名古屋から東海道線で約三十分、大垣に着く。駅の近くにある大垣城は一五三五年築城され関ヶ原の戦いの際には一時西軍の本拠地となったこともあるそうだ。その後、戸田氏十万石の城下町、美濃路の宿駅として賑わい、また伊勢湾へ通じる揖斐川の水運も盛んだったことから、一帯の文化・政治・経済の中心となった。芭蕉がこの地を奥の細道むすびの地として選んだのも偶然ではない。大垣は、多くの親しい俳友・門人が暮らす蕉風俳諧の盛んな地だったのだ。
奥の細道むすびの地 大垣
大垣は奥の細道むすびの地である。
元禄二年(一六八九)三月二十七日(新暦五月十六日)、芭蕉は奥の細道に出立した。それから百五十日、六百里の旅を終え、同年八月二十一日(新暦十月四日)、大垣の如行邸に草鞋をといた。
「露通もこのみなとまで出でむかひて、美濃の国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合い、越人も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。」(奥の細道)。敦賀まで芭蕉を迎えに行き、大垣まで案内した路通(露通)は蕉門の俳人で、最初は彼が奥の細道に同行することになっていたが、何かの事情で曾良に変わったといわれている。駆けつけた越人は尾張の蕉風を開拓した蕉門十哲の一人である。
むすびの地記念館
大垣市船町、俳友谷木因の旧居跡に、平成二十四年四月、大垣市奥の細道むすびの地記念館(写真)がオープンした。
芭蕉館、先賢館、観光・交流館の3館と藩老小原鉄心の別荘から構成されている。芭蕉館には、3D映像で奥の細道を楽しめるAVシアターがあった。常設展示は、旅路ごとに区切られ、本文とその解説、関連資料が立体的に展示されている。特に興味深いのは『奥の細道』の自筆本(中尾本)、曾良本、元禄初版本、西村本(芭蕉が能書家・柏木素龍に書かせたもの)の展示だ。さらに進むと、人間・芭蕉、俳諧師・芭蕉、同時代人の芭蕉論、年譜・地図、芭蕉と谷木因・大垣俳壇の人々との交遊の展示がある。
記念館の脇を流れる水門川(写真)の畔には、並木に包まれて、如行霧塚、蛤塚、谷木因による美濃路から別れて伊勢へ向かう路しるべの句標(写真)が並び建ち、隣には芭蕉と谷木因の立像(写真)が記念館を見つめて佇でいる。
大垣俳壇の人々
大垣俳壇は貞門・檀林の風潮に触れ成長し、その中心人物は芭蕉より二歳若い谷木因である。舟問屋の長男として生まれたが、四十歳で家督を譲り、和歌・俳諧の道に専念した。北村季吟門下で芭蕉の相弟子にあたる。自らも『桜下文集』などを著し、全国的文化人として活躍し、八十歳で没した。
芭蕉が長旅の草鞋を脱いだ如行亭の近藤如行は、大垣の古い蕉門の人で、大垣藩士であったが早く致死し出家した。俳人には藩士が多かった。三人の子供とともに蕉門に入った宮崎荊口も大垣藩士である。中川甚五兵衛(濁子)は江戸勤番の際に芭蕉の門人となったという。
惜別の句 蛤のふたみにわかれ
九月六日(新暦十月十八日)朝、伊勢神宮遷宮参拝のため、芭蕉は木因亭前の船町湊から舟に乗り水門川を経て揖斐川を下り長島へ向かった。湊から桑名まで約十里の旅には曽良と路通を同行し、木因、如行らが途中まで同船し見送った。
芭蕉の九月二十二日付の杉風宛書簡(推定。展示品)には「木因舟にて送り、如行其外連衆舟に乗りて、三里ばかりしたひ候。」とある。このとき惜別の情が詠まれたという。
秋の暮行先々は苫屋哉 (木因) 萩にねようか荻にねようか (芭蕉)
霧晴ぬ暫く岸に立給え (如行) 蛤のふたみへ(ママ)別行秋ぞ (芭蕉)