嵯峨嵐山
京都には、東に蕪村の墓と芭蕉庵のある金福寺(本誌61号参照)、西に芭蕉十哲の一人、向井去来の落柿庵がある。時は春爛漫、落柿舎を訪れた。
京都駅からJRの快速で約二十分、嵯峨嵐山で降りる。市街を抜け、嵯峨釈迦堂を過ぎると嵯峨野の竹林。土曜日なので観光客でいっぱいだ。小倉百人一首文芸苑を横目で見ながら嵯峨二尊院を過ぎ、林の中を行く。多数の歌人の歌碑が立ち並ぶ林の陰の小さな広場の中に、「去来」とだけ刻まれた小さな墓石(写真上)が建っていた。
ここは、観光案内などでは墓とされているが、去来の遺髪が埋められている場所で、本当の墓は哲学の道近くの真如寺にあるそうだ。そのすぐそばに、西行法師出家当時の草庵跡と伝えられる、小さな「西行の井戸」(写真下)がある。
牡鹿なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな(西行)
落柿舎の由来
当代第一の漢詩人と讃えられた嵯峨天皇皇女の墓所の前を過ぎると、突然林が開ける。一面の菜の花畑がひろがり、落柿舎門前(写真上)に至る。
風景は緑から黄に急転する。落柿舎は去来の隠棲の庵だが、茅葺の屋根の下、入り口の壁にはいまでも蓑笠(写真下)が掛けてある。
これが掛かっているときは去来の在庵を示したという。庵はその後荒廃し、現在の建物は、明治二十八年に地元の名士が近くの弘源寺の捨庵を買い受けたものだそうだ。
小さな庭には数本の柿木が植えられ、その梢の先には、山肌をうっすらと桜色に染めた嵐山が霞んでいる(写真)。
柿主や梢はちかきあらし山(去来) 去来の時代には、庭に柿の木が四十本ほどあった。あるときその実を全部買う約束をした商人がいたが、夜強い風が吹き荒れ、実がほとんど落ちてしまった (去来『落柿舎』)。落柿舎の名の由来である。
裏庭には句会席に使われる次庵が建っていて、この日も句会が行われていた。庭の木陰では、高齢のご婦人達が句帖を手に句をひねっている。次庵の前庭には保田與重郎の 何もない庭の日ざしや冬来るや、虚子の 凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり 等のの句碑も立ち俳諧の聖地の雰囲気が漂う。
『嵯峨日記』の誕生
芭蕉は、元禄二年冬、四年夏、七年夏と三度ここを訪れた。元禄四年(1691)には、四月十八日から五月四日まで滞在し『嵯峨日記』を草した。芭蕉四十八歳、蕉風俳諧の白眉とされる去来・凡兆編集『猿蓑』が刊行された年でもある。
「元禄四辛未卯月十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舎に至。凡兆共ニ来りて、暮れに及て京ニ帰る。予は猶暫とどむべき由にて、障子つづくり、葎引かなぐり、舎中の片隅一間なる處伏處ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置、ならびに唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子ヲ盛、名酒一壺盃を添たり。夜るの衾、調菜の物共、京より持来りて乏しからず。我貧賎をわすれて清閑ニ楽。」(『嵯峨日記』芭蕉紀行文集、中村俊定校注、岩波文庫)
「落柿舎は昔のあるじの作れるままにして、處々頽破ス。中中に作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫せし梁、畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ、柚の花や昔しのばん料理の間」(前掲書)。「明日は落柿舎を出んと名残惜しかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、五月雨や色帋へぎたる壁の跡」(前掲書)」(写真)
向井去来
庵の主、向井去来は、慶安四年(1651)長崎生まれ。後に儒医となる元升の次男で、はじめは武士として武術に励むが、二十四、五歳のころ上洛、其角の紹介で芭蕉に弟子入りした。最後まで師に尽くし、芭蕉危篤の報を聞き直ちに大坂に下って師の臨終を看取り、同門の人々とともに遺骸を義仲寺に葬った。宝永元年(1704)病没。五十四歳。『去来発句集』の編集者蝶無は、その序で去来の人柄を次のように述べている。「風雅の名利を深く厭いひ、ただただ拈華微笑のこころをよく伝へて、一紙の伝書をも著さず、一人の門人をももとめざれば、ましてその発句の書集むべき人もなし。この寥々たるこそ、蕉翁の風雅の骨髄たる…」。一方、芭蕉も去来を深く信頼し、「汝は、去来、ともに風雅を語るべき者なり」と述べたという(『去来抄』)。
『去来抄』と天竜寺の桜
去来の表した『去来抄』は、芭蕉や門人の言葉を忠実に記録し、蕉風の真随を伝える俳論集だが、俳句初心者が読んでも心に沁みる芭蕉の教えがちりばめられている。曰く「およそ、物を作するに、本性を知るべし。知らざる時は、珍物新詞に魂を奪はれて、外の事になれり。魂を奪はるるは、その物に著する故なり。これを本意を失ふと言う。角(運河注:宝井其角)が巧者すら、時に取つて過ち有り。初学の人慎むべし」(『去来抄』)。
落柿舎を出ると嵐山渡月橋に通じる大通りに出る。途中天龍寺に寄った。夢窓疎石作の、嵐山を借景にした回遊式庭園は、しだれ桜が天空いっぱいに咲き誇っていた(写真)。
渡月橋は中学修学旅行以来、あれから半世紀の時がたっていた。
ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃(西行)