松竹蒲田の映画監督であった五所平之助は、明治35年東京神田に生まれている。本名は五所平右衛門。
「春燈」主宰の安住敦によれば、18、9歳のころすでに五所柏舟の俳号で、知る人ぞ知る俳人であったそうである。慶應義塾商工学校、現在の慶應高校を卒業後、大正12年に蒲田撮影所に入所、この頃に俳句から遠ざかり、再び句作をはじめたのは昭和10年頃に久保田万太郎らの「いとう句会」の同人となってからであるという(牧羊社「五所亭句集」より)。その後春燈などにも句作の場を広げていったようだ。俳号は五所亭。
あまぎ嶺(ね)の虹に妻呼び妻と見る
この句には、五所平之助の俳句のエキスがすべて含まれている。すなわち、「天城(伊豆)」、「妻」、そして「リフレイン」である。
自宅が伊豆にあった関係からか天城や伊豆にまつわる句は多い。
伊豆に住みて初日あまねき庭に佇つ
天城嶺の見えぬくもりの桜かな
あまぎ嶺に谺し冬の鳥射たる
伊豆の野がわが家を囲み草枯るゝ
天城嶺の句には、「伊豆の踊子ロケーション」という説明がある。蒲田撮影所に入った五所は、大正14年の「南島の春」で監督デビュー、昭和6年に日本初のトーキー映画「マダムと女房」を手掛けることになる。
冒頭の句に見るように相当な愛妻家であったようで、
妻は留守妻の色足袋夜となりぬ
寒風に富士よく見えて妻は留守
師走好日妻に呼ばれて富士を見る
秋雨や酔ひて眠りし妻の膝
妻を呼んであまぎ嶺の虹を見、妻に呼ばれて富士を見るのである。そして、しまいには、妻の膝枕で酔って寝てしまうのである。
映画人というイメージとは少々異なる謹厳実直な人柄が見えてくるが、
沈丁や夜でなければ逢へぬひと
花に灯る家なり家の娼婦たち
鶯や忘れるはずの人と逢ひ
などの句もある。
五所平之助の句の特徴は、何といってもリフレインの多さだろう。
書くものもなくものを書く余寒かな
永き日や波のなかなる波のいろ
人ひとりひとりびとりの春灯
昏れてゆき昏れてしまひぬ梅雨の海
飯田龍太は、永き日やの句について、「『永き日や』と上句に据えた季語の用意が絶妙である」と絶賛し、句会で同席した折に、大正末期に前田普羅の刊行した「加比丹(カピタン)」という古びた俳誌を出され、「これに私の句が出ているんです」といわれたエピソードを紹介している。(飯田龍太「季節の名句」)
監督としては、昭和43年の「明治はるあき」が最後の作品であるが、それまで「煙突の見える場所」、「挽歌」、「黄色いからす」など数々の秀作を残している。「煙突の見える場所」は椎名麟三原作で、千住にかつてあった、見る場所によって1本から4本までさまざまに見える「お化け煙突」がモチーフになっている。田中絹代、上原謙、芥川比呂志、高峰秀子という豪華キャストで、お化け煙突の見える中川の堤防そば(新小岩あたりか)の下宿屋が舞台である。ちなみに音楽は芥川也寸志で、芥川兄弟そろい踏みである。
煙突の四五本高き良夜かな
の句も残している。
句集のあとがきでは、尊敬していた久保田万太郎に「お出しなさいよ、句集を…」と度々言われたと書いているが、その死に際しては、
梅雨寒くことさら鮨の酢の匂い
と、鮨を詰まらせて窒息死した万太郎に思いをはせている。
昭和56年5月1日79歳で亡くなった。
参考:
「五所亭句集」五所平之助著 牧羊社 昭和41年
「季節の名句」飯田龍太著 角川書店 平成8年