天草俳壇前主宰、故平野卍師は、『天草俳壇』50号から55号にかけて「小見山摂子さんのことども」を連載された。それは、小見山摂子氏、長谷川朝風画伯、中川宋淵師、宗像夫妻などの横顔を紹介し、天草俳壇誕生の貴重な記録となっている。
『天草俳壇』60号を記念して、そのルーツを訪ねた(2009年8月29日)。幸いなことに、小見山氏縁の「山廬」(山梨県笛吹市境川町)の近くにある南アルプス市には田淵淳風同人がいらっしゃるので田淵氏の車で案内していただくこととなった。
「私が小見山さんに初めて会ったのは昭和二十二年終戦すぎの頃である」「彼女は艶然と笑ひ乍ら、俳句をやりませんか、と云った」(平野卍連載より)。「(小見山さんは)朝風先生の紹介で蛇笏に紹介され、山廬に居住することになった。山廬とは蛇笏の雅号であると共に住居を示すものである。男ばかりの子供しかない蛇笏夫妻は可愛いわが児の様に愛した」「十五歳から二十歳のころであろうと推察される」(同上)。
新宿から朝8時30分発「あずさ7号」に乗る。昔、金剛主宰や私どもが働いていた出版社に、酔うと狩人の「あずさ2号」を大声でがなる、元気一杯の年少の友がいた。彼は最近、病気に倒れたという。車中、彼の歌声を思い出していた。♪さよならは、いつまでたってもとても言えそうにありません。私にとってあなたは、いまもまぶしいひとつの青春なんです♪
甲府は、残暑厳しい東京から来ると高原のようなに爽やかだった。炎天を槍のごとく涼気すぐ(蛇笏)。信玄公の銅像前で田淵氏が待っていた。さっそく彼のトヨタで蛇笏の展示を見るため山梨県立文学館に行く。CDプレイヤーから森山直太郎の「さくら」がながれた。「ずいぶん若い音楽ですね」といったら「娘のです」と照れていた。
文学館は大きな公園の中に、美術館と向き合って建っている。展示会場入り口には山梨ゆかりの作家と作品でコーナーがあり、奥のコーナーは、芥川龍之介と飯田蛇笏の常設展示コーナーとなっている。『ホトトギス』1919年3月号は金魚と蓮の色彩鮮やかな表紙で 青蛙おのれもペンキぬりたてか(餓鬼〔龍之介〕)が掲載されている。蛇笏のコーナーには、中川宋淵師筆による蛇笏最後の句 誰彼もあらず一天自尊の秋 が墨蹟黒々と展示されている。たましひのたとえば秋のほたる哉(蛇笏)は芥川の長逝を追悼して詠まれた句と知った。文学館の裏手には、蛇笏の句碑が建立されている。(2014年11月、山梨県芸術の森公園内に飯田龍太文学碑も建立された。水澄みて四方に関ある甲斐の国)
さていよいよ山廬の訪問である。街道を離れると、桃や葡萄畑が続く丘陵地帯をゆっくり上がっていき、境川町に入る。小高いところにある小さな無人の小黒坂公民館でトヨタを下りた。この脇に「俳句の散歩道コース」という小さい看板があり、しばらく歩くと突然屋根の下に大きな家紋を付けた、古い立派な民家がみえた。表札には「飯田」とあった。だが、ここは山廬ではないことをすぐに知ることになる。
山廬はその隣であった。門前で、飯田龍太のご長男秀實氏(現山廬文化振興会理事長)と田淵氏が話している姿が見えた。秀實氏のお顔は蛇笏・龍太にそっくりなのですぐにわかった。秀實氏は気さくに門前で立ち話をしてくださった。田淵氏は持参の『天草俳壇』最新号を渡し、中川宋淵師と自分の縁を語った。秀實氏も懐かしそうにそれに応じてくださった。私は長谷川朝風先生と小見山摂子先生の話をしてみた。長谷川画伯の猫の絵は、長年『天草俳壇』の表紙を飾っていたものだ。秀實氏は『雲母』の同人は熊本に多いこと、雲母の表紙には朝風先生の絵も多く使われていることを話してくださった。そして今、県立文学館のために朝風先生の絵を整理しているところだという。縁側から、風鈴が聞こえてくるような気がした。くろがねの秋の風鈴なりにけり(蛇笏)
秀實氏は、この秋ごろから、ここを訪ねてくる方々のために、付近の吟行などもする予定なので遠慮なくお出でくださいといって、名刺をくださった。翌年さっそく吟行で再訪し、ゆっくりと見学することができた(その時の紀行は『天草俳壇』第65号に田淵和子が執筆されている)。周辺は緑濃く、はるか下には甲府の市街が晩夏のけだるさの中に霞んでいた。旧宅の裏山は蛇笏・龍太の思い出の森・後山と竹林で孤川が流れ、今度ご案内しますと言ってくださった。父母の亡き裏口開いて枯木山(龍太) 一月の川一月の谷の中(龍太)。
「山廬後山(ござん)に登ると、蛇笏書による山口素堂の『目には青葉』(書は『眼には青葉』)の句碑がある。この句碑からさらに登ってゆくと甲府盆地が一望に見わたせる。いわし雲大いなる瀬をさかのぼる(蛇笏) ここに登る間に茶の木が自生している。蛇笏のころ一本の茶の木を植えた。その実から殖えたもので、雑木の間一面に自生している。蛇笏忌になると一斉に花が開く(略)。」(飯田秀實、山廬第2号)
帰り道、御坂峠の天下茶屋まで足をのばした。急な坂道を右に左に田淵氏は軽快にハンドルをさばいていく。バックには60年代のオールディーズがながれている。トンネルを抜けると、河口湖がパッと眼下に開けた。天下茶屋に着いたのだ。天気がよければ、眼前に富士の雄姿が広がっているはずだが、残念ながら雲が裾野まで降りていた。
太宰治はここに3ヶ月滞在した。「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。」(太宰治『富嶽百景』)。
名物のほうとう鍋を味わい、席を立つと、わずかに雲が切れて富士の頂上がちらりと見えた。
参考書
『蛇笏・龍太の山河』福田甲子雄編著、山梨日日新聞
『飯田蛇笏』(俳句シリーズ7)角川源義・福田甲子雄著、桜楓社
「山廬」第2号、山廬文化振興会