子規鎮魂
正岡子規は明治35年9月19日(1902年)に亡くなった。生まれたのは慶応3年9月17日(1867年10月14日)であるから、満35歳に1カ月余した。亡くなる5日前に高浜虚子に口述筆記させた「9月14日の朝」と題する文字数にして1500字足らずの短い文章がある。死に至るまでの連日の拷問に等しい苦痛の中で、ふと得た心の平安を文字にしたものである。文章は次のように始まる。
「朝蚊帳の中で目が覚めた。尚半ば夢中であったがおいおいといふて人を起した。次の間に寝てゐる妹と、座敷に寝てゐる虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護の為にゆうべ泊って呉れたのである。」
雨戸を明け、蚊帳をはづすと、子規は口中の不愉快と喉の渇きを覚え、枕元の甲州葡萄を10粒ほど食う。それが何ともいえず旨く、「金茎の露一杯の心持がした」。4、5日前から子規の容体が急変し、この2,3日は病室には一種不穏の徴が兆す。昨夜も大勢の友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節)が来ていた。彼らが帰った後、子規たちが就寝したのは1時ごろであった。今朝起きて見ると昨夜に限って熟睡を得たためか、精神は非常に安穏であった。その後、文章は以下のように続く。
「顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、其儘にガラス障子の外を静かに眺めた。時は6時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風も無い甚だ静かな景色である。」
子規はそのまま目に入る庭のたたずまいを描写する。竹の棚に葭簀が3枚ばかり置かれ、糸瓜は10本ばかり痩せてしまい、女郎花が丈高く咲いて、鶏頭が低く5,6本散らばっている。秋海棠は衰えず梢を見せている。子規は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事は無い。嗽をし、虚子と話をする。すると南向うの家から、尋常2年生位の声が本の復習をする。納豆売りが来る。子規にとっては子供の声も納豆売りの声も何かかけがえのない天の声、別世界の声のように聞こえたかも知れない。食いたくはなかったが納豆を買わせる。そして虚子と須磨のことなど話す。
「虚子と共に須磨にゐた朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が1枚2枚だけひらひらと動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持である。何だか苦痛極って暫く病気を感じないやうなのも不思議に思はれたので、文章を書いて見たくなって余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらふた。筆記し了へた処へ母が来て、ソップは来て居るぞなといふた。」
以上で短い文章が終わる。この時子規の頭は最高の静謐に到達していた。この文章を口述筆記させるのに、あたかも神のお告げを語るかのように、一言一句が研ぎ澄まされている。正に「白鳥の歌」というべきである。5日後にはもうこの世にはいない子規はこの時明らかに自らの死を直感した。今のこの平安、静謐は神が与えた最後の贈り物であることを確信した。
明治35年6月2日の『病牀六尺』の記事は次のように書く。
「余は今まで禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
因みに問ふ。狗子に仏性有りや。曰、苦。
又問ふ。祖師西来の意は奈何。曰、苦。
又問ふ。………………………。曰、苦。」
子規はこのような拷問に等しい苦痛を味わう中で否応なく彼自らの悟りを開かざるを得なかった。そして苦に耐えて平気で生きることこそが悟りであると達観した。達観しても苦痛は去るわけではない。言語に絶する苦痛の中で平気で生きることなど言うは易くして行うは難しである。しかし子規はそれに耐え抜き「九月十四日の朝』の平安、静謐を得たのである。子規が持つこのような強靭な精神力があって初めて、近代俳句短歌革新の偉業がなったのである。子規の前に子規なく子規の後に子規なしというべきである。