 100銀で買える米,麥,粟の量などが記されている
流行り病 疱瘡 はしか ほおばれ (詳細別稿) 悲惨な流行病の様子
繰り返し流行する流行病による犠牲者や悲しむ村人の様子が書かれている
家畜 狂病 牛の病
寛永十六年 此年天下一同にうしことごとく死す 狂牛病的な記述
寛文十二年 此年の八九十十一十二月明る六月迄に牛ことごとく死す
天文 ほうき星 流星 (詳細別稿)
萬治 元年 十一月九日いぬの時に東の方より火いで候て西の方にとふ空中よりいで空中にいる UFO的な記述
災害
噴火 地震 気候 水害 台風 雷害 旱魃 火災(熊本城下 江戸 京都 長崎 鶴崎)
元禄 十二年 當国北目大洪水大津町がしらのどて山水にてきれ町にそんずる同所御惣庄屋其洪水町にて水死南目は少洪水
右之大水熊本古町に三尺水揚る 大津水害と熊本古町の水害・・・・平成24年熊本水害の類似のケース
切支丹 踏み絵,豊後から長崎への移送状況 (詳細別稿)
切支丹が大分から長崎へ送られる際,当地を通っていた様な記載がある.広く阿蘇の豊後路と捉えるべきかもしれない.
寛永十四年 十一月より肥前国島原に切支丹謀叛を起す
十五年 細川光利守様御家侍陣佐左衛門殿うち候 天草四郎を討ったのは陣佐左衛門と書いている
萬治 三年 六月より十月迄豊後国に切支丹あらはれ数百人はこにいり長崎へ通る.大分から熊本を通り長崎へ移送
自分 成長記録 神主業 能見物 旅行 湯治
寺社 造営 修造
天和 二年 此年之三月當厳島宮へ石之鳥居立つ 此年の四月鳥居よせのおどり致候
祭礼 周辺寺社 雨乞い 阿蘇神社との関係,その格の高さが推察される
お能
熊本藩家老が催す能の見物に熊本へ出向いている.演目,舞人の詳細が記されている.
給主の中村伊織は能を舞っていたことが判る
明暦改元年 此年之四月八日に長岡監物殿下屋敷にて能御座敷を見物仕候覚
高砂 道成寺 兼平 監物殿
谷行 籠太鼓 山姥 唐船 楊貴妃 伊織殿
うたう 源太郎殿 呉羽 千太郎
その他 うわさ話,夢の話など
注)早川の厳島神社 熊本県上益城郡甲佐町早川762
大きな災害,事件が箇条書き様に簡単に記述されているので詳細は調べる必要があるが,地域の歴史を年表を見るように手短に知るにはたいへん役に立つ貴重な資料である.田舎に居ながらの情報収集能力は驚くべきものがある.上使,国廻,神社を訪れる藩役人や給主から聞いたことは直ぐに書き写したと書いている.
地域住民に繰り返し襲いかかる大風,洪水,旱魃,飢饉,火災,流行病の状況とそれらを避けるための祈願,祭礼,寺社の役割を汲み取ることができる.疫病の流行による子供の死亡と母親の悲しみ泣き叫ぶ声,旱魃,虫害による不作と飢餓を目前にして祈祷するしかない神主の立場が箇条書きの文章の行間に込められている.他の古文書と異なり,血生臭い事件も穏やかに記しているのは玄察の人柄によるところと思われる.
参考資料
早川厳島神社の写真は探訪記 (by fksm-kzmty) を参照ください.
肥後文献叢書第4巻に収載されている資料
御預人記録一巻 / 341 (0174.jp2)
拾集昔語三巻 / 353 (0180.jp2)
拾集物語二巻 / 433 (0220.jp2)
拾集記一巻 / 480 (0244.jp2)
渡辺玄察日記一巻 / 512 (0260.jp2)
渡辺先祖以来今事記一巻 / 552 (0280.jp2)
早川故事一巻 / 573 (0290.jp2)
(2013.3.27)
追記
ホームページ「ごじょちゃんの玄察かぶれ」に肥後文献叢書の渡辺玄察関連の部分を活字化されたものが掲載されている.