君あしたに去りぬ ゆうべの心千々に何ぞ遙かなる。君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。岡の辺なんぞかく悲しき。
北寿老仙をいたむ
与謝蕪村は二十七歳から三十六歳ごろまで、結城(現茨城県)に滞在し、「北寿老仙をいたむ」を残した。この詩は北寿老仙・晋我の五十回忌に、長子によって上梓された『いそのはな』に収められているが、蕪村没後十年、庫の中から発見された。釈蕪村百拝書との署名があり、蕪村が僧籍にあったことを示している。
「この詩の作者の名をかくして、明治時代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じる」。萩原朔太郎は『郷愁の詩人 与謝蕪村』(岩波文庫)の冒頭にこう書いた。
結城の蕪村句碑巡り
この詩碑を訪ね結城の街を巡ることにした。東北新幹線小山から水戸線に乗り換え十分の結城には、七キロと十二キロの蕪村句碑巡りコースがある。最近、結城紬がユネスコ無形遺産に登録され、街は祝賀ムードだった。駅前の近代的な市民情報センター内にある観光物産センターではボランティアの方が相談にのってくれる。街には結城紬の展示・体験施設が点在し(写真)、さらに、明治初期から大正期に建設され現在も利用されている十七軒ほどの蔵造りを巡る見世蔵コースもある。
駅前ロータリーに立つと、怪異の世界に関心が深かった蕪村を偲ばせる句碑がある。
きつね火や五助新田の麦の雨
猿どのの夜寒訪ゆく兎かな
駅からしばらく行くと、白壁の築地塀に囲まれた市立結城小学校、その脇を通り抜けると城趾公園に至る。少し高台になった公園内には、行春やむらさきさむる筑波山 の堂々たる句碑(写真)があり、
遙か彼方には春になると霞みが浅くなるという筑波山が、冬空の下に霞んでいた(写真)。
江戸の宋阿の門に入る
蕪村は二十二歳のころ、江戸の早野宋阿(巴人、はじん)に入門した。宋阿は、其角、嵐雪を師とした俳諧師であったが、蕪村が入門したころは、日本橋石町(中央区日本橋)で夜半亭を開いていた。夜半亭は付近にあった時を告げる登楼にちなんでいる。蕪村はここに住み込み、俳諧師を目指していたが、宋阿は寛保二年(一七四二)、七十五歳の生涯を閉じてしまった。二十七歳の蕪村(当時、宰鳥)は、我泪古くはあれど泉かな とその悲しみを詠った。
結城の蕪村
師を失った蕪村は、宋阿の下で同学だった砂岡雁宕を頼って結城へ向かう。雁宕の家は代々醤油の醸造業を営み、父我尚、祖父宗春も俳人である。雁宕は宋阿と共に低調卑俗に陥りがちな当時の俳風の革新を目指していたが、師の死後結城に戻り、江戸俳壇の大島寥太との間で俳論を戦わせるなど活躍した。
蕪村は後に当時の心境を次のように述べている。「いささか故ありて…結城の雁宕がもとをあるじとして、日夜俳諧に遊び、たまさかにして柳居が筑波まうでに逢いてここかしこに席をかさね、或いは潭北と上野(こうずけ)に同行して処々にやどりをともにし、……」(新花摘)。最初の三年間は、北関東・奥州、さらに最果ての外の浜(津軽半島東岸)を行脚したと言われている。
結城紬の展示館や蔵造りをぶらぶらと見ながら、雁宕の世話で蕪村が長期間滞在した弘経寺まで歩く。弘経寺は、文禄四年建立された浄土宗の名刹で、浄土宗十八檀林の一つでもある。創建以来一度も焼失していないということで古刹の雰囲気がただよう(写真)。当寺には蕪村の描いた十点の襖絵などが残されていて茨城県文化財となっている。境内には蕪村の 肌寒し己が毛を噛む木葉経 の句碑や雁宕の墓と句碑もある。
蕪村は、二十九歳のとき雁宕の娘婿の後援を得てはじめて歳旦帖を出した。五句のうち四句は宰鳥号だが、最後の句、古庭に鶯啼きぬ日もすがら で蕪村の号がはじめて使われた。しかし、「これ以後……二十六年間、歳旦帳が一冊も残っていないこと、延亭元年以後蕪村を中心とする俳諧結社ができた形跡がないことなどを考慮すると、何らかの事情で、俳諧宗匠として生きることを断念したと考えざるをえない」(田中善信『与謝蕪村』吉川弘文館)。
後に文人画の大成者となる蕪村の関東放浪時代の絵は十六点あるが、このうち七点に落款はない。「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並に落款を用いるようになった」(田中、前掲書)ということらしい。
「北寿老仙をいたむ」は、延享二年(一七四五)正月、早見晋我(北寿)が七十歳で死去したのを悼んで、三十歳の蕪村が詠んだ詩だが、曽我は結城時代の蕪村にとって父親のような存在だったらしい。大きな詩碑が日蓮宗妙国寺にある(写真)。妙国時は弘経寺のすぐ近くにあり、境内には晋我の墓もある。早見家は代々名主で、曽我は醸造業を営み、結城十人衆と称されていた。若くして江戸に遊学、俳諧を榎本其角らに学び、帰郷後は結城俳壇の中心となった。晋我の妻は雁宕の叔母である。
「(この)詩を読むと、なにか急に眼の前がひろびろとしてきて、息がゆるやかになってくるような気がしないだろうか。心が若やぐというか、青年のようなひたすらな感傷に心がひたひたと満たされてくる感じがしないだろうか。……どうしようもない悲しみにとらわれ、途方に暮れていたことがあった、いや、たしかにそんなことがあったような気がする。」(芳賀徹『與謝蕪村の小さな世界』中公文庫)。
夜半亭蕪村
蕪村は三十六歳ごろ結城を去り京都に上がる。蕪村が京都へ上がる決意を告げたとき、雁宕は「再会興宴の月に芋を喰らふ事を期せず、倶に乾坤を吸べき」と蕪村を励ました(大谷晃一『与謝蕪村』河出書房新社)。蕪村は五十五歳で夜半亭を継ぐことになる。
蕪村はまた画人としても大成したが、ライバル池大雅は七歳年下、伊藤若仲とは同い年である。
結城の風土は若き日の蕪村の心に深く刻まれたに違いない。「春風馬堤曲」と「北寿老仙をいたむ」を読むとき、懐かしくも切ない蕪村の浪漫溢れる世界に浸ることができる。
我もまた往事茫茫なり。