歩かない日はさみしい 飲まない日はさみしい 作らない日はさみしい(山頭火『行乞記』)
山頭火は生涯歩き続けた。風の中おのれを責めつつ歩く
生誕の地 防府
山陽新幹線新山口駅(旧小郡)から在来線で3つ目、防府に着く。防府は山頭火の故郷だ。明治十五年十二月三日、大地主種田家の長男として生まれた山頭火は、生涯で約八万四千句、そのうち三百句は故郷を詠んだものだという。
駅を出ると「山頭火顕彰の墓(千七百m)、山頭火の小径(九百五十m)、山頭火生家跡(九百m)、防府天満宮(千二百m)」と英語・ハングルも併記された案内が目に飛び込む。左手の観光案内所で、防府の三十四の句碑が紹介されている「句碑めぐりMAP」を手に入れる。北口広場に托鉢姿の山頭火が流水の中の岩に立ち、台座に ふるさとの水をのみ水をあび が刻まれる像が建つ。右手の地域交流センターには、山頭火の部屋が設けられているが、あいにく休館だった。
生家跡
護国寺に行く途中に生家跡がある。生家はかつては八百五十坪もあったというが、今は跡形もない。現在の小さな東屋は平成元年、没後五十周年記念展に合わせ建築された。中に置かれた句碑には、うまれた家はあとかたもないほうたる が刻まれている。
ここから、松崎尋常小学校への山頭火の通学路は「山頭火の小道」となっていて、くねくね曲がった細い路地の民家に短冊が掛けられ、句碑もある。
雨ふるふるさとははだしであるく
小径を抜けて十分ほど歩くと、少年の頃よく遊んだという防府天満宮が聳えている。
ふるさとは遠くしてこの芽
後に山頭火は太宰府天満宮を訪れ、
うしろすがたのしぐれてゆくか
と詠んだが、この句には「自虐」という前書きがつく。防府天満宮で遊んだ少年の日の輝きを思い起こしての句だろうか。
顕彰の墓墓のある護国寺までタクシーで行く。酔うてこほろぎと寝てゐたよ の句碑が門前で迎えてくれる。山頭火は松山で没したが、子息によって護国寺裏の共同墓地に埋葬され、昭和三十一年、俳友達により「俳人種田山頭火之墓」が建立され、護国寺に移されたそうだ。隣には、山頭火十一歳のとき、自宅の井戸に身を投げた母フサの墓碑が建つ。
そのとき父竹二郎は女性を連れて旅行中だった。母ようどん供えてわたくしもいただきます(其中庵休憩所句碑)。唯一の弟も山頭火三十七歳のとき自ら命を断った。これらのことや家の没落は、山頭火の一生に大きな陰を投げかけたであろう。
小郡の其中庵
在来線で新山口駅まで戻る。南口広場の網笠を両手で持つ山頭火像に手を合わせてから、細い道を曲がりながら行くと山裾に至る。
行乞流転の明け暮れの中に安穏な生活を夢見た五十歳の山頭火は、俳友の尽力を得て小郡に結庵する。庵は観音経の「其中一人作是唱言」から「其中庵」と名付けられた。ここで山頭火は多くの俳友に囲まれ、昭和七年九月から十三年十月まで七年間暮らした。
「昭和七年九月二十日、私は其中庵のぬしとなった。私の探し求めてゐた其中庵は熊本にはなかった。…ふる郷のほとりの山裾にあった。茶の木をめぐらし、柿の木にかこまれ、木の葉が散りかけ、虫があつまり、百舌が啼きかける廃屋にあった。廃人、廃屋に入る。それは最も自然で、最も相応してゐるではないか。…夜ふけて、そこはかとなく散る葉の音、をりをり思ひだしたやうに落ちる木の実の音、それに聴き入るとき、私は御仏の声を感じる」(「日記」)
現在の其中庵は、平成四年に再建された建物で、床の間には 空へ若竹のなやみなし の掛け軸が、庭には はるかぜのはちのこひとつ の句碑がある。道路を隔てた休憩所の前に、前述の母を慕う句碑が建っていた。
この生活も其中庵の老朽化のため断ちきられ、昭和十三年山口市郊外、湯田前町の四畳半一部屋で風来居を結んだ。付近には中原中也の実家もあったので、中也の弟と交流を深めたりした。しかし翌年、松山市に移住し、一草庵を結び終焉を迎える。一草庵については別項で述べる。「私の念願は二つ、たゞ二つある。ほんとうの自分の句をつくりあげることがその一つ、そして他の一つはころり往生である。」(「日記」)。
山頭火と放哉、井月
山頭火は、明治四十四年、三十歳で弥生吟社・椋鳥句会に参加し、田螺公の号で定型俳句を作る。大正二年(三十二歳)、荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」三月号に初入選、俳号を山頭火として開眼した。層雲には三歳下の尾崎放哉もいた。
大正十五年四月、四十五歳のとき「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」(行乞記)。分け入っても分け入っても青い山 その月七日には放哉が死去している。 鴉啼いてわたしも一人(山頭火)。小豆島の西光寺には、咳をしても一人(放哉)と 松の木のゆふ風ふきだした(山頭火)の碑が並んでいる。山頭火は二回墓参に訪れた。
一方、山頭火が井月の句を知ったのは、小郡在住の層雲の俳人を通してだった。後に山頭火は「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない。いつも考えるのは路通や井月のことである、彼等の酒好や最後のことである」と記し、昭和十四年五月、信州に眠る井月を訪れた。お墓したしくお酒をそそぐ
酒と流転と無常感。そして本当の自分の句を求める一生だった。
参考書
村上護ら著『山頭火と歩く』(新潮社とんぼの本)、村上護編『山頭火句集』(ちくま文庫)
大星光史著『漂白俳人の系譜』(世界思想社)、滝澤忠義ら著『信濃路の山頭火』(ほおずき書籍)、防府市文化協会編『防府の生んだ癒しの自由律俳人山頭火』