やまざとはまんざい遅し梅の花(芭蕉)
伊賀上野といえば、もちろん芭蕉の故郷だが、同時に忍者の里としても知られている。筆者も忍者からの連想で山深い里のイメージをもって上野市駅に降り立ったが、駅前は意外や近代的広場だった。現在、伊賀上野は、合併で伊賀市となっている。
東京から新幹線で名古屋まで、近鉄名伊乙特急―近鉄阪伊乙特急―伊賀鉄道伊賀線と乗り継ぎ上野市駅に至る約四時間の旅。帰路は上野市駅前から高速バスでおよそ百分、名古屋に直行できることを知った。駅前には生誕地にふさわしい芭蕉像が聳え立つ。しかし芭蕉の持つ杖の上半分は欠け、両頬には深い傷がある。バス停で出会った地元の方の話によると、像を損傷した者がいたそうだ。足元に植えられた紅花は芭蕉翁生誕三七〇年記念事業として町中を飾っていた。
まゆはきを俤にして紅の花
伊賀上野は城下町、京都奈良伊勢を結ぶ街道を有する盆地である。「小盆地を、山城、大和、伊勢、近江の四カ国の山がとりまき、七つの山越え道が、わずかに外界へ通じている。…これらはすべて日本の表通りへ通じ、この口を扼せば伊賀は権力の視界から消えた。」(司馬遼太郎『梟の城』)。
藤堂藩
初代藩主藤堂高虎は、家康から伊勢国と伊賀国を与えられ、伊勢の津に本城、伊賀上野に支城を設けた。伊賀上野は戦略上重要だったので、有力な家臣は上野に配属されたという。高虎が整備した市街は今でも古都の趣が残されている。
芭蕉は、藩有数の名家、五千石の侍大将藤堂良精(新七郎)に仕える。出仕の年齢には諸説あるが、料理人であったという説が有力だ。当時、農家の次男坊は、他家への養子、商家奉公、武士奉公の道しかなかったという(田中喜信『芭蕉』)。
良精の嫡子良忠は俳諧を好み、俳号は蟬吟という。京都を代表する俳諧師であり、源氏物語・枕草子・徒然草の注釈書を著した北村季吟に学んだ。芭蕉は良忠(蟬吟)に愛され、ここで俳諧の腕を磨き、宗房と号して活躍するようになる。しかし、良忠は、二十五歳で夭折する。松尾宗房二十三歳のときである。
芭蕉翁生家(伊賀市上野赤坂町)
上野公園の山を下り、伊賀市役所の脇を抜け、十分くらい歩くと芭蕉翁生家がある。家屋は想像よりも広く立派だったが、これは建て替えられたものだろう。生家西門には 古里や臍のをに泣くとしの暮 の句碑が建つ。
松尾家は累代ここに住んだ。明治一八年の当主松尾惣内の宅地は八六坪強と記されている。生家は昭和二五年、現伊賀市に寄付された。住居後園には帰郷の折に起居し「貝おほひ」を編んだ釣月軒が建ち、弟子から贈られた無名庵跡の碑がある。
松尾家の生業には諸説あるが、曰人編『芭蕉伝』によると「父与左衛門ハ全く郷士ナリ。作り(筆者注:農業のこと)をして一生を送る」とある。郷士は無足人(地侍の農民)で苗字帯刀が許された身分である。生家のある赤坂町の周囲は農人の居住地であった。伊賀国では城下町の中に農民がいたのである(田中、前掲書)。芭蕉は兄・半左衛門、姉、妹三人家族の次男として一六四四(寛永二一年)に生まれたが、父は十三歳のとき死去、母は四十歳で他界した。
二十九歳の春、江戸へ。上野天満宮の奉納
良忠と死別した宗房(芭蕉)は、一六七三(寛文十二年)一月二十五日、上野天満宮に三十番発句合「貝おほひ」を奉納し、俳諧師として生きる決意を胸に、その春江戸に下る。江戸に於ける芭蕉の生活については田中喜信『芭蕉二つの顔』に詳しい。
天満宮は、電柱に芭蕉の句や忍者人形が飾られている繁華街・本町通りの突き当たりにある。生家から徒歩十分の鳥居をくぐると、「貝おほい」顕彰碑と 初桜折しもけふはよき日なり の句碑が建つ。
「貝おほひ」は、伊賀の俳人と宗房(芭蕉)自身の句六十句を左右三十番に合わせ、宗房が判定し、優劣の理由を述べたものだが、半詞は当時の軽妙洒脱を自由自在に駆使し、談林風俳諧の先駆的役割を果たしているといわれる。
芭蕉翁記念館
上野市駅を出て左の地下道を潜り、観光案内所脇の山道をしばらく上がると、上野公園。ここには芭蕉翁記念館、俳聖殿、上野城、伊賀流忍者博物館などがある。
芭蕉翁記念館は、神部滿之助氏(間組社長)の篤志によって建物が市に寄付され、昭和三四年開館した。訪問時には「生誕三百七十年芭蕉展蕉風への道」が開催されていた。
芭蕉文庫には芭蕉の真跡、連歌俳諧資料が保管され、展示場には蝶夢編「芭蕉翁絵詞伝」、宗房編「貝おほひ」、北村季吟筆書簡、杉風、其角、嵐雪らの短冊、立机などが展示されていた。
俳聖殿
公園広場には芭蕉の旅姿を模す俳聖殿が建つ。昭和十七年生誕三百年を記念し元衆議院議員・故川崎克氏が私財を投じ建てたものだ。上層の円い屋根は旅笠、木額は顔、下層の八角形のひさしは袈裟、回廊の柱は杖と脚を表している。
天守閣と忍者屋敷・忍者博物館
公園内には、これまた故川崎克氏が「再建」した上野城が聳えている。桃山形式木造で昭和十年完成 天守閣復興を祝い、横山大観、川合玉堂の日本画や虚子の大色紙など四六枚が格天井を飾る。西側には「日本一」といわれる高石垣がそそり立つ。黒沢明の「影武者」のロケにも使われたそうだ。忍者の里は、外国人にも人気があり、日本人観光客に混ざって諸国の観光客も忍者ショーを楽しんでいた。近くには忍者装束の貸衣装屋もあり、大人も子供も忍者姿で颯爽と闊歩している。
芭蕉の帰郷
芭蕉は思いの外しばしば帰郷している。ついに一度も故郷に帰らなかった蕪村とは対照的だ。藤堂藩では他国で浮浪者が出るのを怖れ、一時帰国を命じるなど二重三重の制約を設けていた(田中、前掲書)ことにもよるだろうが、「代々の賢き人々も、古郷はわすれがたきものにおもほへ侍るよし。我今はじめの老いも四とせ過ぎて、何事につけても昔の懐かしきさまに…」(『千鳥掛集』知足編)という芭蕉の故郷に寄せる心情からでもあろう。
三三歳の帰郷時には甥の桃印を江戸へ伴う。四一歳、野ざらしを心に風のしむ身哉 「野ざらし紀行」を終え、九月帰郷、実家で越年した。この時 手にとらば消ん涙ぞあつき秋の霜 と詠んだ。
四四歳、旅人と我名よばれん初しぐれ 「笈の小文」を終え十二月帰郷。故良忠の子・探丸に招かれた別邸での花見では 良忠を偲んで さまざまの事おもひ出す桜かな の句を残した。このとき父の三十三回忌追善法要を営む。前述の生家の句碑「古里や臍のをに泣く」はこの帰郷の句である。四五歳、伊賀の門人達から贈られた無名庵で月見の宴を楽しむ。冬籠りまたよりそはん此はしら(ばせを)。四十六歳、八月末奥の細道を大垣で結ぶ。伊勢を経て帰郷。四七歳、一月三日から三月まで俳席を重ね上野滞在。「山里は」の句を残す。四八歳、一月上旬から三月末まで上野滞在。
五一歳、五月帰郷後、近江・京を旅し、七月盂蘭盆会のため再び上野へ帰る。旅立ちに詠んだ 麦の穂を便りにつかむ別かな は江戸の弟子達への最後の挨拶となった。家族も年老いていた。 家は皆杖に白髪の墓まゐり 盂蘭盆会の前月芭蕉庵で死去した寿貞の訃報に接する。数ならぬ身とな思いそ玉祭り 芭蕉は、取るに足らない身だなんて思わないで欲しい、と寿貞に優しく呼びかけている。二人の関係には様々な説があるが、芭蕉もこの数ヶ月後、大坂で帰らぬ人となるのである。
蓑虫庵
駅から南に真っ直ぐに延びる「銀座とおり」を十五分ほど歩くと右手奥に、服部土芳の草庵がある。道の途中には昔風の商店が散在し小京都を偲ばせる。蓑虫庵は、蓑虫の音を聞に来よ草の庵 からとられた。草木の生い茂る庭には、土芳の句碑や昭和初め東京深川から贈られた「古池や」の句碑がある。深川近くに住む筆者には誇らしい記念碑だった。
土芳は豪商木津家に生まれ藤堂藩士服部家を嗣ぐ。幼少期に芭蕉と親交があり、後に蕉門伊賀連衆の要となる。三(さん)冊子(ぞうし)、蕉翁句集、蕉翁文集、等の著書がある。三冊子は江戸時代中期の俳諧論書で元禄末年頃成立した「去来抄」と並ぶ芭蕉俳論の根本資料となっている。
◇ ◇
蕪村や一茶と同様、芭蕉の生涯には数々の謎が残されている。俳聖の謎解きはおもしろいが、余生短き筆者は、ただ忍者の里を彷徨するばかりである。
参考文献
松尾芭蕉この一句(有馬朗人・宇多喜代子監修、柳川彰治編、平凡社)、芭蕉全句(堀信夫監修、小学館)、芭蕉ハンドブック(尾形仂編、三省堂)、芭蕉のめざした俳諧(芭蕉翁記念館)、芭蕉二つの顔(田中喜信、講談社学術文庫)、芭蕉(田中喜信、新典社新書)