小沢昭一は、昭和4年東京都の生れである。俳優としてはもちろん、伝統芸能の研究家、実践者としての評価も高い。死の直前まで継続していたラジオの長寿番組「小沢昭一的こころ」は多くのリスナーから支持を集めていた。
俳号は「変哲」。俳句は、永六輔や柳家小三治などとともに入船亭扇橋(当時は柳家さん八)を宗匠として始めた「東京やなぎ句会」がきっかけであるという(「俳句で綴る変哲半生記」岩波書店 以下「半生記」)。昭和44年に始まった同句会での最初の席題が「煮凝」で、
スナックに煮凝のあるママの過去
が最初に作った俳句だそうである。「半生記」には「詠んだ句全てを載せさせていただきました」として4000余句が収録されており、かなり読みごたえのある句集である。結構多いのが猫の句で、
ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり
夏至の日の花街猫もよぎらざる
猫禽をくわえて帰る寒き朝
花の雨花を運びて猫帰る
志ん生忌猫の眠りの深きかな
などの句を見ると、やはり猫好きだったのだろう。志ん生の句があるが、落語に親しんだのは子供のころに住んでいた蒲田にあった寄席がそもそもであるらしい。戦前に加藤武や大西信行等と都内各所の寄席に出入りし、そこで作家であり、寄席演芸の研究家でもあった正岡容(いるる)の知遇を得ている。ちなみに、昭和51年に仮面社から出版された「正岡容集覧」では、大西信行、桂米朝とともに編者として名を連ねている。
彦六の笑わぬ顔や初笑
雪の夜は廓話を志ん生の
風邪気味と気取る噺家春の寄席
寄席の灯のあかあかとして独楽の芸
早稲田大学在学中には、やなぎ句会の句友でもあった加藤武や大西信行等とともに、落語研究会(「庶民文化研究会」という名称であったそうである)を創設したり、俳優座養成所の研究生になったりと、その後の八面六臂の活躍を暗示するかのようである。
目立って多いのが風呂の句で、本人が最も気に入っていたらしい句が
湯の中のわが手わが足春を待つ
で、「わた史発掘」(昭和53年 文藝春秋社 平成21年に岩波書店から復刊)のあとがきにあるほか、「半生記」の帯にも使われている。風呂の句はそのほかにも
ざんぶりと湯のあふれ出て除夜の鐘
落第の倅と風呂に入りけり
遅き湯にひたれば遠き虫しぐれ
年の湯やお白粉おとす東西屋
などの句がある。東西屋とは、「とざいとーざい」と触れ歩いたことから「披露目屋」という江戸のころからあった商売のことを言うそうだが、この句ではチンドン屋のことであろう。また、妻を詠んだ句も目立ち、
髪の毛にしぐれの玉や妻帰る
老妻の髪切りたしと春隣
病む妻へ餅を小さく切りにけり
秋茄子を妻に土産と笑いけり
妻の手の静脈の青しじみ汁
などが見える。政治的に派手な活動をした方ではないが、「マスコミ九条の会」の呼びかけ人であり、
草むす屍忘れな草ぞ民草は
荒鷲の飛ぶやあれから五十年
浜木綿や特攻艇の征きし海
大君の辺にこそ死なず老桜 アコリャコリャ
などの句は、「戦争を知っている子どもたち」(わた史発掘)の思いが表れているようだ。最後の句は、アコリャコリャと付けたところにテレが見えるが、ちょっと斜に構えたような句で、
仲見世の裏ぬける癖そぞろ寒
菫など咲かせやがって市役所め
赤い羽根叫ぶ子供の列を避く
なども面白い。仲見世の句は、その後、
仲見世の裏抜ける癖冴返る
と改作している。
「半生記」の帯には多分自選であろう次の五句がある。
遥かなる次の巳年や初み空
落第や吹かせておけよハーモニカ
もう余禄どうでもいいぜ法師蝉
椎の実の降る夜少年倶楽部かな
寒月やさて行く末の丁と半
平成24年12月10日前立腺がんのため死去。享年83歳。自分の葬儀や死後のことを詠んだと思われる次のような句がある。作句年に注目していただきたい。
あと二日生きて香典帳見たし(昭和46年)
芭蕉忌に寄り添うごとく変哲忌(昭和47年)
変哲忌鯵のひらきを供えかし(昭和60年)
参考図書:
「俳句で綴る変哲半生記」(小沢昭一著 岩波書店 平成24年)
「楽し句も、苦し句もあり、五・七・五」(東京やなぎ句会編 岩波書店 平成23年)
「わた史発掘」(小沢昭一著 岩波書店 岩波現代文庫 平成21年)