咳をしても一人 (方哉)
「エンジン音が、やんだ。船体が軽い衝撃とともに桟橋に接し、同時に蝉の声がかれの体をつつみこんできた。…乗客が、錆びた鉄製の浮き桟橋に降りてゆく。…歯のすりへった下駄で、かれはゆっくり歩いていった。呼吸が荒くなると肺臓の患部に悪影響をあたえるので、いそいで歩くことはしない。」(吉村昭『海も暮れきる』講談社文庫)。
小豆島の尾崎放哉終焉の地と二十四の瞳の分教場を訪ねた。高松港から高速フェリーで約三十分、土庄港に着く。
船着場から大通りを歩くと三叉路にぶつかり、左へ行くと西光寺、右に行くと放哉終焉の地・南郷庵である。小豆島には、四国霊場に模した八十八ヶ所の札所があるが、西光寺はその第五十八番札所であり、南郷庵はその奥の院である。
西光寺南郷庵
放哉は東京帝大法学部を卒業して保険会社に勤めたが、酒癖の悪さなどから会社を辞し、一人、京都、兵庫、福井で寺男をした。しかしトラブル癖は止まず、結核も悪化したので、高校・大学の先輩であり俳句の師、荻原井泉水(自由律俳句結社『層雲』主宰)の紹介で井上一二を頼って小豆島に渡った。井上は小豆島で醤油醸造を営む名家の出身の俳人である。小豆島は醤油製造の故郷でもあり、マルキン醤油記念館や「醤の郷」を見学できる。
放哉は当時の心情を井泉水への手紙に綴った。「寂シイ処デモヨイカラ番人ガシタイ、近所ノ子供ニ読書ヤ英語デモオシエヘテ、タバコ代位モラヒタイ、小サイ庵デヨイ、ソレカラ、スグ、ソバニ海ガアルト、尤ヨイ」。彼は海が好きだった。「…ただ、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛……というものに飢え、渇している人間なのでありましょう。」(「入庵雑記」)。
ちょうど西光寺の南郷庵が空いた。放哉にこの庵を世話し、日常生活を支えた西光寺の住職杉本宥玄師は俳句の縁で井泉水と親しかった。西光寺の本堂の前には、放哉 咳をしても一人 と、山頭火 その松の木のゆふ風ふきだした の句碑が建つ。
墓碑には、山頭火が昭和三年七月と同十四年十月の二回、放哉の墓参のため小豆島に来島したと記されている。西光寺から南郷庵までは十五分ぐらいの距離だが、「迷路のまち」という看板どおり、細い道がくねくねと続いている。海風や海賊から街を守る知恵だそうだ。
大正十四年八月二十日から、翌年四月七日死去するまで放哉はこの庵で生活することになる。「ジットシテ、安定シテ死ナレソヲナ処ヲ得」。庵に身を落ち着けた放哉は、井泉水にこう書いた。
南郷庵―尾崎放哉記念館
南郷庵は筆者の想像以上に立派な一軒屋だった。吉村氏の小説や入庵雑記を読んで、うらぶれた小さな庵の印象をもっていたが、どうして堂々たる和風建築である。平成六年に復元され、小豆島尾崎放哉記念館となったという。館内には自筆の原稿や井泉水の手紙、山頭火の短冊などがあるそうだが、運悪く管理人さんが留守で雨戸が閉まっていた。
「庵は、三つの部屋に仕切られていた。奥の六十間は仏間で弘法大師がまつられ、次の部屋は八畳間、ついで二畳の畳と一畳ほどの板の間の台所があり、土間に竃が二つ置かれている。仏間以外の部屋には天井はなく、壁は粗壁であった。」(吉村、前掲書)。八畳間にある小さな窓からは、塩田の向こうに海が見えたが、今は埋め立てられて海は遠い。「八畳の座敷の南よりのか細い一本の柱に、たった一つの背をよせかけて、その前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、お天気のよい日でも、雨がしとしと降る日でも、風がざわざわ吹く日でも、一日中、朝から黙って一人で座っております。」(放哉、前掲文)。
一日十句の自由律俳句
この時期、数多くの自由律の優れた句が生まれた。「一日一○句を目標にした。月に三○○句、半年で一八○○句である。句稿からわかるのだが、きちんと目標どおり作っていた。」(池内紀、尾崎放哉句集、岩波文庫)。
足のうら洗えば白くなる
火の気のない火鉢を寝床から見て居る
肉がやせてくる太い骨である
之でもう外に動かないで死なれる
春の山のうしろから烟が出だした
記念館の入り口には、障子をあけて置く海も暮れ切る の大きな句碑が建ち、庭には井泉泉の筆になる いれものがない両手でうける の句碑、さらに、四ヶ月ぶりに入浴して自分のやせ衰えた体にびっくりしたという井泉水への手紙の碑などが建っている。
酒癖と病魔
放哉は句作に励んだ。しかし、「かれは、句作以外に心をひかれているのは酒だけと言ってよかったが、酒癖は類のないほど質の悪いものであった。暴力を使うことはなかったが、酔うにつれて顔は青ざめ、相手を見据えて傷つけるような言辞を」(吉村、前掲書)吐きつづけるのだった。結核は進行し、体は衰弱した。大正十五年四月七日力尽きた。別居中の妻馨は臨終に駆けつけたが間に合わなかったという。庵を出て左手の小高い広大な墓地の斜面に、放哉の小さな墓がぽつんと建っている。墓が見つからないでうろうろしていると、元タクシーの運転手さんだったという方が、わざわざ案内してくださったばかりか、自宅にまで行き、古い新聞の切り抜きなどをみせてくださった。
最近移されたのか、墓石は新しくなっていた。墓の裏面には井泉水の「居士は鳥取市の人尾崎秀雄、某会社の要職に存ること多年、後其の妻と財とを捨て、托鉢を以て行願とす。流浪して此島に来り南郷庵を守る、常に句作を好み俳三昧に入れり、放哉は其俳号也 享年四十二歳」という文字が刻まれた(吉村、前掲書)。
墓参を終え、二十四の瞳の岬の分教場まで自転車をこいだ。懐かしさが込み上げてきた。分教場は、生涯一教師を貫いた我が家人の原点かもしれない。