2013年10月、秋の稲刈りを終えて直ぐ、思いがけず長崎の旅を楽しんだ。かつて長崎は歴史的にも地理的にも熊本より近かったが、天草五橋が出来て陸続きで熊本に出られるようになってからは、長崎との往来は大幅に減った。金剛空間の姉は活水女子大に入ったから、当時は天草の富岡から連絡船で茂木に上がって長崎の市内に入ったし、先考が鹿児島の指宿で教職に復帰してからは大学の休みのときは長崎から海を渡り、天草を経由して、更に海を渡り、水俣に上がって、汽車に乗って指宿まで帰省したと聞く。だから子供の頃は姉が長崎から帰省するのを楽しみにしていたし、長崎の名前は親しいものだった。しかし金剛空間が初めて長崎を訪ねたのは、20年ばかり前に運河が長崎まで来た折、その時は自分で車を運転し、フェリーで2時間ばかり船旅の後、茂木で食事をし、長崎市内で1泊し、翌日一緒にシーボルト記念館や諏訪神社を訪ね、その後、大村空港まで運河を送った帰り、慌ただしく、平和記念公園の平和祈念像を見学し、グラバー邸を駆け上り、再び茂木港から天草に戻った。
今回の旅は元報道カメラマンで現在は鍼灸師である、TBSブリタニカ時代の同僚であった旧友と長崎で待ち合わせ、市内の名所を路面電車や徒歩で巡った。有名な長崎唐寺を参観したかったし、坂本龍馬など幕末の志士が宴に興じた料亭花月も覗いてみたかったが、ここは予約を入れて食事をしないと坂本龍馬が切りつけた刀傷痕は見られないので玄関先で引き返した。門の脇に向井去来の句碑「いなづまやどのけいせいとかりまくら」が立っていた。長崎唐寺の中でも最も有名な赤寺と通称される崇福寺は第一峰門と大宝雄殿が国宝に指定され、また巨大な鉄釜に圧倒された。売店の老女は華僑三代目と誇らしげに言い、『長崎ぶらぶら節』撮影のロケで訪れた吉永小百合と撮った写真や新聞記事を見せる。
更に復元した出島を見学し、大波止の湾内に停泊中の世界一周クルーズの豪華客船や『龍馬伝』撮影の時制作した原寸大の咸臨丸のレプリカを眺める。夜は中華街で食事し、翌日は大浦天主堂、グラバー園を見学し、オランダ坂を歩いた序に活水女子大学の構内に入り、60年前に姉が学んだ校舎を見学する。ちょうどホームカミングデイで卒業生が黒いキャップやガウン姿で歩いているのを見て姉の卒業写真を思い出す。活水の名前は幼い記憶に焼きつけられていたが、構内の石碑に刻まれた文字を見て、キリストがサマリア人の女に語った「活ける水」から来たことも合わせて知った。これも何かの導きであったか。
活ける水掬びし乙女坂の秋 金剛