平成26年7月21日に『天草俳壇』前主宰平野卍先生が亡くなられた。謹んでご冥福をお祈りする。誕生日の9月まで2カ月ばかり残し、満98歳の長命であった。元同人の鬼塚直絵さんから訃報が届いたのは初七日の日の午後であった。初7日に出席した俳句を通じての知り合いから知らせを受けたということであった。翌日、牛深まで弔問に出かけた。前主宰が『天草俳壇』を退会されてからはお目に懸る機会がなかった。一度牛深まで出かける機会があった時、訪ねたが、昼寝の最中ということでそのまま失礼した。『天草俳壇』がその後も引き続き存続していることについては陰ながら喜んでおられたということを漏れ承ったことがある。不図したご縁で短い間ではあったが、地元では最後の弟子ということで親しくご指導いただいたことを有り難く思っている。又浅学非才、経験も乏しく、世間知らずであるにもかかわらず、何の縁もゆかりもない人間を天草ばかりではなく、全国に渡って会員を擁した地元有数の俳句結社の第二代主宰に抜擢されたことも感謝申し上げたい。これも一期一会の御縁であったのかも知れない。東京のような大都会では大学や会社の関係でもなければ、見知らぬ人間が挨拶や会釈以上の付き合いまで入って行くのは極めて稀であるから、優れた人間は有り余るほどいたのだが、結局東京では自分の生き方に関わるような関係まで発展させることは出来なかった。又天草に戻ってからも直ぐに俳句の世界に近づいたわけでもなかった。天草に戻って20年ばかり立った頃、今から10年ばかり前、母の介護から解放されて、ふっと身辺が変わった一瞬の隙に俳句の世界への誘いが飛び込み、何の深い考えもなく応じたのがそもそものきっかけであった。1年ばかりは地元の俳句会に出たり、『天草俳壇』の会員になったり、深い関わりはなかったのだが、2年目の後半を過ぎた頃、これも誘われるままに結社の俳句大会に出席した時、その時の出席者は何人ぐらいいたのだろうか、20名はいなかったように記憶するが、その場で編集委員を引き受けさせられ、それからあれよあれよという間に関係が深まり、故小宮山摂子副主宰の墓参に連れ出されたり、平野卍主宰の九十の賀の祝辞を述べたり、往来が増した。自然と『天草俳壇』の内部事情も察せられるようになり、これも行き掛かり上、編集長など引きうけることになり、何もかもが被さって来た。元々の性格が荒っぽく、いい加減なところがあるから、これまでにも人から推されることなどなかったにもかかわらず、遂に二代目主宰を引き受ける羽目になったのは一体何の因果であったのだろうか。前主宰との間で目に見えぬ糸が張り巡らされていたのだろうか。改めて平野卍先生のご冥福を祈る次第である。