聖地を出てから外界の時間で二十年ほど経ちました。
守護聖でなくなり外界へ降りた私の時間も再び活発的に動き始めました。
それは久しく忘れていた生命の輝きでした。
数多の人々と同じく、過ぎ去る日々の中で懸命に生きる。
それは掛け替えのない日々でした。
最初は聖地を想う日もありましたが、今では遠い夢のようなセピア色の日々の記憶が残るばかりです。
そう……セピア色の想い出になる筈でした。
いつか重なり合う未来へ
ルヴァの一日は、ポストから新聞を抜くことから始まる。
目覚めはコーヒーではなく濃い目に入れた緑茶だ。
年を経て食が細くなったのか朝食は食べなくなった。
お茶を啜りながら新聞の記事に目を通す。
数年前には異常気象などが続いていた時期もあったが、ここ一、二年は最近は穏やかで気候の良い日々が続いていた。
紙面を賑わすのも明るい話題が続いており、人々の満足度は高そうだ。
ルヴァは朝の準備を終えると仕事へと向かった。
ルヴァは、守護聖を降りてからは各星雲を巡り、本で見て得る知識と実際に体験することの違いを実感した。
そしてそれにのめり込んだ――数年の放浪を続けることになった。
最期は故郷に戻りたいと考えていたものの、住み着いた地は主星によく似た神鳥の宇宙の端にある惑星だった。
聖地より用意された身分証明書の名前にはルヴァ・ウルカイシ。
どんな星の巡りあわせか現在は小学校の教諭として働いていた。
「ルヴァ先生、さようなら」
「はいー、さようなら」
にこにこと教え子たちが帰宅するのを確認し教務室へと戻る。
学ぶということを覚え始めた子どもたちへ、それを教えるのは悪くなかった。
守護聖を降りる前までは残りの人生をかけての仕事は父のように学者になろうと考えていたが、聖地で年若い守護聖たちへ教えることの喜びに目覚めた。何の下地も経験もない教え子から受ける意見は時に斬新で気付かされることも多く楽しい。
流浪のうちで得た実践に伴う知識を後進に伝えたかった。
だから、たまたまこの地に辿り着いて小等教育者の求人をみたのは運命だったのかもしれない。
今では生活の糧だけではなく教師が天職だと思うくらいはルヴァは自身の選択に満足していた。
ステラが話しかけてきた。
彼女はかつてルヴァの教え子だった女性で今では同僚となっている。
「ルヴァ先生、今日アレフ先生たちと呑みにいきませんか?」
「いやー、すみませんねぇ……昨日校長先生たちと懇親したばかりで。二日続けての呑むのにはもう身体がついていかないんですよー。今日は早く帰って休みますね」
ステラは残念そうだったものの、ルヴァが次回に期待する旨を告げると笑って去っていった。
通勤帰りに、最近増えた別の惑星からの移民が作る小分けの惣菜を買って帰る。
熱気を帯び始めた季節に合わせ、少しの塩気のあるものを選んだ。旬の梨が安い。数日間のデザート用に梨もいくつか追加で購入する。
少々おまけしてもらいホクホク顔になる。緩んだ顔のままバスに乗った。
ひとりの気侭で穏やかな週末だった。
ルヴァの家は郊外にある。
主星からかなり離れた田舎の星だったためか、各地を巡った後の聖地からの支度金の残りでも十分買えた。
故郷や聖地とは異なるこの地にとどまることになったのは事情があるわけではなかった。
特に拘りもなく住み着いた星だった。
この惑星はルヴァの過ごした時代の故郷の星よりは文明が発達しているが、そこまで機械化されておらず、現在の主星よりも長閑で緩やかな時間が流れている。
そんなところは気に入っていた。
バスを降り、大通りから一本入ると小さな二階建ての家がある。
小さな庭は白い木のフェンスで囲まれており、門から木の扉へと石畳が続く。
蝦茶の屋根にこの星が産地の石灰を含む白い石でできた家は大層可愛らしい。
少し前に流行った出窓にかかったカーテンは深緑一色のシンプルなものだったが、それでも可愛らしいその意匠は独り身のルヴァには可愛らし過ぎて似合っていなかった。
本当であればもう少しこじんまりした小さな家を手に入れるはずだった。
だけど、不動産屋の紹介でこの物件を初めてみたとき、ふとセピア色の記憶が蘇った。
まだ一軒目の紹介だというのに即決したのは普段長考のルヴァには珍しいことだったけれど、ルヴァはこの決断に満足していた。
門を入ると、軒先に台車を置いてある。
そこに荷物を下ろし鍵を出そうと考えつつ門をあけた。
その瞬間、時間が止まった。
木戸の前にいかにも旅装といった風情の女性が茶色のトランクを倒し座っている。
この星の田舎でも今はもうみないようなクラシカルな薄桃色のワンピースに同色のファブリックハット。
帽子から垂らされている髪は金色で。柔らかな金の糸が夏の夕暮れに照らす光と吹く風に靡いて煌いていた。
横顔しか確認できないが、その顔をルヴァはよく知っていた。
ルヴァの手元から紙袋が落ちた。
紙袋から梨が転がっていく。
女性がその音に気づき、ルヴァのほうへと向く。
「ルヴァ!」
「ヘ、陛下!?」
女性が駆けてルヴァに飛びつくと慌てて抱きとめる。
少しふらついたものの無事に受け止めることができルヴァはほっと息を吐く。
ルヴァに陛下と呼ばれた女性は笑いながらいった。
「もう陛下じゃないわよ?」
「……アンジェ」
愛称で呼ぶルヴァに満足をしたのか、そのまま抱きしめてくるアンジェリークをルヴァはおずおずと抱き返す。
「逢いたかった! ルヴァ!」
もう口にすることはないと考えていた少女の名前を口にし、またもう二度と彼女に呼ばれることはないと思っていた自身の名前を呼ばれて、ルヴァの背に甘い痺れが走る。
「また逢えましたね……アンジェリーク」
ルヴァからみると二十年ぶりの再会だった。
いつまでも外で抱き合っているのも外聞が悪い。
家へ招きいれた。
「どうして来たんですか…」
扉を閉めつつ小さく呟いたルヴァの言葉はアンジェリークには聞こえなかった。
「お茶でも入れますねー」
アンジェリークをソファに案内する。
アンジェリークはしばらく落ち着かずにキョロキョロとしていたもののルヴァと目が合うとばつの悪そうに笑う。
「すごく素敵なお家ですね!」
目を輝かせながら家を褒める女性はアンジェリーク・リモージュ。
ルヴァの知る三人目の女王だった女性だ。
だったと過去形にしたのはルヴァ自身がもう現在のこの宇宙の女王を知らず、少女が大人になっていたからだった。
アンジェリークはルヴァが最後に見たときよりも随分大人びていて、彼女も着実に年を重ねるようになったのだと判る。
変わらない彼女の微笑を見るとなぜか胸が騒いだ。
ルヴァは来客用のカップを用意しながら、彼女が自分の特別になった出来事を思い出していた。
最初のきっかけは些細なもので、彼女たちが育てていた大陸で見つかった植物について尋ねられたことに始まった。
まだ豊かではない土地でその植物は溢れんばかりの生命力で広まり住人の糧の一部となった。
あまりに勢い良く生えるので不思議に思った少女はその植物を調べたが出身の主星でも見たことがない植物だったらしく、そこで知恵を与える地の守護聖のルヴァに尋ねにきたのだった。
最初は飛空都市へ未知なる植物を持ち込んだことに苦言したものの、確かに彼女の主張する内容には興味を引かれた。
ディアに相談したところルヴァが詳しく調べることになり、アンジェリークも発見者として協力することになった。
大陸が災害に見舞われたとき、ルヴァの研究によりその植物の特性が解明されていたお陰で、塩害により不毛となった大地でもその植物を栽培することができ、窮地を乗り切った。
乗り切った後の発展は素晴らしいものでロザリアに差をつけられていた育成状況が巻き返す勢いになったのもこの頃だ。
どちらかというと人間関係は苦手だと思っていたルヴァではあったが、明るい向日葵のような彼女に心奪われるのにそう長く掛からず、エリューシオンと名づけられた大陸の最初の発展のきっかけを作ったせいか、彼女もまたルヴァを慕っていた。
自分を慕う彼女が太陽に向かって咲く向日葵のようで、ルヴァは彼女と自分の立場を何度考えても走り出した想いをとめることはできなかった。
その頃のルヴァは呑気に、久々に感じた淡い想いを、むず痒い様な想いだけを楽しんでいた。仄かな想いはそのまま時間に淘汰されてなくなると考えていたからだ。
彼女が女王になった時点でルヴァの恋は夏が終わった向日葵のように枯れると思っていたが……。
ところがこの宇宙が別宇宙からの侵略を受けた際に萎れた花から種が芽吹いた。
彼女が皇帝に囚われた知ったときは自身も拘束されているにも関わらず彼女のことを思うと生きた心地がせず、幸いなことにもう一人のアンジェリークの奮闘で宇宙は救われた。
彼女に対する想いを再度深く認識したもののルヴァはアンジェリークに愛を告げることはなかった。
ルヴァの想いが溢れ出しそうになるたびにタイミングが悪く事件が起こり、彼女は小さなその身で宇宙を支えている女王で自分はそれを支える一柱だということを強く思い知らされたからだ。
ルヴァはその地のサクリアが衰えるまで一守護聖として女王への忠誠と一人の男としての情愛によって彼女を支え続けた。
そうして時は満ちルヴァは外界に戻った。
ポットで蒸したお茶が良い頃合になるとゆっくりとカップへと注ぐ。
ルヴァは久々に使用した来客用の茶器をアンジェリークに差し出しながら尋ねた。
「……アンジェはどうしてここへ?」
「私のサクリアの喪失が始まってからロザリアが教えてくれたんです。まだ今ならルヴァ様に逢えるって」
すっかり少女時代に戻ったのかアンジェリークが瞳を輝かせながらいう。
「こちらの時間だと一年くらい前になるのかしら……ルヴァ様は故郷の砂の惑星に戻られたのかと思って砂漠の惑星を訪ねてみたのですけどいらっしゃらなくて。ここに住んでらっしゃるって判るまでに結構かかっちゃいました」
アンジェリークがそういうのも無理はない。
ルヴァだって未だに自分が故郷に戻っていないのが不思議なくらいだ。
聖地にいる頃はあんなに帰郷することを切望したのに今は故郷から大分離れたこの惑星にいる。
「そうでしたか……すみませんねぇ。いつかは戻ろうと思っていますが、もうあの惑星にも身内の者は残っていないのでもう少し後でもよいかと思いまして。あー……アンジェリーク、先ほどのように砕けた口調でお話しましょう。敬称をつけるのもやめにしませんか?」
「でも…」
「でも?」
アンジェリークはルヴァをじっと見つめるとはにかんで言った。
「不思議です……女王としてルヴァ様と過ごした時間のほうが長かったはずなのに。今でも思い出すのは女王候補時代のルヴァ様とのお喋りなんですよ」
「え…?」
「ルヴァ様さえよければ昔のように話しても良いですか?」
昔を表すのが彼女が女王の時代ではなく女王候補として飛空都市で過ごした頃を指しているのがルヴァにはむず痒かった。
それでも彼女が望むならばと首を縦に振る。
「あなたさえよければ……」
「うれしいです!」
屈託なく笑うアンジェリークが眩しくてルヴァは目を細めた。
「これからどうされるのですか?」
「えーと、特には……」
「行く先が決まってないのであれば、しばらくここに滞在しませんかー?」
「……」
「どうかしましたか?」
「ご家族の方はお留守ですか?」
「いえ、私はずっと独り身ですが…」
アンジェリークの質問の意図が判らず、きょとんとしていたルヴァだったがある可能性に気づくと慌てて否定する。
「あああああぁ、そうですよね~~。男一人の家に、その、すみません。私はもうこの通り枯れていますので安心してください! あの、そ、それに、もし、その私の家が問題あるのであれば、宿を紹介しますし…」
ルヴァの慌て様に目を丸くしたアンジェリークだったが、クスクスと笑い出すと言った。
「いえ、お世話になります」
にこにこと警戒心無く笑うアンジェリークに男のプライドは少し傷付いたもののルヴァはへらっと笑った。
こうしてルヴァとアンジェリーク、二人暮らしが始まった。
「……ご飯は作る機会が少なくて」
しゅんとしょげるアンジェリークをルヴァは慰めていた。
二人の目の前には焦げたポテトと香草のグリル焼きがある。
今日の夕食はアンジェリークが作るといい用意したものだ。
焦げ臭い匂いがしたもののデザートの作成に夢中になっていた彼女は気づかなかったようで。
気付いたときには黒々とした物体が出来上がっていた。
隣に置かれたデザートの梨のタルトが完璧に近い出来栄えなだけに落差が激しい。
「ごめんなさい」
ひたすら謝り続けるアンジェリークにルヴァは笑いかけると、上辺の焦げを削ぎ落として皿を戻していく。
幸いそう深くまで焦げきっておらず、中は食べられる。
「あなたはまだ若いですから、ゆっくりと覚えていけばいいのです。それに少し焦げてますが不味くはないと思いますよー。さ、アンジェ、気を落とさないで一緒にいただきましょう」
そういって食事を運ぶ。
食卓にすべての食事が並ぶ頃にはアンジェリークも元気の良い様子に戻っていた。
「この辺りで買い物ですか? 曲がり角の食料品店では事足りませんか?」
「えーと、食品じゃないものいろいろ買いたくて…」
食卓では会話をしない作法もあるだろうがアンジェリークは会話を嗜むタイプで、ルヴァは独りでの食事が多かったため、それを新鮮な気持ちで受け入れていた。
「うーん、若い女性が気に入るような洒落たお店はこの辺りではないですね。町の中央にはあると思います。次の土曜で宜しければご案内しますよー」
「ルヴァ様、本当ですか!?」
「はいー」
にこにことご機嫌になるアンジェリークにルヴァもうれしくなる。
彼女が店を探すのも尤もだと思う。
初日に見たあのトランクだけでは必要なものが足りないだろうとは思っていた。
誘ったときには意識しなかったが、これで次週も彼女と過ごすことができるのに気づいた。
どのような意図でアンジェリークが自分を訪ねてきたのかが気になるもののルヴァはそれを尋ねることはしなかった。
「ルヴァ先生、結婚されたって本当ですか?」
同僚の発言にルヴァは驚きの余り抱えていた教材を足の上に落とした。
足の痛みに眉を顰めつつ、教材を慌てて拾い上げる。
「……誰がそのようなことを」
週の半ば、いつものように出勤し授業の準備をしつつ、四年を担当しているアレフと世間話をしていた。
途中からステラも加わったが、急に思ってもみなかったことをふられたものだからルヴァに動揺が走る。
「うちのクラスのアンリがルヴァ先生の家の近くに住んでいるんです。お隣のラメール夫人以外の女性がルヴァ先生の家から出てきたのを見かけたみたいで……いろいろ言いふらしてましたよ」
ラメール夫人は六十後半のルヴァの隣家の女性で子どもが都会へ行った後にその夫と二人で暮らしていた。
夫ともども人の良い夫婦で独り身のルヴァを心配し、色々世話をしてくれているのだ。
ルヴァはしばらく考えたものの正直に言う。
「……こちらに移住する前の昔馴染みの女性ですよー」
「あれ? 私はアンリからはすごく若い女性だと聞きましたよ!」
ステラがいうとルヴァは汗を拭いながら言った。
「えーと、昔お仕えしていた方なんです」
予鈴がなると、ぽかんとした顔の同僚二人を置いて次の授業があるルヴァは慌てて教務室を出て行く。
アレフとステラに疑問を残したまま。
「アンリはルヴァ先生の嫁は十代後半くらいの女性だといってたぞ。ルヴァ先生は二十年前からここで教鞭をとってるだろ? あれ? その娘生まれたてじゃないのか?」
「お仕えってその子の親御さんにですかね?」
「うーん、わからんなぁ。あ、でも結婚は否定しなかったぞ?」
「まさかルヴァ先生って……」
アレフとステラは顔を見合わせるとそのまま黙り込んだ。
「すごーいっ!」
「アンジェ、あまりはしゃぐと……」
土の曜日、町の中央にでたアンジェリークは常よりもテンションが高く、あちらこちらへと露店を覗いている。
いくらこの星が長閑だといってもここはたくさんの人が集まる街の中央で、スリもいれば、若い女性を狙う犯罪も多少発生していると聞く。
心配性のルヴァはアンジェリークが人混みに紛れる度にひやりと汗を掻いていた。
「はぐれない様にこうしましょうか?」
ルヴァはその手でアンジェリークの手を握った。
好きな女性の手を握ると年甲斐もなく心臓が高鳴った。
アンジェリークは驚いたのか固まっている。
沈黙が痛かった。
ルヴァは慌てて手を放そうとしたもののアンジェリークがルヴァの手を握り返した。
拒否されなかったことに安堵してルヴァの心は凪いでいった。
「うふふっ、こうやって手を繋いでいたらカップルに間違えられちゃうかもですね」
ガラスのショーウィンドウに映った二人の姿はルヴァからみると、まるで仲のよい父子のようで目を逸らしたくなるが、アンジェリークの言葉は純粋にルヴァにはうれしい。だけどやっぱりルヴァから見るとどうみても親子で。
「あー、あはは。はたからみたら親子かもしれませんねー」
ルヴァが自嘲気味にそう返すとアンジェリークが不思議そうに首を捻り少し考えて返す。
「ルヴァ様がパパ? うーん? ね、ルヴァ様」
「どうしました?」
「ここでもターバンはとられないんですか? それを巻いてなければ若く見えると思いますけど……前に一度外して見せてもらったときは……素敵過ぎてドキドキしちゃいました」
聖地から旅立つ前夜。
事情も話さず彼女の前でターバンをとったのは愚考だとおもっていたが、思いがけず褒められてルヴァの顔が赤くなる。
今から思えば、かの慣習を彼女に説明しなくてよかったと思う。
あの行為は自分の想いの表れであったが、彼女からすれば少し珍しいくらいの出来事だったはずだ。
あの時は気持ちを伝えるには状況が悪くて、ただそれでも微かな想いを表したく、その行為に至ってしまった。
後悔はなかったが慣習を伝えなかったのはただの自己満足だったから。
受け入れられなくても、万が一受け入れられても……あの時の状況では別れの結末しかなかった筈だ。
今が奇跡だということをルヴァは知っていた。
「ありがとう、アンジェ。だけどこれはこれでいいのですよ」
ルヴァの言葉にアンジェリークは物言いたげにしていたが、すぐに微笑む。
「おや? ルヴァ先生ではないですか」
聞き慣れた声にルヴァが振り返ると上司である校長とその夫人がいた。
「あぁ、校長先生、こんにちはー。先生も奥さんとお買い物ですか?」
「はは、せがまれましてね」
アンジェリークは見慣れぬ男女に首を傾げたものの、ルヴァの知り合いだと判るとにこにこと愛想良く振舞っている。
「ふふ、あなたったら。あら、そちらはルヴァ先生の奥様? とても可愛らしい方ですわね」
校長夫人にそう微笑まれてルヴァはアンジェリークと顔を見合わせた。
「アンジェ、こちらは私の勤めている学校の校長先生とその奥方です」
「は、初めまして。アンジェリークです」
少し立ち話をして校長夫妻と別れると町で一番大きな雑貨屋へと向かった。
しばらく個々に品物をみていたが、見飽きたのかルヴァがアンジェリークのところへ近付く。
「アンジェ、何か出物でもありましたかー?」
「あっ、ルヴァ様。これかわいいなと思って……」
アンジェリークが両手で持っている小さな苺柄が撒き散らされたマグカップにルヴァは提案する。
「それ買っちゃいましょうか? いつまでも来客用のカップじゃ落ち着かないでしょうし。あー、もし宜しければ私にプレゼントさせてください」
「いいんですか?」
「?」
「いえ、なんでもないです……ありがとうございます!」
包んでもらったマグカップを大事そうに抱えるアンジェリークにルヴァは目を細めた。
あの頃よりもずっと近くに彼女がいる。
ますますアンジェリークに愛情を感じていることにルヴァは溜め息を吐きそうになるが、困惑の中でもそれをうれしく思う自分もいて複雑だった。
街で満足する品が買えたらしく今週のアンジェリークはご機嫌だった。
今日も二人で夕食を食べようと用意されたカラトリーをテーブルに置こうとして気付いた。
昨日まで使い古された白のテーブルクロスがかかっていたと思うが、いつの間にか可憐な小さな花の刺繍の入ったテーブルクロスに変わっていた。
「あ、勝手にごめんなさい! 日中暇だったのでこの間買った布に刺繍してみたんですけど」
「いえ、女性の手が入ると華やかでよいなぁと」
ルヴァの席には専用の湯のみが、アンジェリークの席には苺柄のマグカップが置かれている。
少しずつ彼女に染まっていく日常にルヴァは幸せだった。
頭巾を被りエプロンをかけたその姿は、この辺りの既婚女性のスタイルで若い女性受けのしない格好であったがアンジェリークは気に入った様子でその装いをすると楽しげに、はたきで本棚の埃を払っていく。
掃除が終わると手を洗い日光で乾いた白いシーツを取り込んでいくのが見えた。
鼻歌が聞こえてくる。
ルヴァはそれを聞きながら温かな気持ちに包まれていた。
そんなルヴァも知的作業以外はそう器用ではないというのにラメール氏に教わった古びた庭の木柵の修繕を行っている。
修繕は白いペンキを塗って完成だ。
いつもは修繕を他人に頼んでいたルヴァだったが、隣人のラメール氏に妻帯したと誤解され、一家の主になったからには庭の修繕くらいやるべきだと勧められ断りきれず、休日だというのに本ではなくペンキと刷毛を持っている。
日曜大工もやってみると意外と楽しいもので、コツコツと悪くなった部分を修繕していく様子はルヴァの性に合っていた。
同じくルヴァの嫁となったと思い込まれたアンジェリークはラメール夫人にこの辺りの家庭料理などを教わっているようで、最近の食卓に反映されていた。
「ルヴァ様、一息いれませんか?」
二人分の茶器をトレイに載せて現れたアンジェにルヴァは微笑んだ。
「ふふっ、お庭の柵きれいになりましたね!」
「あー、所々まだらですけどねぇ……もう少し慣れたら家全体に手を入れてもいいかもしれません。まずは蝦茶色になった屋根を塗り直しますかねー」
「屋根をですか?」
「ええ、もうずいぶん手を入れていないので汚れてくすんでしまって……この家に越してきた当初は赤色だったんですよー。せっかくですからグリーン系の明るい色にしますかね」
「赤がいいです!」
「え?」
「あっ…ごめんなさい」
「いえ、赤色も素敵だと思いますが……おじさんには可愛らしすぎませんかね~?」
途端に表情を曇らせるアンジェリークにルヴァは慌てて言い添える。
「まぁ赤色でもよいかもしれません」
そうにっこり微笑むとアンジェリークがほっと息を吐いた。
それをルヴァは疑問に思ったものの深く追求せずに終わった。
ルヴァの家の二階の廊下の突き当たりには採光用の大きな出窓がある。
休日の午後、そこに椅子を置き微睡むアンジェリークを見かけた。
近寄るとアンジェリークは瞳を開ける。
「起こしてしまいましたか…?」
「いえ」
その頬に涙の後を見つけてルヴァは沈痛な面持ちになる。
「……泣いていたのですか?」
ルヴァが問うとアンジェリークは頷き恥ずかしそうに頬を掻く。
「このお家本当に素敵ですね。前にもお話したことあったと思うんですけど、昔こんな家で暮らしていたんです。赤い三角屋根の。あの頃はパパとママと一緒で。あの頃は……こんな風に独りになるなんて考えてもみませんでした」
女王になるときに覚悟は決めた筈だったんですけど、と小さく続けたアンジェリークは苦笑し涙ぐむ。
ルヴァには痛いほどアンジェリークの気持ちが分かった。
守護聖をおりてから砂の惑星に戻ったこともある。しかし、どのくらいの時間が過ぎ去ったのか、かつて家のあった地区にはもう誰も住んでおらず。身内の者がどこへ行ったのか手を尽くしたけれど分からなかった。
頭では理解していたはずであるのに、それでも心に残る家族と故郷への想いと破れた微かな期待と。
失った家族と故郷への想いはアンジェリークと変わらない筈だ。
「アンジェ…」
「はい?」
「あなたはまだ若い……これから家族を作っていけばいいのですよ」
「家族……」
「これからたくさん恋をして、一番好きな人と家庭を持つといいですよ。まぁ、あなたには時間はたくさんありますから。ゆっくりお考えください……」
ルヴァにはアンジェリークに、いつまでもこの家にいたらよいと、傍にいて欲しいとはいえる勇気はなかった。
窓ガラスに映るすっかりと年を取った自分の姿をみて、現実を考えると自分のような男よりも同世代の男が彼女には相応しいだろう。
そう考えての発言だった。
最近アンジェリークが余所余所しいとルヴァは悩んでいた。
自身の発言が原因だとは判っていたが、いざ態度に表されるとダメージを受けた。
授業はなんとかこなしていたものの腑抜けたその姿は同僚の誤解を生んだようだった。
「ルヴァ先生、まさか嫁さんに逃げられたんですか!?」
午後の授業が終わって片づけ中のルヴァにアンリが切り出すと教務室中の視線が集まった。
「あの子は嫁ではありませんので……」
ルヴァが力なく呟いて扉を開けるのを同僚たちはただ見送るばかりだった。
空はまだ明るいが夕食も終わった頃、チャイムが鳴った。
来客予定もなかったため、扉へ向かおうとするアンジェリークを制し、ルヴァが扉を開けた。
戸を開けるとルヴァの同僚のステラがいた。
「ステラ先生!? こんな時間にどうしました?」
「こんな時間にすみません……ルヴァ先生にどうしてもお話があって」
普段見慣れぬ真剣な同僚の表情にルヴァはステラを家に招きいれた。
アンジェリークが心配そうに二人を見ている。
「アンジェ、すみません……少し席を外していただいても」
「上にいってますね」
アンジェリークが席を外すとステラが言った。
「ルヴァ先生! 今日言っていたこと、さっきの子、お嫁さんじゃないんですよね?」
「え? アンジェですか? は、はい……」
「私、ルヴァ先生が好きです」
「ステラ先生…」
いくら鈍いといわれるルヴァでもこうはっきりと言われると流石に判った。
かつて教え子だった彼女の様子が思い出される。様々な想いが駆けていく。
ルヴァはステラに告げるため口を開いた。
少し時間が経って、ステラが出て行った。
ステラが帰ってから一階へと降りてきたアンジェリークの様子がおかしいのにはすぐに気付いたが、恐らく話が聞こえていたのだろうと気まずい空気の中でアンジェリークがルヴァに話しかけた。
「ルヴァ様、先ほどの方にお返事されたのですか?」
「あー……やはり聞こえてたんですねー。こんなおじさんを好いてくださるのは嬉しいのですが……どうして私なんかを好きなんでしょうかねぇ」
ルヴァはアンジェリークの問いには答えず、溜め息を吐く。
「ルヴァ様は素敵だもの! 私だってずっとずっとルヴァ様が好きなのにっ!」
アンジェリークが告げた言葉にルヴァの目が見開かれた。
「アンジェ…?」
「ずっとルヴァ様が好きでした」
緊張の糸が途切れたのか泣きながら告げるアンジェリークにルヴァも動揺を隠せない。
「アンジェ……ほ、本当に?」
「好きじゃなきゃおっかけてきたりしないです……ご迷惑ですか?」
「いえ! 迷惑なんてそんな……そんなことはありません!」
ルヴァはアンジェリークを泣き止ませようとその頭を撫でる。
なぜだかルヴァの中にアンジェリークが未知の植物を持って執務室の扉から入ってきた光景が蘇った。
アンジェリークの頭を撫でていたその手を止めて話し始める。
「あぁ、アンジェリーク、昔一度このターバンをあなたの前でとったことがあったでしょう?」
ルヴァは深く息を吐いた。
覚悟を決めるとターバンを外していく。
「このターバンは本当の自分をみせることができる人……大切な……愛する人の前でしか取ってはいけないものなんです。故郷の古い慣習ですが……以前、あの夜にあなたに見せたのはそういうことです」
かくっと力の抜けたアンジェリークをルヴァは慌てて支える。
「大切な……愛する?」
「ええ、愛しています。アンジェ」
そう告げるとルヴァはアンジェリークのほうへと屈む。
アンジェリークも踵を上げ背を伸ばすと瞳を閉じた。
「あ、そうだ。ロザリアに連絡しないと」
「えっ? ロザリアもこちらへ…?」
「いえ、……ルヴァ様に振られたらロザリアがいる主星にいく予定だったんです」
「っ! それは危ないところでした……主星は遠いですからね」
ルヴァはもう一度アンジェリークに啄ばむ様に口付けて、その小さな肩を抱きしめる。
するとアンジェリークが言う。
「この間ルヴァ様が私と親子みたいっていってらっしゃったじゃないですか?」
内容をルヴァは思い出していた。
「はい?」
アンジェリークが悪戯っぽく笑った。
ルヴァと視線が合う。
「ルヴァ様の呼び方がパパになる可能性はもう一つあるんですよ?」
その答えに思い当たったルヴァの顔が朱に染まる。
「昔お話した私の夢かなえてくださいね?」
「は、はい! きっと叶えてみせます! いえ、二人で叶えていきましょうね。アンジェリーク」
ルヴァはそう宣言するとアンジェリークの手をとる。ルヴァと同じくらい頬を染めたアンジェリークが少し力をいれて握り返すと二人は微笑みあった。
『私の夢ですか? そうですね……いつか小さくてもいいからパパとママと暮らしていたような
赤い屋根のお家で愛する旦那様とたくさんの子どもたちに囲まれて幸せに暮らしたいです』
The dream is realized.