近江一帯は、日本の歴史がぎっしり詰まった地域だが、隣の京都の陰に隠れてなぜか印象が薄い。私も新幹線の窓から琵琶湖をちらりと眺めるばかりで、その湖畔に立ったこともない。今年は年男なので、芭蕉翁墓参のついでにこの一帯を歩いてみた。
京都から東海道本線の快速で約十五分、JR石山駅から二両編成のかわいい京阪電鉄に乗り換え京阪石山駅で降りる。瀬田川を左手に鄙びた石山温泉宿街を徒歩十分、石山寺に至る。
急ぎ足で石山寺参拝
平安時代観音霊場として賑わった石山寺は、紫式部が七日間参籠し源氏物語の想を練ったことで知られる寺でもある。山門(写真上)を入ると天然記念物の大きな硅灰石がそそり立つ(写真下)。
石山寺の名の由来である。
石山の石にたばしる霰かな(芭蕉、以下同)
本堂への石段を登ると紫式部が机に向かう源氏の間(写真)が見えてくる。
幻住庵から瀬田の唐橋へ
参拝後タクシーで幻住庵へ。山の下でタクシーを降り、せせらぎ散策道を十五分ほど上がる。幻住庵は国分山の中、近津尾神社境内にある。近江の門人膳所藩士菅沼外記定常(曲水)の伯父がかつて暮らしていた庵で、芭蕉は、おくの細道の旅の翌年、元禄三年三月中旬義仲寺無名庵に滞在後、四月一日石山寺を参拝し、六日幻住庵に入庵した。「幻住庵記」はこの日から七月二十三日庵を去る日までの俳文である。
山道の途中には「たまたま心まめなる時は谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」と書かれた、とくとくの清水が今でも清浄な水を湧きだしている。
先ず頼む椎の木も有り夏木立
神社社務所前には大きな椎の木があり、句碑・幻住庵跡碑・経塚が並び立つ(写真)。
現在の幻住庵は平成三年に復元されたものだが、門前には、幻住庵記の全文が陶板の碑に収められている。
山を下り同じタクシーで瀬田の唐橋まで行く。ここは大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の皇子大友皇子が激突した壬申の乱の戦場でもあり、木曾義仲が源頼朝の命を受けた義経・範頼軍に敗れ討ち取られた歴史的場所だが、かつての近江八景瀬田の夕照の風情は消え、コンクリートの橋になっていた。
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
義仲寺、芭蕉の墓
京阪電鉄唐橋前から七つめ、小さな膳所駅に着く。踏切を渡り、ときめき坂を下り約十分。義仲寺(写真)に到着した。それは想像よりはるかに小さい、街中の寺だった。
「当、義仲寺の地は、その昔は粟津ケ原と云われ、寿永三年一月二十日、木曾義仲公はここで討ち死にせられた。その後、年を経て、一人の尼が来たり、公の塚に侍して、供養ねんごろなるによって、里人いぶかしみ、その有縁を問うに、みずからは名も無き女性と答えるのみだったが、この尼こそ巴御前の後身にて往昔当寺を巴寺と呼び、また無名庵の出た由緒である。戦国の世に至って、近江の国守り佐々木公は、木曾公墓を護持するため当寺を修復された。その頃の景観は、湖水を前にし、現在の龍ケ岡辺りに及ぶ山地を後ろにし、境内極めて広大であったと云われる」「(「義仲寺略誌」)。境内には巴塚(写真左 巴御前の墓)、義仲の墓(写真右)、芭蕉の墓(写真下)が並び建っている。
義仲の最後は平家物語に詳しく語られている。朝日堂は本堂で、義仲、今井兼平、芭蕉翁、丈艸などの位牌などがおかれる。翁堂は正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸と去来の木像があり、天井には伊藤若冲の四季花卉の図(写真)があったが、安政期に類焼し現在は模写である。境内の粟津文庫には、翁堂・無名庵・京都嵯峨の落柿舎の復旧に力を注いだ天明の俳僧蝶夢が収集した古書籍書画が収録されている。
境内の無名庵には、芭蕉が元禄二年暮れ以降たびたび滞在し、元禄三年と翌年八月には月見の会を催した。芭蕉歿後は高弟丈艸が庵主となり、多くの俳人が訪れる聖跡となっている。
芭蕉は、元禄十月十二日午後四時頃花屋仁右衛門貸屋敷で死去した。詰めかけていた去来、其角ら門人十人は、その夜、遺骸を舟に乗せ淀川を上り伏見まで運び、十四日深夜境内の義仲の墓の隣に埋葬した。路通『芭蕉翁行状記』によれば、芭蕉は臨終の一日前に「骸は木曾塚に送るべし。ここは東西の巷、さざ波きよき渚なれば、生前の契り深かりし所なり。懐かしき友たちの訪ねよらんも便りわづらはしからじ」と乙州に言い残したとある。
行く春を近江の人と惜しみける
義仲の寝覚めの山か月悲し
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
墓参を終えJR膳所駅から京都に戻る駆け足旅行だった。