我はまだ浮世をぬがでころもがへ
あの山もけふの暑さの行衛哉
大坂伊丹生まれの俳人上嶋鬼貫は、芭蕉の十七歳年下である。宝井其角と同い年になるから、芭蕉の弟子達と交流した俳諧師であると言えよう。東の芭蕉、西の鬼貫と並び称されることもあるが、宗匠として弟子をもつことがなかったので、鬼貫の句は芭蕉ほどには知られていないのではなかろうか。
『鬼貫句集』の跋文で蕪村は、「五子の風韻をしらざるものには、ともに俳諧をかたるべからず。ここに五子といふものは、其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫也。(略)ひとり鬼貫は大家にして世に伝わる句まれ也。不夜庵太祇、としごろこの事を嘆きて、もしほ草ここかしこに書き集めて、数百句を得たり」と述べている。
訪れた夏、大阪伊丹市の柿衞文庫で、「柿衞没後三十年 鬼貫―顕彰のルーツをさぐる」という小企画展が開かれていた。猛暑の東京を抜け出し、酷暑の大阪まで足を延ばすという殊勝な旅をしてみた。我が主宰と同じ「鬼」の字に引き寄せられたのかも知れない。
柿衞(かきもり)文庫
柿衞文庫は大阪駅より十三分、JR宝塚線伊丹駅で下車、徒歩十分のところにある(写真下左)。
伊丹市立美術館、旧岡田家住宅、旧石橋家住宅なども隣接した文化の郷となっている。
伊丹は、京・大坂に近く、酒どころ(写真上右)として経済的にも文化的にも栄え、俳壇も盛んであった。元禄時代の先駆者西鶴は、『織留』巻一「津の国のかくれ里」で酒の町伊丹の繁栄振りを描いている。柿衞文庫は伊丹の酒造業、岡田家二十二代岡田利兵衛(柿衞)翁の名を冠している。柿衞翁は明治二十五年伊丹に生まれ、伊丹町長・市長を歴任するとともに、鬼貫などの俳文学の研究家として活躍し貴重な資料を収集した。翁の没後、このコレクションは財団法人化し、昭和五十九年に開館した(写真下)。
文政十二年、頼山陽が画家・学者とともに箕輪の紅葉狩の途中伊丹に来遊し、伊丹名酒として名高い剣菱の醸造元で酒宴をしたことがある。席上見事な柿(台柿)がでた。この柿が岡田家の庭だけにあると聞いた頼山陽らは、各々の感慨を詩文や画に託したという。以後岡田家の当主は、柿を守るという意味で柿に由来する雅号を用いるようになった。
収蔵品は俳書を中心に書籍約三千五百点、軸物・短冊など約七千五百点。東大図書館の洒竹・竹冷文庫、天理大学図書館の綿屋文庫と並ぶ日本三大俳諧コレクションと称される。
中には宗鑑筆「風寒し」、芭蕉筆「古池や」「荒海や」、西鶴自画賛をはじめ、子規・漱石・碧梧桐・虚子・草田男・誓子などの近現代の俳人のものも充実している。筆者が訪ねた企画展の展示には鬼貫筆 世を泥と見る目も白き蓮かな、おもしろさ急には見へぬ薄かな、などの短冊や鬼貫著『仏兄七久留万』『七久留万拾遺』『独ごと』『犬居士』のほか、炭太祇選・蕪村跋『鬼貫句集』、高橋徳恒編『鬼貫発句集』などの貴重なコレクションが展示されていた。さらに蕪村の描いた「俳仙群会図」のなかに、刀を抱え片膝を立てた鬼貫の肖像も見られた(写真下)。会場で購入した『伊丹が生んだ孤高の俳人―鬼貫のすべて』(柿衞文庫刊)は美しい小冊子である。
鬼貫の生涯
鬼貫は、今から三百五十年ほど前、万治四年(1661)、酒造家油屋の一族である上嶋宗春の三男として伊丹に生まれた。油屋は清酒三文字の醸造元であった。鬼貫という俳号は十八歳の句集『当流籠抜』に初見される。和歌の紀貫之に因んで「鬼の貫之」つまり俳諧の貫之としたという。
伊丹は、前述したように風雅の土地柄だったので、鬼貫も八歳から句に親しみ、こいこいといへど蛍がとんでいく と吟じた。十三歳で松江維舟に師事。翌年から、伊丹に移住した維舟の弟子・池田宗旦の俳諧塾也雲軒に学ぶ。柿衞の先祖岡田酒人は、鬼貫の幼なじみで一緒に句作に励む仲であった。維舟は松永貞徳の高弟の一人であったが、後に西山宗因の檀林風に移る。鬼貫もこの影響下で、伊丹風豪放磊落な句風の中心俳人として活躍した。鬼貫二十歳のとき、也雲軒を訪れた宗因から「そなたは行々天下に名を知れん人ぞ」と声をかけられたというエピソードが残されている(鬼貫著『続七車』)。因みにこの年は芭蕉が深川に隠棲した年でもある。
鬼貫は二十五歳のとき大坂に出る。大久保道古から導引を学ぶと同時に、武士として生きる道を探した。上嶋家の祖先は奥州藤原家の武家である。俳人鬼貫の自伝には『仏兄七久留万』の自序があるが、昭和四十四年に公となったもう一つの自伝『藤原宗邇伝』には、三池藩、大和郡山藩、伊丹領主、越前大野藩に仕官した武家としての鬼貫が描かれている。先に述べた蕪村の描いた鬼貫像はこうした事情による。
「従来、鬼貫の折に触れての仕官は、大久保道古より学んだ医術導引によるものとされていたが、『藤原宗邇伝』が公にされて以降は、御勝手方御用として、諸藩の財政立て直しの任に当ったとする説が有力となった。」(復本一郎校注『鬼貫句集・独ごと』岩波文庫)。
鬼貫の俳論と俳風
鬼貫は五十八歳のとき刊行した俳論『独ごと』で、「貞享二年、二十五歳の春まことの外に俳諧なし」を悟ったと述べている。目前の常を誠実に詠む鬼貫の俳風が確立したということだが、これは、芭蕉が「古池や」を詠み蕉風を開いた一年前のことなので、鬼貫がいつ悟ったのかという問題は、研究者を悩ませているらしい。しかし「芭蕉とは別に『まこと』の理念を導入したのが、鬼貫だったのである。(略)そのこと自体、俳諧史の流れの中にあって、画期的なことだったのである」(復本、前掲書)とも評価されている。
三十歳のときの『大悟物狂』は、鬼貫のこの大悟を記念して編んだ句集である。代表作に、にょつぽりと秋の空なる富士の山 がある。「大悟物狂の発句はわかりやすい。言葉遊びが句の水面下に沈み、一句が言葉の風景として成立しているからだ。しかも、その風景は何げない目前の風景とも言うべきものだ。(略)目前の常をごく自然に、すなわち、意識もしないで表現できることを鬼貫は俳諧の大道と見ている」(坪内稔典著『上島鬼貫』神戸新聞総合出版センター)。
鬼貫は宗匠にはならなかったので、「世に伝わる句まれ也」(蕪村)だったが、没後三十年、明和六年炭太祇が選者となり蕪村が跋を書いた『鬼貫句集』がようやく刊行された。その十四年後、高橋徳恒編『鬼貫発句集』が世に出、幕末には伊丹で百年忌が行われた。明治三十六年、碧梧桐は『ホトトギス』誌上で鬼貫忌を題に俳句を募集した。これにより鬼貫忌は秋の季語となった。展示会場には碧梧桐筆 鬼貫忌いとなめどおによろこばず が展示されていた。
元文三年(1738)七十八歳で没した鬼貫の辞世の句は、夢返せ烏の覚ます霧の月 である。
鬼貫と芭蕉
鬼貫は蕉門の支考、惟然たちとの交流が深く、絶えず十七歳年上の芭蕉を意識している。「自身の著作にも芭蕉についてしばしば触れているが、直接の接点はなかったようだ。また芭蕉の側から鬼貫について語られることはついに一度もなかった。」(復本、前掲書)という。
鬼貫が、前述の『大悟物狂』を刊行した前年、芭蕉は奥の細道に出立した。鬼貫は『大悟物狂』の同年秋に、郊外の福島村での俳諧日誌『犬居士』を刊行しているが、この日誌は芭蕉の『幻住庵の記』を意識したものと言われる(復本及び坪内の前掲書)。芭蕉が幻住庵に滞在したのは『犬居士』が世に出た年である。
『犬居士』の後半には、大坂から江戸までの十三日の旅を描いた「禁足之旅記」が載せられている。これは、家に居ながらの空想の旅日記であるが、この旅は江戸「嵐雪に行て宿す。(略)たがいひにわらって夜もすがら両吟す」で終わる。
興味深いのは、「禁足之旅記」の初出は元禄三年であることだ。「ここには、前年の元禄二年九月に大垣でその行程を終えている芭蕉の奥州行脚、すなわち『おくのほそ道』の旅が大きく作用しているように思われる。有り体に言えば、芭蕉より十七歳年少の鬼貫の客気、新趣向の紀行文『おくのほそ道』にかかわる情報を入手したことにより、出版を急がせた、ということではなかろうか」(復本、前掲書)。芭蕉の旅の情報をいつ誰が鬼貫に伝えたのか、復本は興味深い謎解きをしているが、詳細は復本と坪内の前掲書参照のこと。
鬼貫には、人間に知恵ほど悪い物はなし という句がある。まことにその通りだと思われる昨今である。
参考書:
復本一郎校注『鬼貫句選・独ごと』岩波文庫、坪内稔典著『上島鬼貫』神戸新聞総合出版ンター、『伊丹が生んだ孤高の俳人―鬼貫のすべて』柿衞文庫