春分の日に義兄がなくなった。昭和2年生まれであるから、金剛空間より15歳の年長である。年齢から言えば、不足はないのだが、あまりにも急に亡くなった感が強く、信じられない思いに襲われる。スポーツが好きで晩年までテニスやゴルフを楽しみ、一昨年の母の7回忌には、高速道路やフェリーを乗り継いで、姉と二人、鹿児島から半日かけて、自ら運転して来る元気があった。それが昨年6月ごろ、癌の発病に見舞われ、1年足らずでこの世を去った。金剛空間などは車を運転して10分そこそこの市街地まで用足しに行くのすら億劫に感じているのに比べ、はるかに行動力があった。外国にも仕事や遊びで50回以上出かけたと言って会食の場で楽しげに語っていた口ぶりが忘れられない。金剛空間はここ数年天草から国内各地に出かけることさえないという引籠りに比べると羨ましいような活動ぶりであった。息子が二人いて、社会人として大企業の幹部となり、孫たちも成績優秀で将来を楽しみにしていた。通夜や葬儀の席で孫娘が泣きじゃくっていたのを見ても、その深い愛情が察せられる。
義兄が初めて、金剛空間の前に現れたのは半世紀以上前の金剛空間が中学1年生の時であった。姉との結婚の承諾を得るために我が家を訪れたのであった。そして翌年には結婚式が執り行われ、姉は家族のもとを去って行った。このことは金剛空間にとっては生まれて最初の大きな衝撃であった。生まれてこの方家族の一員として一緒に過ごして来た姉が家族の元を去って行くという事実がいわば初めて社会という存在、他人の存在を教えたのである。つまり、自分がそこに生まれて育った家族というものは永遠に続くものではなく、社会の中で生まれ、社会の中で失われるという社会学原理を身を以て学んだのである。
結婚式の後、姉夫婦と再会したのはそれから2年か3年ばかりの後のことで、その時には長男が生まれ、金剛空間も叔父という社会的な身分を獲得していた。義兄を通じて社会が金剛空間に現れ、その後半世紀に亘って義兄の存在は常に社会との接点の意味を持ち、金剛空間が脱社会、あるいは反社会へ転落するのを防ぐ大きな重しであったような気がする。冥福を祈る。